第2話

 汰柱桃蔵の仕事場は、あざの二十階建てマンションの最上階だった。ここから歩いて行ける距離に、自宅の一戸建てがあるという。

 李奈は窓辺に立った。リビング兼書斎の窓から見下ろす夜景は、たしかに素晴らしい。室内には大勢の編集者らが詰めかけている。集英社、文藝春秋、講談社、新潮社、小学館。ほとんどが三十代以下の女性なのが気になる。KADOKAWAだけは男ふたりだった。汰柱が注文した寿司やピザがテーブルに並ぶ。冷蔵庫いっぱいに酒類が買いこんである。すっかりホームパーティーの様相を呈していた。

 テレビやオーディオ機器類はない。部屋の隅に据えられたデスクのわき、書棚が壁に埋めこまれている。知らない本が多かった。有名どころはアーサー・C・クラーク著、とうのり訳の『2001年宇宙の旅』ハヤカワ文庫版ぐらいか。あとは汰柱桃蔵著の文庫が埋め尽くす。同じ書名が七、八冊ずつあった。著者見本が常に十冊ずつ送られてくるからだろう。

 汰柱桃蔵の小説は大半が書き下ろしで、まず単行本で出版するが、文庫化が早いことで有名だった。単行本を半年間で売り切ったのち、ただちに文庫版が店頭に並ぶ。鉄は熱いうちに打てといわんばかりの、商売にどんよくな姿勢。よって著者見本もまる一方のようだ。

 いま汰柱は大勢の編集者に囲まれ、世辞を全身に浴びていた。屈託のない笑顔から上機嫌ぶりがうかがえる。著者のほうが編集者に食事をおごるなど、レアケース以外のなにものでもない。いかに売れている作家でも、ふつう接待するのは出版社側のはずだ。ここにいる編集者たちは、推協のパーティーに引きつづき、タダ飯にありつけるならと割りきっているのかもしれない。

 李奈は居場所を失い、窓際に逃れた。すると近くに優佳が立っていた。ふたりは苦笑しあった。

 優佳がきいてきた。「どう思う?」

「どうって……」李奈は応じた。「変わってる」

「ね? なんていうか、ひとりで推協と張りあってるみたい……」

「ちょっと。それいっちゃ悪いって」

「でも事実じゃん」優佳は遠慮なく持論を口にした。「自腹を切ってまで編集者をもてなしてる。時の人たる汰柱桃蔵からの招待は、推協のパーティーより価値があると印象付けたがってる。各社からの依頼を独占することを切実に求めてそう」

「そうかな? 今後の付き合いを重視するというより、ただにぎわいの中心にいたがってるんじゃない?」

「あー。たしかに。推協のパーティーじゃ、そんな欲求は満たされないもんね。いかに売れてて有名だろうと、汰柱ひとりを持ち上げてくれる場じゃないし」優佳はめた表情でずばりといった。「ようするに寂しがり屋ってことでしょ」

「声が大きいよ」李奈はひそひそと制した。「周りにきこえるって」

「ちょっとお酒がまわってきたかも」優佳はからになったグラスをテーブルに置いた。グラスに添えていたナプキンを、どこに捨てようかと辺りを見まわす。

 李奈は手を差し伸べた。「捨ててきてあげる」

「ありがとう」優佳がくしゃくしゃになったナプキンを渡してきた。

 デスクの傍らに置かれたゴミ箱に向かう。ナプキンを捨てようとして、ふとゴミ箱の中身が気になった。文庫本が二冊、ゴミ箱のなかに放りこんである。

 それらを拾いあげた。どちらも真新しい。汰柱桃蔵著の文庫だった。自然に途中のページが開いた。全体的には読んだ形跡がないものの、一か所のみ大きく開かれたとわかる。左ページの真んなかあたりに、ボールペンでレ点が打ってあった。もう一冊のほうも、自然に開く見開きの右ページに、やはりレ点が見つかった。ほかのページはいちども開いたようすがない。

