第26話

 物音を聞いた気がして、浩司は目を覚ました。扉が閉まるような音だった気がする。


 目を開けると、暗い天井が見えた。眼鏡を掛けていないため、全体的に視界はぼやけている。覚醒しきっていない脳で、先ほど見た夢のことを思い出す。

 

 いや、と今の考えを浩司は否定する。夢と言い切ることはできなかった。半分は過去の記憶だからだ。


 人間の脳というのは、こうも都合良く嫌な思い出に蓋をしてしまうものなのかと驚く。それほどあの出来事が浩司にとって暗い、忘れたくなるものだったということなのだろうか。


 そんなことを考えていると、徐々に意識が明瞭になってきた。暗闇に目が慣れると、青みががった天井と電灯がぼんやりと見えてくる。今何時だろう、と思ったところで、浩司は周囲の異変が気がついた。


 まず、不快な臭いが鼻をついた。何の臭いかは分からないが、生臭いという表現がしっくりくる。それから、何の音も聞こえないことにも気がつく。浩司しかいないように、かすみの家はしん、と静まり返っている。暗い上に眼鏡をしていないため確かなことは分からないが、隣の布団に蓮人が寝ている様子はなかった。


 浩司は手探りで眼鏡を探した。枕の辺りに手を伸ばすが、すぐに見つからない。どこに置いたのだろうと周囲に手を動かす。


 あった。指先が眼鏡のテンプルに触れた。そのまま本体を引き寄せ、眼鏡を掛けようとして、浩司の手が止まった。


 レンズに何かが付着している。慎重に人差し指で拭うと、ぬるりとした液体が指に付いたのが分かった。しかし部屋が暗いため、自身の指に何が付いたのか浩司には分からなかった。


 不快に思いながらも得体のしれない液体が付着した眼鏡を掛けると、浩司は立ち上がり電灯の紐を引っ張った。パチ、パチ、と何度か蛍光灯が点滅する間に、周囲の状況が細切れに浩司の目に飛び込んできた。


 初めに気がついたのは、眼鏡のレンズに赤黒く粘度の高い液体が付着しているということ。次に、それと同質と思われる液体が浩司が寝ていた布団のすぐそばを、線を引いたように続いているということだった。


 やがて室内は明るさに包まれた。目の前に広がる光景に、浩司は言葉を失った。


 二組並べられた布団の間を通るように赤黒い道が出来上がっていた。状況が呑み込めないまま、その道を辿っていくと壁に設えられた戸棚に行きつく。閉じた扉の隙間からは赤い液体が壁を伝って、畳を汚している。


 浩司の眼鏡はそのそばにあったために赤く染まってしまったようだった。浩司は瞬きをするのも忘れ、戸棚の扉に釘づけられていた。


――ここから何か出てきたんだろうか。それとも、何かが入っていったんだろうか。


 鼓動が早くなるのを感じる。不安がこみ上げてくる。この家に住むという神様のことを嫌でも思い出してしまう。最初にあの気配が現れたのは、この部屋だったはずだ。


 浩司は自身の人差し指を間近で見る。眼鏡を汚している液体が、指の先端に付着していた。ぬるりとした赤黒い液体は血だと、浩司のあらゆる経験が答えを導き出していた。


 心臓が爆発しそうなくらい、早く強く打っていた。思わず左手を胸の上に置くと、激しい鼓動が伝わってくる。


 自分が眠っている間に、何か恐ろしいことが起きたに違いなかった。蓮人の姿が見えないことで不安が増していく。浩司は浅く呼吸をしながら、板の間に向かってゆっくり、慎重に足を進めた。


 数分前まで横になっていた六畳間を出ると、二間続く和室に出る。そこにも血でできた道が続いていた。部屋の電気を点けながら、その道に沿うようにゆっくりと歩みを進めると、板の間の少し手前で道は終わっていた。


――いや、ここから始まったのかもしれない。


 道の始まりには、墨のついた筆を置いたように赤い液体が溜まっていた。


 浩司は恐る恐る視線を上げた。明かりのついたままの板の間が目に入る。息を殺して囲炉裏の傍まで行くと、座布団の傍らに浩司のスマートフォンが落ちているのが見えた。スマートフォンを拾い上げるとロック画面が表示される。時刻は午前四時半。玄関の摺りガラスの向こうは、薄紫色に染まり始めていた。


