第25話

 囲炉裏のそばで座布団を枕にし、蓮人は板張りの床で横になっていた。一人になった板の間にはゲームアプリの軽快な電子音だけが寂しく響いている。


 蓮人は苛々としていた。思わず、スマートフォンに表示されたゲーム画面を、ぎゅうっと力任せに押してしまう。自分のスマートフォンでないことは分かっているが、何かで苛立ちを発散させたかった。もし画面に傷が入ってしまっても、自分のせいではないと言い張ればいい。


 蓮人は鼻から大きな息を吐いた。先ほどの浩司の態度が気に入らなかった。


 知り合いと飲みに行けば、誰かしらが上げるような話題だ。最低呼ばわりされるような話ではない。浩司が過剰に反応しているだけだ。


――あんなのただの笑い話なのに。


 浩司の言葉を思い出し、蓮人は舌打ちをした。舌打ちの音はすぐさま大きな屋根に吸収され、板の間は再びゲームのBGMだけになった。そのゲームの音も次第に耳障りに聞こえ始め、蓮人の苛立ちは増していく。


 そもそも浩司と再会したのが良くなかったのかもしれない。今になって蓮人はそう考えていた。浩司と蓮人では生きている世界が違うのだ。自分と違って浩司はたくさんのものを持っている。学歴も、金も、親も、広い実家も。


 そんな浩司には自分の生き方など理解できるわけがない。高卒、幼い頃から小さな借家住まいで貧乏、父親は物心ついた頃からいない、母親は昼間は寝ていて、夜は仕事に出かける。欲しいものは買ってもらえず、話し相手はテレビだけ。何かを仕出かす度に、近所の住人や同級生の親たちから「あの子は可哀想な子だから」と言われていたのを蓮人は知っていた。


 いつの間にか、欲しいものは自分で手に入れる、適当なことを言って誤魔化す、そういった生き方が身についていた。満たされない日々をどうにかやり過ごして育った可哀想な自分のことを、浩司が理解できるはずなどなかった。


 あの日、川沿いの桜の下で浩司から鬱病だと告白された時、可哀想だと思った。しかしそれ以上に、自分より可哀想な存在にはなってほしくないと強く感じた。自分は可哀想だから何をしても許される、蓮人はそう考えていた。浩司のほうがより可哀想になってしまえば、自分は許されなくなってしまうのだ。


 だから咄嗟に、自分も似たようなもの、と言ってしまった。決して自分は精神を患ってはいない、そう自覚している。本当なら渡辺由利のように浩司ともあの場限りの関係のはずだったから、多少いい加減なことを言っても良かった。だが、この『幸せになれる家』のせいで、今日までずるずると関係が続いてしまった。自ら応募しようと言い出したという点について、蓮人は少し後悔していた。


 何となく馬の合わない浩司と距離を置こうと本心では思い続けていたのだが、浩司のほうから度々連絡があること、それに加えてすぐ自分に金を貸してくれることから、つい関係を続けていた。しかし、どうやらそれももう期待できそうにない。


――あいつはもう面倒臭いから、帰ったら縁を切ろう。


 蓮人は心をざわざわと苛立たせる音に耐え切れなくなって、ゲームアプリを終了した。完全な静寂が家中を満たす。浩司は先ほど奥の部屋に行ってしまったが、何の音も聞こえてはこない。もうすでに寝ているのだろう、と蓮人は推測する。


 浩司への怒りがふつふつと湧いてくる。浩司が当選さえしなければ、自分はこんなおかしな家に来ることなどなかったのだ。八つ当たりだという自覚はあるが、この非日常的な状況では手近な誰かに怒りをぶつけるしかなかった。


 浩司がかすみの家に応募した頃から、日常生活に突如として現れるようになったあの気配。それと同じものが、当のこの家にも住んでいる。もし、本当にこの家で幸せになれたとしても、あの気配からは一生逃れられない。そんな気がしてならなかった。それなら、ここで手に入れられる幸せなんていらなかった。


