第27話

 不安がどんどん大きくなっていく。可能性を否定しようとすればするほど、それを肯定する心当たりに目が行ってしまう。


 夢の中で出会った白い巨大な柱のようなもの、あれはヨエが言っていただ。自室で見る夢に現れたのであれば、ただ自分のストレスや思いが形を変えて反映されていると考えるだろうが、この家に来てからの異変を考えると、あれが神であるという結論にどうしても行きついてしまう。


 ずっと机にしまっていたマッチ箱をその神に渡してしまった。浩司の中でそれが燻りつづけている。


 なぜ、自分はマッチ箱を渡してしまったのか。それはあの神が求めていたから、としか言いようがなかった。自分の人生において、変えることのできない不運な出来事。それを神は求めていたのだと、夢から覚めた今、漠然と理解していた。


 あのマッチ箱は間接的に浩司を万引き犯にした不幸な品だ。今まで思い出せなかったくらいなのだから、鬱病になった時よりも、父に蔑まれた目で見送られた時よりも、あの日が自分にとって一番不幸で、消し去りたい記憶なのだろう。


 しかし、その不幸に紐づいた物をどうして神が欲していたのか、考えてみても浩司には見当がつかない。それでも、自分が夢の中であのマッチ箱を渡してしまったから、おそらく蓮人はあんな目に――


 いや、これはあくまで夢の話だ。現実に影響があるはずがない。


 浩司はすぐさま浮かんだ考えを否定する。


 確かにこの家はおかしい。例えるなら、お化け屋敷のような場所だ。誰もいないはずの部屋から音がし始め、それが移動する度に衣擦れのような音が聞こえる。さらにその正体を見ることは禁じられている。


 そんな日常とは隔てられた異常な空間で見た夢なら、それに影響を受けた内容を見るのも当然だ。幼い頃、ホラー映画を見た夜は同じ内容とは言わないまでも恐ろしい夢を見たはずだった。つまり、現実から夢へ影響することはある。


 逆に、夢の中で起こした行動が現実世界にそのまま影響することなどあるわけがないのだ。


 夢を見た結果、心境に変化が起こり現実の行動も変わるという間接的な影響はあるだろう。しかし、今の浩司の不安はそれとは別で、夢での行動が現実に干渉し、それによって蓮人が神に連れ去られてしまったのではないかというものなのだ。


 そんなことが起こるはずはない。冷静に考えればそう結論付けられるのに、現にこの家で起こった衣擦れの音や血濡れの畳がその答えに待ったをかけている。


 浩司が夢の中で神にマッチ箱を渡したから、自分を万引き犯にした原因の蓮人がどこかに連れ去られたのではないか。


 何度も思考は同じ場所を往復しては、同じ答えにたどりついてしまう。その度にその考えを否定して、しかしまた同じ考えを始めるという作業を浩司は繰り返していた。


 浩司は両膝を抱えて顔を埋める。これから自分はどうしたらいいのか分からず、それなのに何かを考えることも出来ず、浩司は膝と膝の間に落ちる薄い闇をただただ見つめていた。


 突然、玄関の摺りガラスの引き戸を叩く音が聞こえた。


 咄嗟に立ち上がるような気力もなく、浩司はゆるゆると顔だけをそちらのほうに向ける。摺りガラスの向こうに人影が見えた。外の世界は先ほどよりも明るくなっているように思えた。


 引き戸がゆっくりと開くと、血に濡れたレンズ越しにヨエの姿が見えた。


 浩司はその姿を見てほっとする。一人ではなくなったという安心だけでなく、自分を苦しめている考えが一時的にでも停止したことから来るものだ。


 ヨエは部屋の中を見、浩司の姿を視認すると、困ったような、それでいて微笑しているような表情をする。浩司はその表情の意味が分からずに、ヨエが目の前まで来るのを微動だにせずただ待っていた。


「大変だったでしょう」


 ヨエは浩司の顔を見つめて優しく言った。浩司は何と返せばいいのか思いつかず、無言で目を伏せる。大変だったのは間違いないのだろうが、おそらく蓮人のほうが大変な目に遭っているはずなのだ。


 ヨエに蓮人のことを話すべきなのに、浩司の精神はそれを拒んでいた。蓮人が消えたのは間違いなくあなたのせいですよ、なんて言われてしまうのではないかと恐ろしくて仕方なかった。


