第2話

 対談が終わり、岩崎翔吾が席を立った。サインを求めるならいましかない。李奈はハンドバッグからハードカバー本をとりだした。『黎明に至りし暁暗』の初版を岩崎に差しだす。李奈は頭をさげた。「申しわけありません。お手数でなければ……」

 サインペンは編集者が用意してくれていた。岩崎は愛想よくペンをとった。「そんなに遠慮しなくても。この本、いかがでしたか」

「素晴らしかったです。情緒的で感動的で……。でも、あの、いえ。なんでもないです」

たんのない意見をきかせてください。気になるところがあったんでしょう?」

「ええと……。終盤に主人公のゆきが、誰を愛していたか語ってくれるかと……」

 岩崎はサインしながら愉快そうに笑った。「みなさんそうおっしゃる。私はああするべきだと判断したんです。裄人の内面を、あえてあきらかにしないのがよかったという感想も多いし」

 少数派のはずだ。大変な話題作だったのに、アマゾンの平均評価が星三つにとどまっている、その理由もそこにある。

 主人公の裄人は、誰かへの愛を支えに生きている。対象が何者なのか、裄人自身にもあいまいなまま物語は進む。彼の内なる情は誰に向けられていたのだろう。亡き恋人か。妹か。父や母とも考えられた。心の内側が明確につづられていれば、未来えいごうの名作になりえた。そこを残念がる声が圧倒的多数を占める。肝心な結末を読者の想像にゆだねてしまったのは惜しい、文芸評論家もそう書いていた。とはいえ岩崎には、まったく後悔の念はないようだ。

 李奈はきいた。「さっきのお話ですが、文学研究はどっちが正しいんでしょう? 作品にのみ目を向けるべきですか。それとも著者の人生まで踏まえるべきでしょうか」

「芥川や太宰がどんな人物だったか、本当のところは知るよしもない。著者と作品を併せて考えようとすれば、偏見に流されたり理想を重ね合わせたり、とにかく正確性を欠くでしょう」

「そうですよね……。文学研究としては正しくないってことでしょうか」

「そうともかぎりません。その先入観に満ちたものの見方こそが、独創的研究といえるかもしれない。なんでも客観視すればいい科学とはちがいます。ええと、お名前は杉浦李奈さんで?」

「はい。本名なので」

「いい名前ですね」岩崎は本を差しだした。「どうぞ」

「ありがとうございます。一生の宝物になります」

「おおげさな。でもそれなら」岩崎はカバンをまさぐった。「私にも宝物を分けていただけませんか」

 とりだされたのは見慣れた文庫本だった。アニメっぽい表紙絵の『雨宮の優雅で怠惰な生活』第一巻。杉浦李奈のデビュー作だった。

 同室にいる編集者らが控えめに笑う。李奈は顔が火照るのを自覚した。

「こ」李奈は取り乱した。「こんな物をお目にかけては……」

「なにをいうんですか」岩崎が表紙を開いた。「ここにサインをお願いします。もう一気読みでしたよ。あきらが山奥の小学校で再会する、あのくだりがよかった」

「お読みになったんですか?」

「もちろんです。対談相手の著作を読まないなんて失礼でしょう。速読に自信があったので、まってるあいだに最後まで読みきりまして」

 秋山がからかうような目を向けてきた。「いまの岩崎さんの感想、対談の記事中に差しこんでおこうか?」

「ぜひ!」李奈は思わず語気を強めたものの、周りの空気を察し、しどろもどろに言葉を濁した。「あ、いえ。あのう……」

 岩崎が秋山にいった。「私からもお願いします。杉浦さんによる『黎明に至りし暁暗』の感想も、記事のなかに挿入してください。せっかくお互いの作品を読んだのに、ひとことも触れないんじゃもったいない」