 近づいてくる人影があった。担当編集者の菊池だった。渋い顔で菊池はささやいた。「汰柱さんの悪い癖だよ」

「悪い癖……?」

 そのとき汰柱が声高にいった。「ほうすう社なんてとんでもない! 岩崎翔吾の『黎明に至りし暁暗』をだした会社だろう? 見る目のなさでは業界随一じゃないか」

 取り巻きと化した編集者らに笑いが渦巻く。汰柱は酒が入っているらしい。赤ら顔で鳳雛社のほか、数社をやりだまにあげ、好き放題にけなしつづける。この場にいる編集者の各社を褒めちぎることも忘れていない。

 菊池が声をひそめながら告げてきた。「汰柱さんは有名になる前、鳳雛社から出版を断られたことがあってね。それをいまだに根に持ってる。ほかの悪くいってる会社も同じ。大なり小なり因縁がある」

「トラブルを多く抱えてるんでしょうか……?」

「ああいう性格だからね。うちも新作をだしたい反面、こじれたらどうしようと気が気じゃないよ。だせば売れることはわかってるんだけど」

 汰柱はスマホをいじりながら、近くの女性編集者と談笑していた。「そんなこといって、なにを追加注文すればいいんだ? 酒屋はなんでも届けるといっとるぞ。ビールか? ワインか? 日本酒か? 意見がまとまらんな。そうだ」

 菊池が李奈にささやいた。「ほら始まった。こっちに来るぞ」

 その直後、汰柱がこちらに向かってきた。大勢の取り巻きを引き連れている。汰柱は笑顔のまま書棚に歩み寄った。「漢字ならビール。ひらがなならワイン。カタカナなら日本酒にしよう」

 書棚から自著の文庫を一冊引き抜く。デスクからボールペンをとりあげた。汰柱は顔をそむけ、文庫の任意のページを開いた。手もとを見ないまま、ボールペンでレ点を打った。

 菊池が小声でこぼした。「さてお立ち会い、というよ」

 汰柱は本をデスクの上に伏せた。「さてお立ち会い」

 思わず笑いそうになる。李奈は口もとを手で覆いながら見守った。汰柱は注目を浴びるのが好きらしい。もったいぶりながら文庫をとりあげ、見開きのページを上に向ける。レ点の角は、右ページの中央付近、カタカナに重なっていた。

「カタカナだ!」汰柱はスマホを耳にあてた。「もしもし、またせた。日本酒を頼みたい」

 そういいながら汰柱は文庫本をゴミ箱に放りこんだ。李奈はもやっとした気分になり、ゴミ箱のなかを見下ろした。文庫本のカバーは新品同然の光沢を放っていた。

 電話注文を終えた汰柱が、李奈に目を向けた。「きみも日本酒をたしなむか? さかぐちあんもいっとる。なぜ飲むのかといえば、なぜ生き永えるかという疑問と同じだと」

「いえ、お酒はちょっと……。それよりこれ、もったいなくないですか」

「あん? 本の話か。いいんだ。著者見本は溜まる一方でな」

「でもご友人にあげたりとか……」

「友人なら買わせないとな。買わない奴は友人じゃないだろう。ブックオフに売り飛ばしてやりたいが、そっちで安く買われるのもしやくだしな」汰柱が豪快に笑った。

 また取り巻きが仕方なげに同調する。乾いた笑い声が室内にひろがった。

 李奈はゴミ箱から目を離せなかった。「せっかく映画化の帯がついてるのに……」

 汰柱が口もとをゆがめた。「記念として保存しとくべきだって? きみは可愛いな。私にとっては、たかが帯でしかないよ」

 優佳が近寄りながらいった。「汰柱さんぐらいになると、最初から映画化がきまってたりするのかも」

「いや」汰柱のけんたてじわが刻まれた。「さすがにそれはないな」

 編集者らが一様にうなずく。宮宇編集長が優佳を見つめた。「映像化前提の小説執筆依頼というのは、まずないんだよ。あったとしたら、その後はめるのが既定路線でね」

 別の編集者がいった。「映像関係者は諸事情に振りまわされていますからね。かならず通せると確約できる企画なんかないはずです。どんなに売れている作家さんでも、映像化は事前に決定しないものです。文学賞の受賞が約束されないのと同じで」

 汰柱がデスクの端に腰かけた。「とはいえ、いちど映像化で本の売れ行きが伸びると、なんとかそれを前提に書けないかと下心まるだしになるのが、作家あるあるでな。脚本をやろうとしてみたり、プロデューサーを紹介してくれと頼んだり、いずれも無駄な努力に終わる」

