第24話
噴水の音が聞こえる。首筋に水飛沫がかかっている。
気がつくと浩司は公園の真ん中にある噴水の縁に腰かけていた。
見上げた空には夏の太陽がぎらぎらと照っているのに、暑さは感じなかった。そういえば首にかかっている水滴も冷たくない。それで、これは夢だ、と理解した。
「お菓子食べたい」
隣から声がした。
驚いて顔を向けると、幼い蓮人が同じように縁に座っていた。くたびれ始めた白いTシャツに、黄色いラインの入ったジャージを履いている。
――そうだ、今日は日曜日だから蓮人と公園で遊んでいたんだった。
はっと思い出す。小学校が休みだから、昼過ぎから公園で蓮人と遊んでいたのだ。
「今日、お小遣い持ってきてないよ。蓮人は?」
浩司がそう言うと蓮人は首を横に振った。お金がなければお菓子は買えない。小学二年生の浩司たちでも分かることだ。
「でも食べたいんだよなー」
むうっとした表情の蓮人はそう言うと、噴水の縁から跳ねるように降りた。そのまま公園の入り口に向かって駆けていく。慌てて浩司もその後を走って追いかけた。
公園の向かいには小さな駄菓子屋があった。通りに面した茶色い一軒家。透明なガラス戸が四枚並ぶ入り口。日曜日ということもあり、たくさんの子供が店の中で買い物をしているのが見える。不思議なことに、子供たちの顔には口だけしか見当たらなかった。
一円も持っていないのに、蓮人は一直線に店へ向かっていく。浩司は蓮人が何をするつもりなのか気づいて、途中で足を止めた。もう蓮人は小学生で混み合う店内へ入ってしまっている。腰の曲がった店主は会計の列を捌くのに手一杯で、蓮人の姿には気がついていないようだった。
浩司がそわそわしながらその様子を見守っていると、程なくして蓮人が店の中から出てきた。目立たないようにゆっくり歩いているが、ズボンのポケットが先ほどよりも膨らんでいるのが分かる。
「行こうぜ」
公園の入り口に立ち尽くしていた浩司に蓮人はそう囁くと、一目散に公衆トイレの影まで走っていく。仕方なく浩司もその後をついていく。心臓はばくばくと音が聞こえるほど激しく打っていて、背中を汗が流れ落ちていくのを感じた。
辿り着いた公衆トイレの裏は薄暗く、つんとした臭いがしている。蓮人は浩司を手招きすると、杉の木の下で成果を披露し始めた。一口大のチョコレートやガムなど、どれも十数円くらいの商品を次々にポケットから取り出しては地面に並べてみせる。
食う? と聞いてきた蓮人に、浩司は顔と手をぶんぶんと振って拒否を示す。誰かに一部始終を見られているんじゃないかと、浩司は気が気でなかった。
「ふうん、そう?」
浩司の様子を意にも介さず、蓮人は盗ってきたチョコレートの包み紙を破ると口に含んだ。もぐもぐと口を動かしながら、広げた戦利品の中から手のひらほどの箱を選び手に取った。小箱を耳元で振り、中に何が入っているのか確かめようとしている。ピンク色の花が描かれた小箱は、蓮人が振る度にかしゃかしゃと軽い音を立てた。
蓮人は箱をスライドさせる。中身を確認し、落胆の表情を見せた。舌打ちが聞こえる。
「キャラメルだと思ったのに」
蓮人は少し前のめりになって、箱の中身が浩司に見えるように傾ける。浩司が箱を覗くと、中にはマッチ棒が数十本納められていた。
お目当ての品でなかったのが余程ショックだったのか、蓮人は大きなため息をついて立ち上がる。そして、川で水切りをするような動作でマッチ箱を木々の間へ投げ捨てた。軽い音を何度か立てながら、マッチ箱は数メートル先に転がっていった。
「雲梯しよう」
食べきれなかった駄菓子をポケットに捻じ込むと、チョコレートの包み紙をそのままにして蓮人は駆けだした。小さな背中が遠ざかっていく。
浩司はその場に留まっていた。投げ捨てられたマッチ箱が気になって仕方なかったのだ。マッチの擦り方は知らなかったが、火をつけるもの、という知識だけは持っていた。
――もし火事が起きたらどうしよう。
浩司の頭は心配でいっぱいになる。自分が蓮人の万引きを止めなかったせいで、公園が火事になってしまうかもしれない。
もう蓮人の姿はどこにも見えなくなっていた。浩司はしばらくおろおろした後、迷いながらも捨てられたマッチ箱を拾うと自らのポケットにしまいこんだ。辺りを見渡して誰も見ていないことを確認すると、蓮人の後を追って走り出した。
