第3話

 講談社で岩崎翔吾と対談してから、何か月かが過ぎた。

 秋の深まりとともに、日が極端に短くなったと感じる。午後三時をまわると、陽射しは大きく斜めに傾き、すでに赤みを帯びていた。

 KADOKAWAビル三階には、アルファベットが振られた会議室が連なる。Eの小部屋で、李奈は担当編集者のきくと向かいあった。

 三十代半ば、面長に丸眼鏡、スーツの肩幅にあまりがある。そんな菊池の外見は、初対面のころから変わりがない。

 テーブルの上には、縦書きにプリントアウトした原稿の束が置いてあった。一枚目は題名と著者名のみの印字。『トウモロコシの粒は偶数』杉浦李奈著。これが初校ゲラの束に化けるまでが第一関門だった。

 いつもならけんしわの菊池が、きょうは上機嫌にいった。「編集長が褒めてたよ。ライトじゃないミステリもいけるねって」

「ほんとですか」李奈の心は躍った。

「書いてあることは事実だよね? 終盤の謎解きに関わってくるからさ。奇数の粒のトウモロコシがあったりしたら、オチが微妙だよ」

「絶対にまちがいありません」

「なら出版してもおかしくない水準だよな」

 笑顔が若干こわばり、半笑いにとどまる。どうにも奥歯に物が挟まったような言い方にきこえる。李奈はたずねた。「出版……になるんでしょうか」

「そう。でてもおかしくないと思う。けどさ、売れるためには、なんていうかこう……」

「セールスポイントとか?」

「それだよ。明確な売りがないとね。知ってるだろ、新刊本は書店に並んだら、たちまち売れなきゃいけない」

「宣伝していただけませんか。文庫じゃなく単行本なんだし……」

「うちが苦しいの知ってるだろ? ところざわにあんなの建てちゃったからさ」スマホの着信音が鳴った。菊池が応答した。李奈に対する態度とは打って変わり、やたら愛想よく声を弾ませた。「どうも! おひさしぶりです。いえいえ。今度ぜひうちでもと思いまして」

 通話が始まったら、終わるまで待たされる。新人作家の常だった。売れればこんなことはなくなるというが、本当の話だろうか。

 菊池はいんぎんていちようなあいさつを繰りかえしたのち、ようやく電話を切った。「こまぞのまさたか先生。今度飲みに行く約束があって」

 大御所の純文学作家だった。ベストセラーランキングの常連でもある。李奈はめた気分でささやいた。「そうですか……」

「やっぱ駒園先生みたいにね、名前があればちがうよね。角川文庫も苦労してる。たとえばマスコットキャラのハッケンくんだよ」

「ハッケンくんがなにか……?」

「着ぐるみには百万円かかってる。なのに行く先々でチーバくんとまちがえられる」

「鼻が赤くて身体が黒いのがハッケンくんなのに」

「いろが逆でも、みんなチーバくんと錯覚しちまう。それだけネームバリューは大きいってことだ」菊池はいま思いついたような口調でいった。「そうだ。前に講談社で岩崎翔吾先生と対談したろ? 帯に載せる推薦文を頼もうか」

「そんな。わたしからはとても」

「心配いらないよ。もちろん編集部から依頼する。杉浦さんは知り合いだから、たぶん引き受けてくれるだろ」

 それが出版の条件だといわんばかりだ。おそらくもう決まっているのだろう。岩崎翔吾に推薦文を依頼する。受諾されしだい『トウモロコシの粒は偶数』は出版の運びとなる。断られれば出版は見送られる。

『黎明に至りし暁暗』に次ぐ、岩崎翔吾の第二作をめぐり、出版大手各社は争奪戦を繰りひろげた。ひところ出版界はその話題で持ちきりだった。KADOKAWAも岩崎にアプローチしていたが、結局はぶんげいしんしやからの刊行に決まったらしい。近いうち出版されるのだろう。KADOKAWAの編集者が、岩崎翔吾の知名度を利用したがるのも当然だった。

「あのう」李奈は菊池にきいた。「わたしの本なら、岩崎翔吾さんに推薦文をねだりやすいってことで、ゴーサインがでたんでしょうか」

「そんなことはないよ」菊池のどうこうは開いていた。見え透いた噓を自覚したのか、ぼそぼそと付け加えた。「全然影響なしとはいわないけど」

 李奈は落胆とともにささやいた。「ハッケンくん……みたいなもんですよね」

「まあ……現時点ではそうかな」菊池は人差し指の先で眉間をいた。「チーバくんの推薦文をたすき掛けにしてりゃ、少しはハッケンくんの価値が変わってくるだろ?」

 互いの顔に笑いはなかった。李奈はため息をついた。「僕より全国区のハッケンくんをよろしくね。チーバくん」

「そう。キャッチコピーの趣旨はそんな感じだな」菊池が原稿の束を縦にし、テーブル上で揃えた。「『全国区の』より『世界の』としたほうがいいな。上のご機嫌とりには」

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