 浩司はぐるりと板の間全体を見渡したが、蓮人の姿はどこにもない。荷物もそのままだった。


「蓮人! おい! どこかにいるのか?!」


 浩司の声が家中に響き渡る。しばらく待ってみるが何の返事もない。かすみの家は何事もなかったかのように、静寂に包まれていた。


 浩司は蓮人の身に何が起こったかを直感的に理解した。瞬間、吐き気がこみあげる。血の気が引いていくのが分かる。世界がぐるぐると回り始めた。



 蓮人は見てしまったのだ。あの神様を。そして血だらけにされて、どこかに連れて行かれてしまった。



 浩司の頭は蓮人の最期の想像で満たされた。どんなに怖かっただろうか。どんなに痛かっただろうか。自分はそれに少しも気づくことなく、眠りこけていた。浩司の中に罪悪感がこみ上げる。


 浩司はふらつく足取りで台所の流し台に向かうと、前屈みになって口を開いた。苦しそうな浩司の声と共に、淡い黄色の体液がステンレスの流し台に吐き出される。昨日の夕食は全て消化されてしまったようで、何度嘔吐しても胃液しか出てこなかった。


 げうう、と空の胃が鳴る音だけがしばらく響く。もう何も吐き出せるものがなくなって、浩司は流し台の前でうずくまった。


 恐怖のせいなのか、嘔吐のせいなのか、浩司の震えは止まらなかった。冷や汗のつたう額に左手を当て、俯いた。座っていても眩暈は治まることはなく、浩司は流し台にもたれながら弱い呼吸を繰り返した。


 どうしたらいいのか、浩司にはわからなかった。


 八方塞がりのこの状況を何とか脱したかったが、考えがまとまらない。浩司は目を閉じた。かすみの家に来てから見たこと、聞いたことをぼやける思考で振り返る。


――そうだ、電話。


 ヨエが説明していた電話のことを、はっと思い出した。確か、受話器を上げるだけでヨエの自宅につながる緊急用の電話があると、昨日説明を受けたはずだった。


 浩司は流し台にもたれながら重たい身体を何とか立たせると、ふらつく足取りで壁際の電話台へ向かった。浩司の腰ほどの高さの茶色い電話台に、真っ白な電話が置いてある。


 白い受話器を持ち上げ、耳に押し当てた。受話器を持つ手が震えているのが分かる。頬に当たる自らの指は凍っているように冷たい。


 何度目かの呼び出し音の後、はい、という老女の声が聞こえた。外の世界に繋がった安心感で浩司は少しほっとする。何とか呼吸を整えると、浩司は震えた声で話し始めた。


「……あの、すみません、工藤です。その……、一緒に泊まった友人の姿がいつの間にか見えなくなっていて。それから、部屋に血みたいなものがあって」


 いつの間にか、頬を涙が伝っていた。口に出して説明すると、蓮人はこの世界にはもういない、という考えを肯定しているようで辛くなった。嗚咽が混じって聞き取りづらくなった浩司の話を、ヨエは辛抱強く聞いていた。


 浩司は目にした全てをたどたどしく伝え終わると、大きなため息をついて涙を拭った。


「十分ほどで伺いますので、そのままお待ちくださいね」


 耳元でヨエの優しくゆっくりとした口調が聞こえた後、電話が切れた。すぐにヨエが駆けつけてくれるのだろう。そう思うと、少しだけ冷静さを取り戻すことができた。


 浩司は電話台に寄りかかるようにして腰を下ろした。そして板の間を見渡す。


 囲炉裏の灰は浩司が最後に見た時よりも散らかっているように見える。その傍に座布団が二枚。板の間から続く和室の畳に、蛍光灯で照らされる血溜まりがあるのが、ここからでも見えた。


 浩司は後悔と不安で押しつぶされそうだった。


 昨晩の喧嘩別れを悔やんでいた。最後の会話があんなふうになってしまったのが辛かった。自分が全て穏便に済ませておけば、二人であの気配に注意を払いながら無事に朝を迎えられたのではないか。そんな後悔が浩司の心の底に溜まっている。


 しかし、その後悔をかき消すほどの不安が大きく渦巻いていた。浩司はが怖くて仕方なかった。


――俺の夢のせいなんじゃないか。

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