辺りが白くなったかと思うと、いつの間にか浩司は自分の部屋で佇んでいた。
家具の配置を見て子供の頃の部屋ではなく、今現在の自室であることに気づく。浩司は大きくなった手で、ずり落ちた眼鏡を直した。
目の前に学習机があった。
自然と、右上の引き出しに手をかける。鍵はかかっていなかった。浩司がゆっくりと引き出しを開けると、ガムテープで巻かれた小さな箱がしまわれていた。その小さな箱を手に取ると、あの日の続きが一瞬のうちに蘇った。
公園で蓮人と別れて家に帰ってきた後、ポケットに入れたマッチ箱が両親や兄に見つからないように慎重に部屋に戻った。部屋のドアを閉めて一息ついた後、ようやく自分が間接的に万引きしてしまったのだと気づいた。どうしたらいいのか分からなくなり、たまたま近くにあったガムテープでマッチ箱を何重にも巻いて、引き出しの奥に押し込め鍵をかけたのだ。
自分の記憶も一緒にしまいこんだように、今の今まで忘れていた。人生で最大の汚点だから、忘れようと思って忘れていた可能性もある。それでも、無意識下でずっとそれが引っかかっていたために、小学生の頃の「正しいことをして生きたい」という夢が生まれたのかもしれない。そのせいで渡辺由利を泣かせてしまった。
もう一つ、浩司は腑に落ちたことがあった。何故、自分は蓮人に金銭を渡すことで安心していたのか、だ。
蓮人は金がないから万引きをしてしまう。そして彼が万引きをしたせいで、間接的に自分も万引きをすることになってしまった。蓮人が金さえ持っていれば、万引きをすることはなかったのだ。
だから、自分は彼に金を与えることで安心してしまう。もう彼の手癖の悪さに巻き込まれないように、無意識に防ごうとしていたのだろう。
何だかすっきりとした気分になった浩司は
――神様だ。
今、自分の後ろに見てはいけない神様が立っている。起きている時はあんなにも恐ろしかったのに、不思議と今は恐怖は感じない。この空間では対面しても大丈夫だと、何となく分かっていた。
浩司がゆっくりと振り返ると、そこには大きな柱のような白い塊が
部屋の天井はいつの間にか取り払われ、天まで壁が伸びていた。吹き抜けになった部屋の真ん中に、巨木のような白い物体が突然生えている。
浩司はその塊の細部を観察しようとしたが、上手くいかなかった。床に接している部分に目を向けると、一瞬足袋を履いた足が見えた気がするのに、すぐに形がぼやけてしまう。輪郭を掴めそうになった瞬間に白い柱に戻ってしまうのだ。
では上端はどうかというと、首が痛くなるほど見上げても白い塊はどこまでも伸びていて、顔があるのかどうかも分からなかった。しかし、図書館の時と同じ視線を今も感じているから、おそらく天高い場所に顔があるのだろうと推測する。
浩司がどうしたらいいのか分からずぼんやりと立っていると、浩司の目の高さほどの場所から、すうっと白い塊が分岐して伸びてきた。大きさが浩司の上半身ほどあるそれは先端が五つに分かれていたため、おそらく神様の手なのだと考え付く。ここから腕が生えているのなら、どれほど首は長いんだろうと浩司は呑気にそう思った。
手は浩司の前まで伸びると、手のひらを上にして止まった。手のひらには皺や関節は見当たらず、ただのっぺりとしている。
――ああ、これか。
浩司はぴんときた。この手、つまり神様はこのマッチ箱を欲しがっている。不幸にも自分の元にある万引きされた小箱を。
いつの間にか箱を覆っていたガムテープはなくなっていた。ピンク色の花が描かれたマッチ箱はあの日のままだ。
浩司がマッチ箱を白くて大きな手のひらの上に乗せようとした瞬間、
「チクるのかよ!」
と背後で蓮人少年の声がした。
どこか焦っているような声色だったが、浩司は振り返ることをしなかった。
自分はこれを渡さなくてはいけない。それでようやく罪の意識から解放される。
――そもそも万引きをするのがいけないんだ。悪いことをしたなら、ちゃんと責任を取らないと。
「自業自得だよ」
浩司はそう呟いて、白い大きな手にそっと小さなマッチ箱を乗せた。
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