 今度は編集者たちも純粋に笑っているように思えた。汰柱の発言に誰もが共感したらしい。出版業界に携わる人々にとっては常識なのだろう。

 せっかくの機会だからきいておきたい。李奈はたずねた。「映像化というのは、どう決まるものなんですか」

 汰柱が世間話のような口調で応じた。「本の出版後、見知らぬプロデューサーが編集者に連絡してきて、映画かドラマにしてもいいですかと問いかけてくる。本決まりになったら契約を交わす。それだけだ」

 菊池がさばさばした顔を李奈に向けてきた。「こっちは小説を出版するだけなんだよ。二次使用はどこかほかの商売でしかない。原則として口だしもできない」

「ああ」汰柱がため息まじりにいった。「芥川りゆうすけつかもとふみに送った恋文に、小説家は日本でいちばん金にならない商売だと書いとる。私は芥川の中期の作品が好きでな。『地獄変』にあるように、芸術のための芸術を追求する姿勢、あれこそ小説家の本望だろう」

 編集者らは神妙にうなずいたものの、どことなくそらぞらしい態度がのぞきだした。当然かもしれない。商魂たくましい汰柱桃蔵が、柄にもないことを口にした。李奈もどう受けとるべきか戸惑った。いまの発言と、この豪華なマンションの一室、著者見本をゴミ箱に放りこむ行為。まるっきり合致しない。

 汰柱がまた笑顔に戻った。「ところで日本酒が届いて、食事もひととおり済んだら、その後はどうするかね。あかさかには私の行きつけのバーがある。あるいは若い諸君のためカラオケに行くのも悪くない。このまま部屋で歓談するのもいい」

 一同の表情が凍りついた。みなしりみしているのはたしかだが、誰も断れずにいる。

 優佳が途方に暮れた顔で立ち尽くしていた。李奈も同じ気持ちだった。この先まだ付き合わされるのか。

 無言の拒絶はまるで効果を発揮しない。汰柱はとして書棚に向き直った。「漢字が赤坂、ひらがながカラオケ、カタカナがこのまま歓談ってところか」

 宮宇編集長が割って入った。「もうひとつ別の選択肢を加えてはいかがでしょう。句読点に当たった場合、きょうはお開きとか」

 汰柱がむっとした。「お開き?」

「いえ、あのう。楽しみはまた次回にとっておくというのも、悪くないんじゃないかと思ったしだいで」

「……そうだな。きょうのところは家に帰ってゆっくりするというのも、たしかにありかもしれんな。推協のパーティーで演説したせいか、少々疲れとる」

 女性編集者らの顔がほころぶ。しかしあまり露骨に感情を表出させられないようだ。どの顔も自制心が働き、ぎこちない微笑にとどまった。

「わかった」汰柱はデスクに向き直った。「その選択肢も加えよう。一冊とってくれ」

 宮宇編集長が文庫本を渡す。「これ未使用ですよね?」

 汰柱はぱらぱらとページをめくった。なんの書きこみもない。汰柱はうなずいた。「新品だ」

「どうぞ」宮宇がボールペンを差しだした。

 一同の祈る気持ちはあきらかだった。句読点に当たってほしい。汰柱は顔をそむけ、何度か本を開き直したのち、一か所にきめたようだ。ボールペンでレ点を打つと、本をデスクに伏せた。「さあお立ち会い!」

 女性編集者のひとりがいった。「赤坂のお店、行ってみたいですね」

 別のひとりも大仰なほどの笑みを浮かべた。「カラオケもいいかも」

 絶対に本心ではない。発言した当人たちの顔にそう書いてある。だが汰柱は真意に気づかず、さも楽しそうに声を張った。「そうだろう! 赤坂のバーは本当にお勧めだ。カラオケもろつぽんにいい店が……」

 まだ結果を見せずに引っぱるのか。誰もがげんなりする反応をしめしたとき、宮宇編集長がたまりかねたように、伏せられた本を上向きにした。みないっせいに息をみ、見開きのページを凝視した。汰柱の表情がわずかに険しくなった。

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