第3話
夜の市街地を
菊池も笑顔が絶えなかった。「宮宇さんが句読点といいだしたときには、まず無理だろうなと覚悟しましたよ。せめて行間の空欄にレ点を打った場合としてほしかった」
宮宇編集長は喜びを隠しきれないようすだった。「行間はやり直しってのが汰柱ルールなんだよ。だから句読点にしたんだが、自分でもいった直後に後悔した。まず当たらないだろうなって。ところが……」
「みごと的中ですよ。さすが宮宇さん」
「これで運を使い果たした気がする。来月の新刊は売り上げが総崩れかもなぁ」
李奈も心底ほっとした気分で、三人に歩調を合わせていた。汰柱はレ点を〝。〟に打った。なおも汰柱は渋ったものの、ただちに編集者らがグラスを置き、ご
宮宇が文庫本を差しだしてきた。さっき汰柱がレ点を打つのに使った本だった。題名は『世捨て人の帰還』、汰柱桃蔵著。宮宇がいった。「これ、あげるよ。幸運の一冊だけに、ゴミ箱に放りこまれたんじゃもったいなくてね。もらってきた」
「いいんですか?」李奈は文庫本を受けとった。
「ああ。その本はもう電子書籍で読んだから」
李奈は本を開いた。一か所のみレ点が打たれただけの、新品同然の文庫本。力強いレ点がみごと句点をとらえていた。落書きはそこだけで読むのに支障はない。
文面を眺めるうち、やはりギャンブルだったと痛感する。ほんの数ミリずれていたら、もう結果はちがっていた。句点はだいたい八十字に一回、読点も二十字から三十字に一回とされる。分の悪い勝負だった。幸運の一冊という表現はあながち大げさでもない。
それにしても、落丁本でも乱丁本でもないのに、自著だからといって粗末にしすぎだ。李奈はつぶやいた。「せっかくだからサインをもらってくればよかった」
優佳の顔から笑みが消えた。「引きかえす気なら、わたしは付き合わない」
「そんなつもりはないよ……」
「李奈のほうから汰柱さんに会いに行ったら、バーやカラオケどころじゃなくなるかもよ。どうする? 今度もレ点が句読点をとらえるとはかぎらない」
「うまくサインだけもらう結果にならないかなぁ」
「もしかしてギャンブル好き? 使っちゃいけないお金に手を付けてからが勝負だとか思ってる?」
「それ菊池
菊池もうなずいた。「僕も同じ菊池だけど、杉浦さんに賛成だな」
四人は互いに笑いあった。型押しアスファルト舗装の歩道の先、地下鉄麻布十番駅に下る階段付近に着いた。そこにさっきの女性編集者たちが群れている。駅まで歩いてきて、別れぎわにまだ雑談が終わらず、立ち話に興じていた。そんな状況に見える。
宮宇編集長が声をかけた。「ああ。みなさんお集まりで」
女性編集者らは頭をさげた。ひとりが宮宇にいった。「うちの編集長の
菊池が顔を輝かせた。「いいんですか? 杉浦さん、那覇さん。どうする?」
優佳の笑みは消えたままだった。「わたしは方角もちがうし……。きょうは遠慮します」
李奈はうなずいてみせた。「わたしも……」
「そっか」菊池が片手をあげた。「じゃ、ふたりとも気をつけてな」
「あのう、菊池さん」李奈は呼びとめた。「あさっては打ち合わせですよね。午後二時に」
「ええと、ああ、そうそう。そうだった」
「次回作のプロット、持っていったほうがいいですか。前もってメールで送りますか」
「いや。当日持ってきてくれればいいよ。それじゃよろしく」
宮宇編集長のほうは、もう少しきちんと
李奈と優佳は頭をさげた。編集者一行は下り階段に消えていった。
優佳がため息をついた。「やれやれ。結局みんな集まるなんて、汰柱さんひとりを
「編集者だけで盛りあがりたいのかも。小説家がいないほうが愚痴もこぼせるだろうし」
「こっちだっていいたいことは山ほどあるけどね。でも月々の給料が保証されてる人たちには響かない」
「ほんと」李奈は心から同意した。「働けど働けど……」
「そんなこといいながら
「事実は知らないけど生活苦に悩んで、
「そのお金で遊郭に行ったりとか……。男ってそればっかりなんだね」
「ちがう人もいるでしょ」李奈は優佳とともに階段を下りだした。「『一握の砂』の短歌には、啄木の偽らざる本心がのぞいてる気がする。だからあれは小手先の誤魔化しじゃないと思う」
たっぷり時間差を置いただけあって、編集者らと鉢合わせすることはなかった。優佳が大江戸線の改札に向かいながらいった。「わたしこっちだから。じゃ」
「またね」李奈は軽く手を振った。
李奈はひとり
「ちがう!」
流れはわからない。この耕四郎という人物が作者の代弁者なのか、それとも
しかし文面からは青臭さが漂う。なんとなく文学としての深みを感じない。表層的な言葉をつなぎあわせ、物語として成立しさえすれば、それで小説といえるのか。
1番線に電車が滑りこんできた。李奈は腰を浮かせた。小説家はなにをもって、世間から仕事の対価を受けとれるのだろう。
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