 浩司が蓮人や夢のことを告白するか悩んでいると、流し台で水を流す音が耳に入った。あっ、と浩司は思い出す。嘔吐した後、片付けもせずそのままにしていた。


 浩司は慌てて立ち上がろうとするが、上手く力が入らない。足がもつれてその場に倒れこんでしまう。両腕で身体を起こそうともがいていると、足音が近づいてきた。


「どうぞ、こちらでお顔を拭いて」


 無様な格好のまま顔を上げると、目の前にタオルを差し出すヨエの姿があった。遠慮がちに受け取ったタオルはしっとりと濡れていて、ほのかに温かい。


「ありがとうございます。すみません、汚してしまって……」


 ヨエの目を見れないまま、消え入りそうな声で浩司は謝罪する。


「いえいえ、大丈夫ですよ。少しゆっくりしていてくださいね」


 優しい口調でヨエはそう言ってどこかに行ってしまった。残された浩司は眼鏡を外すと、受け取った白いタオルで言われた通りに顔を拭う。温かくて気持ちが良い。緊張感が少しほぐれていくような気がした。


 しかしそれも束の間のことで、今しがた顔を拭いたタオルを見て浩司は息を呑んだ。白いタオル地に数瞬前にはなかったはずの赤い色がついている。


――蓮人の血だ。


 自分の指に付着した血が、顔にも付いてしまっていたことに気づく。緩んだ緊張は一瞬にして元に戻り、浩司の心臓は再び早く打ち始めた。


 浩司はレンズにこびりつく赤黒い塊をタオルで拭い取ろうとする。乾いていた血は水分を得て透明のレンズ上に赤い色を落とすが、何度か擦るうちに綺麗になくなった。


 タオルの所々に付着した血を見ていると、昨晩の出来事や夢の内容を聞かれたらどうしようという新たな不安が襲ってきた。胸の辺りが痛くなる。


「お荷物はこれで全部でしょうか?」


 ふいに声をかけられて、浩司の肩がびくりと震える。今感じている不安に関する問いかけではなくて、浩司はほっとする。


 顔を拭いている間に、ヨエが荷物をまとめてくれたようだった。浩司はヨエに礼を言い荷物を確認するが、小さなリュックに最低限の物を詰めてきただけだったので、大して時間はかからなかった。


「すみません、ありがとうございます」


「いいえ、それでは私の家に行きましょうか。明るくなるまで休むといいですよ。……その様子だと、あまり寝られなかったでしょうから」


 ヨエが浩司の顔を見ながらそう言う。自分の顔は相当酷く見えるのだろうと、浩司は推測した。


 何はともあれ、ヨエの申し出はありがたかった。この家にいる限り、蓮人が消失した原因と向き合い続けなければいけない。それに外はまだ暗く、電車の始発まではまだまだ時間がある。土地勘のない場所で今の身体、精神状態で朝まで過ごすのは難しいだろう。そして、何よりも一人でいるのが嫌だった。


「……ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいます」


 浩司の言葉を聞いてヨエはにこりと微笑むと、それでは、と玄関に浩司を促した。先ほどまでのふらつきは幾らか改善されているが、まだ身体は思ったように動かない。いつもよりだいぶ遅い歩行で何とか三和土まで辿り着くと、蓮人の履いてきたスニーカーが目に入った。


「あの、蓮人の荷物って……」


 思わず浩司は戸口に立つヨエに聞いてしまう。すると、ヨエは浩司を見た後、更にその後ろのほうに視線を動かした。それから、こちらでお預かりしますね、とだけ言った。


 浩司は軽い眩暈を感じた。預かるということは、蓮人が帰ってくるかもしれないということなのか。それとも、もう帰ってこないから処分しておく、ということなのだろうか。しかし、それを問い直して、後者の答えが返ってくるのは嫌だった。


 そして、彼女は一体、今何を見ていたのだろうか。振り向いてそれを確認することは、身体が拒んでいる。


 結局浩司は、よろしくお願いします、と小さな声で伝えただけで、前を見つめたままヨエの後に続いて外へ出た。


 久しぶりに外気に触れたような気がした。季節は夏だが、夜明けの山は肌寒い。半袖から出た腕をさすると粟立っていた。それが寒さからなのか、恐怖からなのかは浩司には分からない。


 昨日もくぐった門扉を抜けると、ライトが点いたままの軽自動車が目に入った。周囲は次第に明るくなってきているとはいえ、このライトがなければ歩くのは困難だろう。紫色に染まる明け方の空の下、注意を払いながらようやく白い軽ワゴンに辿り着いた浩司は後部座席に深く寄りかかった。