「わかりました」秋山がノートにボールペンを走らせた。「おふたりのご希望なら」

「それはそうと」岩崎は李奈に向き直った。「時系列が行ったり来たりする構成で、かなり複雑な作品でしたね。最初から最後まで順に書いたんですか?」

 李奈は恐縮しながら文庫本にサインした。「はい。第一章ができたら、メールに添付して編集に送って、第二章ができたら、また同じようにして……」

「なら前のほうを直したくなったときには、再送しなきゃいけませんね」

「ええ。それでも章を書きあげるたび、編集に送っておかないと不安なんです。パソコンがクラッシュして、データが吹っ飛んだりしたら困るし」

「USBメモリーにバックアップするでしょう?」

「もちろんしますけど、それでも心配性で。あのう、お名前は岩崎翔吾様で……?」

 岩崎が笑顔でうなずいた。「もともと大学の講師なので、私も本名です」

 李奈は書き損じないよう、一字ずつ丁寧に記名した。「岩崎さんは章の順番を、前後して書いたりするんですか?」

「いや、絶対にしませんね。登場人物の心理描写にが生じがちだし、なによりまやかしめいた作品になります」

「やっぱり……。本格的な文学はちがいますね」

「どうあっても最初から最後まで、順を追って書くのが常です。気にいらなければ、そこまでのすべてを消して、また冒頭から書き直します」

「徹底してますね。途中で編集に送ったりは……?」

「それもしません。脱稿してから作品を丸ごと、メールに添付して送ります。そのほうが意見を挟まれなくてよいのでは?」

 李奈は苦笑し、文庫本を岩崎にかえした。「原稿のデータを自分ひとりだけで保管するのは、どうも不安でして」

「私はUSBメモリー一本だけしかバックアップをとりません」

「でも火事になったら……」

「また書けばいいでしょう。それで充分だと思いますが」岩崎は文庫の表紙を開き、満足そうに眺めた。「生涯忘れえない記念の本になりました。本当にありがとうございます」

 過剰としか思えない物言いも、さらりと口にできる。けっして皮肉を感じさせない。岩崎は真の紳士だった。大学にこんな講師がいてくれたら、ゼミもきっと楽しいだろう。

 岩崎や秋山に深々と頭をさげる。李奈はエレベーターホールに送りだされた。講談社の女性編集者ひとりが付き添い、一階へといざなう。李奈はまたおじぎをし、女性編集者と別れた。

 高級ホテルも同然の広大なロビーを横切る。見慣れた青年が手持ちにたたずんでいた。チェックのシャツの胸に入館証をつけている。李奈は三つ年上の兄、杉浦こうに声をかけた。「おまたせ」

 迎えにきた航輝は、腰が引けた態度をしめした。「ここ、なんだかすげえな。あっちにある入口は社員食堂か? ファミレスじゃなくて?」

「ほんとすごいよね。圧倒される」

「急に李奈が遠い存在に思えてきた」

「やめてよ。まだここで本をだせたわけでもないし」

 ふたりは歩きだした。警備室前のアクリルボックスに入館証を返却する。パルテノン神殿のような柱のあいだを抜け、ようやく外にでた。陽射しを浴びるとほっとする。

 航輝がきいた。「対談どうだった?」

「勉強になった。それにいろいろ吹っ切れた。堂々と本好きを貫いていけばいいってわかったし」

「そっか」航輝は会社の敷地をでた。歩道を地下鉄の入口に向かう。「お父さんが帰ってきてほしいってよ。お母さんも。小説なら三重県でも書けるだろうって」

 もやっとした思いにとらわれる。それがいいたくて立ち寄ったのか。

 李奈は護国寺駅への階段を下りながら、あえてぶっきらぼうに突っぱねた。「そういうわけにいかない」

 航輝が追いかけてきた。「原稿はメールで送るんだろ? ノリスケがさか先生ん家に原稿とりに来るとか、そういう時代でもないって……」

「いつでも編集者さんに会えるようにしとく必要があるの。出版社とつながりを持っておかないと、仕事にありつけない」

 階段を駆け下りるとともに、いらちが募っていった。いまさら両親がかまってくる。必要としていたときには、父も母もずっと他人行儀だった。もう干渉しないでほしい。

 ふと岩崎翔吾の解釈が脳裏をよぎった。ボディブローのようにじわじわと効いてくる。両親の愛情不足。伯母おばもしくは叔母おばの語ってくれたストーリー。文学への愛着につながる。そこだけは芥川や太宰と共通している。偉人ふたりにくらべ、李奈には圧倒的に足りないものがある。才能だった。

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