 だから、あそこで浩司に再会さえしなければ――



「自業自得だよ」



 しんとしていた家に幼い少年の声が響いた。ループしようとしていた蓮人の思考は、突然の声に停止する。


 記憶のどこかで聞き覚えのある声だった。空耳だとは思ったが自然と声の在処を探し、蓮人は暗くなったスマートフォンの画面から顔を上げた。


 板の間の壁沿いに、黒い影が伸びていた。


 太い円柱のような影は、僅かにゆらゆらと左右に揺れているように見える。漆黒のそれは光を通さず、後ろにある壁が透けて見えることはない。まるで、光を吸収する素材で出来た柱が突然現れた。蓮人にはそんなふうに見えた。


 その影がどこまで伸びているのか確かめるように、無意識に蓮人の目は動いていた。頭の中では警鐘が鳴り響いているのに、身体は言うことをきかない。自然と半身を起こして、その影の先を探す。


 影は人の背の高さを悠々と超え、薄暗い茅葺屋根の裏側まで伸びていた。その一番高い場所で闇と一体化する。判別できなくなった影の行方を捜して、暗い茅葺屋根のあちこちに蓮人は目を動かした。


 蓮人の視線が一点で止まった。梁と梁の間、ちょうど自分の真上に、漆黒ではない部分があるのを見つけた。闇の中にぽっかりと灰色の円が浮かんでいる。薄雲がかかった満月のようにも見える。もしかしたら茅葺屋根に穴が開いているのかもしれない、と蓮人はぼんやり考えた。


 その穴に釘付けになっていた蓮人がはっと息をのんだ。


 穴がどんどん大きくなっていた。


 目を逸らすことができずにじっと見つめていると、その穴は大きくなっているわけではなくということに気がついた。蜘蛛が糸を垂らしながら地上に降りるように、屋根の穴はゆっくりと真下にいる蓮人との距離を縮めている。


 穴が近づくにつれ、蓮人は穴だと思ったそれが能面のようなものであることを見て取った。人の顔の輪郭をした灰色の面が、徐々に自分に近づいている。今すぐにでも逃げ出したほうがいいはずなのに蓮人は目を離すことができず、迫る面をただ見つめることしかできなかった。


 いつの間にか面は蓮人の上方、八十センチほどの高さにまで近づいていた。灰色に見えていたそれは、近くで見ると白と黒がざらざらと入り乱れていて、まるでアナログテレビの砂嵐のようだった。今にもホワイトノイズが聞こえてきそうなのに、何の音もしない。蓮人の荒い呼吸音だけが板の間にある。


 ふいに、面の形をした砂嵐に、すうっと切れ込みが入った。両目の位置とその下の頬にあたる部分に一本ずつ、そして口の場所。合わせて五つの線が砂嵐を横切る。蓮人は息をのんだ。目を逸らすことはできなかった。


 次の瞬間、切れ込み全てがぱくりと開いた。中は、真紅だった。



――  ミ    タ  ――



 面に開いた五つの穴は、男や女、子供や老人の声で同じ言葉を発した。


「は?」


 非現実的な現状への疑問が蓮人の口から零れる。声は恐怖で震えていた。


 異様な見た目を直視できずに顔をそらすと、最初に見た黒い影が目に入った。もう一度影の全体を目で追う。それは屋根まで伸びた後、折り返して目の前の面に繋がっていた。まるでクリスマスツリーに飾るステッキのような形状だ。


 その全体像を把握して、恐怖により麻痺していた蓮人の精神と身体がようやく正常に動き始めた。今すぐに眼前の化け物から逃れなければならない。立ち上がって走り出したいのに上手くいかない。腰が抜けている。


 つい数分前まで静寂に包まれていた板の間に、ばたばたとした音が虚しく響く。起き上がろうと焦る蓮人の視界の端で、影からぬるりと何かが伸びるのが見えた。

 蓮人は叫び声を上げた、はずだった。


 瞬く間に、蓮人の口元は強い力で圧迫されていた。身体に痛みも感じる。パニックになりながら視線を動かすと、鼻の下に人の腕程の太さがある黒いものが見えた。必死にそれを目線で辿っていくと、先ほどの影から繋がっているのが分かる。それで蓮人は、自身の口元から上半身が影の巨大な手によって握られていることを理解した。