 身体が悲鳴を上げている。精神的な負荷に耐えられていないのだ。浩司は目を閉じ、全身の空気が抜けてしまいそうなほど長く息を吐いた。


 運転席に座ったヨエが何か言ったようだったが、水中のように声が遠くに聞こえてよく分からなかった。タイヤが砂利道を走る音も、木々が風で揺れる音も同じだ。意識だけが身体から離れたように、感覚が鈍くなっている。そういえばインフルエンザに罹った時にもこんなふうになったことがあるな、と浩司は懐かしい日常に思いを馳せた。


 浩司が疲れ切った頭でぼんやりとそんなことを考えているうちに、車はあっという間にヨエの自宅に到着した。どうやらかすみの家からほど近い場所に住んでいるらしい。


 玄関前に車をつけると、ヨエが後部座席のドアを開けてくれた。


「着きましたよ。歩けそうですか?」


 そう言ってヨエが手を差し出してくれる。握った手は皺くちゃだが、見た目の割にはしっかりとしていた。浩司がその手を支えにして車を降りても、ヨエの身体はふらつくこともなかった。


 ヨエの家は二階建ての古い木造建築のようだった。家屋の奥には納屋が見えていて、すぐそばの畑には様々な作物が植えられている。昨晩の食事にはここの食材が使われているのだろうか。それらを横目に浩司はヨエの後を追って、川端家へ足を踏み入れた。


 広い三和土のすぐ先に居間があり、テーブルや座布団の他に煙突ストーブ、茶箪笥が置かれているのが目に入った。壁にかけられた古時計の振り子の音が規則正しく響いている。時刻は午前五時の少し手前だった。


「こちらを使ってください」


 ヨエが居間を隔てている引き戸を開けると、薄暗い部屋に布団が敷かれているのが見えた。どうやらここで休んでも良いということのようだ。


 浩司の身体と脳は、今すぐにでも休息を求めていた。昨日からの出来事で疲弊しきっている。


 この小一時間で何度目かの謝罪と感謝を口にし、浩司は吸い込まれるように布団に潜り込んだ。ふかふかとした布地が心地よく、睡魔はすぐに襲ってくる。余計なことを考えず、泥のように眠れそうだった。意識が遠のいていく感覚の中で、居間の振り子時計がボーンボーンという音で鳴り始めたのを耳にした。五回目の音が鳴る前にはもう浩司は眠りに落ちていた。




 夕方の公園に立っていた。駄菓子屋の近くの公園だ。噴水が水飛沫を上げている。


「お母さーん!」


 小さな子供の声がする。目を向けると帽子を被った六、七歳くらいの男の子が母親とゴムボールで遊んでいるのが見えた。少年が投げたボールがバウンドし、母親の手元に上手く届く。ピンク色のゴムボールが夕日に照らされて、きらきらと光っている。


 浩司はその光景を眺め続けた。母親がボールを投げ返し、少年がキャッチする。それが何度も繰り返されている。


 ふいに、少年の手から零れたボールが浩司のほうに転がってきた。何度かバウンドした後、速度を弱めながら浩司の足元までころころと転がってくる。屈んでボールを拾い上げると、向こうから少年が走って来るのが見えた。


 逆光で顔は判別できないのに、少し気だるげなその走り方を見て、蓮人だと浩司は直感的に理解した。目の前の少年は幼い頃の蓮人なのだ。


 呆然としたまま蓮人が自分の元にやって来るのを浩司はただ眺めていた。顔を見て蓮人だと確信したいのに、浩司よりだいぶ低い位置にある顔は帽子のつばで隠れて見えない。気がついた時には少年は目の前に立っていて、俯きながらもじもじと両手を前に出していた。はっとして、浩司はゴムボールを渡す。



「「「「「ありがとう」」」」」



 声が何重にも聞こえた。その声を放った蓮人の顔を見て、浩司は言葉を失った。


 その顔には目や鼻はなく、口が五つ、白黒の砂嵐のような顔面に並んでいるだけだった。それらが同時に、浩司への感謝の言葉を口にしていたと気づく。


 浩司が固まっていると、蓮人は小走りに母親の元へ駆けていった。遠くで蓮人の母親がぺこりと頭を下げたのが見える。母親の顔は見覚えがある、一般的な人間のものだ。


 親子は手をつないで公園の出口へ歩いていった。夕日が二人の影を長く伸ばしている。二人が遠ざかるにつれ、奇妙なことに周りの景色も一緒に浩司から遠くなっていく。映画の場面転換のように、風景が丸く絞り閉じられていっている。


 浩司の周りは真っ暗闇になった。親子が手を繋いでいる微笑ましい風景は遠くに丸く、オレンジ色に見えている。先ほどのゴムボールのようだった。


 パンッ、という破裂音がすると同時に、丸いオレンジ色の風景が弾けた。残響は聞こえない。浩司は闇に取り残されていた。

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