 影は緩慢に太い指を動かすと、蓮人の身体を握り直した。みしり、と骨がきしむ音がした後、ふわりと身体が床板から浮かぶ。手から滑り落ちた浩司のスマートフォンがごとり、と床に転がった。


 蓮人の身体は床から一メートルほどの高さに持ち上げられていた。頭上に長い首が伸びているのが見える。胴体から数メートル前方に伸びた首は、何の音もたてずにどこかを見つめている。蓮人の身体は恐怖で再び麻痺し、全く抵抗をすることはできなかった。かろうじて巨大な指で覆われなかった鼻からは、荒い呼吸がもれている。


 影が移動を始めた。五つの口がある面を先端につけた長い首が先行して、ゆっくりと動いていく。握りつぶされる恐怖に怯えながら蓮人は、宙づりの状態でこの化け物の行き先についていくしかなかった。


 影が前進する度、衣擦れの音がする。その音は、かすみの家に来てから何度も耳にしたものだった。家の中を闊歩していた神様の正体がこの影だと気づくと、蓮人の鼓動はさらに早まった。ずっとこの化け物は自分の傍にいたのだ。


 化け物はどこかを目指して移動しているように見えた。屋外に連れ出されるのかと蓮人は思っていたが、胴体に先行する首は家の中心、和室のほうへ向かっている。先の見えない恐怖の中、蓮人は最初に聞いた衣擦れの音が家の奥にある六畳間から始まったことを思い出した。


 化け物はこの世界ではないどこかに帰ろうとしている。そして、そこに連れていかれたら、もう戻って来ることはできない。蓮人は本能的に確信した。


 慌てて何とか束縛から逃れようと蓮人は身体を捩り、足をばたつかせる。しかし、影から伸びた手はびくともせず、蓮人を解放してくれることはなかった。そればかりか、暴れる蓮人を落とさないようにするため、更にその手に力が籠められた。


 ばきり、と骨が砕ける音がした。


 叫び声を上げるが、喉元で止まってしまう。目に涙があふれる。口の中が血の味で染まる。


 一切抵抗しなくなった蓮人をつれた巨大な影は、ようやく目的地である六畳の和室へと辿り着いた。朦朧とする意識の中で目を動かすと、薄暗い部屋の中に布団が二組敷いてあるのが見えた。片方が膨らんでいる。浩司が寝ているのだ。


――浩司! 気づけ! 起きろ!


 蓮人は眼下に見える浩司に向かって、最後の力を振り絞り叫んだつもりだった。しかし、現実にはくぐもった声だけが虚しく漏れる。浩司が目を覚ます気配はない。


 自分には、もうどうすることもできない。絶望感が蓮人を襲う。


 ふいに、化け物の歩行が止まった。それに合わせて蓮人のだらりと下がった足が揺れる。状況が好転したのではないかと淡い期待を持って、蓮人は眼下に向けていた視線を前方にやった。


 胴体に先行していた長い首の前に、人が入れるほどの戸棚が壁に設えてあるのが見えた。


 その扉が音もなく開いた。中には紙垂が取り付けられた注連縄が張られている。その先は、化け物と同質の真っ暗な闇で満たされていた。


 扉が完全に開き切ると、影の移動が再開した。面が紙垂の下をくぐって、音もなく闇に呑み込まれる。続いて長い首もずるずると同じように深い闇の中へ入っていく。闇はどこまでも深く、遠く続いているようだった。


 蓮人の眼前に闇が迫る。すでに浩司の姿は視認できなくなっている。蓮人は足掻こうとするが、身体に力は入らなかった。


――頼む、浩司。気づいてくれ。


 蓮人の願いは届かず、浩司が起き上がることはなかった。影は蓮人を握っている手の向きを器用に変えると、暗闇の広がる空間に蓮人を押し込んだ。


 捻じ込まれた戸棚の中は、どこまでも闇が広がっていた。光もなく、音もしない。温度もない。ただ暗い世界がある。


 不思議とあんなに感じていたはずの恐怖が薄れてきた。ひどく眠気を感じる。意識が閉じる寸前、蓮人は誰かの声を思い出した。


――母さ



 蓮人の身体が全て闇に消え、続いて影の胴体もそこに呑み込まれると、戸棚の扉は小さく軋んだ音を立てて閉じた。

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