第23話
動悸が治まるまでは少し時間がかかる。浩司はその場で少し息を整えると、囲炉裏へと戻った。スマートフォンに齧り付いている蓮人の対面に座る。
囲炉裏の火はすでに消されている。夕食前にヨエが火を起こし始めた時には夏でも囲炉裏を使うのかと驚いたが、ヨエによると湿気を取り除いたり、虫よけをしたりするのに火を起こす必要があるそうだった。
目の前の蓮人はスマートフォンの画面に集中している。静かな家にゲームのBGMと画面をタップする音だけが響く。浩司が向かいに座ったことにも、呼吸が乱れていることも気づいていないのか、それとも気にも止めていないのか、蓮人には何の反応も見られない。
家の外からは虫の声が聞こえてくる。しばしその声に耳を澄ませてみるが、何の虫が鳴いているのかは浩司には分からなかった。
「面白い?」
兄の作ったゲームを熱中してやっているように見えて、浩司は思わず感想を求めてしまう。蓮人がちらり、とこちらを見るが、すぐに視線はスマートフォンに戻った。
「別に。ただの暇潰しって感じ」
画面を見たままの蓮人が口を開いた。指と視線はスマートフォンの画面を行ったり来たりしている。期待していた言葉ではなかったせいか、浩司の心にはもやもやとした薄暗いものが立ち込めた。がっかりと悲しさと悔しさが混ざり合って、マーブル模様を作り出す。
「……つまんないってこと?」
なるべく感情を抑えて言ったつもりだったが、声は少し震えてしまっていた。自分が思っている以上にショックを受けていることに驚く。
「うん、まあ。普段やってるゲームに比べたら全然面白くないし。こんな状況じゃなかったらたぶんやらない。なんでお前こんなくだらないゲーム入れてんの?」
蓮人は変わらず一度もこちらを見ないまま、少し早口気味に言った。予想外の酷い言われように浩司は言葉を失ってしまう。
兄の努力が否定された。自然とそう感じてしまう。蓮人には兄が作ったアプリだと言っていなかった。つまり、これがユーザーの率直な感想なのだと頭では理解するが、上手く受け止めることができない。
それとは別に、浩司は自身の奥で小さな怒りが湧き出したのを感じた。
俺ならこんなくだらないゲームなんてやらない、こんなゲームを入れているお前はくだらない、と言われている。自分まで否定され、馬鹿にされている。そうやって脳が解釈し、怒りが引き起こされたようだった。
浩司は久しぶりに感じた怒りに戸惑っていた。うつ病を患ってから、ふがいない自分に対して怒りを覚えることはあったものの、他人に対する怒りを感じる余裕はなかった。今までの自分はこの感情とどのように向き合い、処理してきたのかが分からなくなっている。浩司は感情の処理に手一杯になり、蓮人への返答を後回しにした。
無言になった板の間でただただ時間が過ぎた。先ほどまで聞こえていた虫の声も止んでしまったようだった。
何も喋らなくなった浩司が気になったのか、蓮人が顔を上げる。一瞬だけ目が合う。浩司は自分が今どんな表情をしているのか分からなかったが、蓮人が自分の表情を見て何かを察したのは伝わってきた。
「いや、でも、まあ悪くないんじゃない?」
取り繕うように蓮人が言った。先の発言が原因で浩司の雰囲気が変わったのには気がついているようだった。
それでもなお浩司が口を開かずにいると、今度は蓮人が機嫌を取るように一生懸命に話し始めた。普段やっているゲームの話、最近見たドラマのこと。
浩司は会話をする気が起きず、ふーん、そうなんだ、という相槌を繰り返した。浩司の脳内は未だ感情の整理に手間取っている。
「そういえば、小学校の時にいた渡辺由利って覚えてる?」
ごちゃごちゃした浩司の脳内にその声は響いた。「渡辺由利」という名前がスポットライトに照らされたように、頭の中でぱっと光る。
浩司は囲炉裏の木枠を眺めていた視線を蓮人の顔に移す。蓮人と目が合う。浩司の顔を見て、興味のある話題だと判断したらしい。そのまま蓮人は話を続けた。
「何ヶ月か前にたまたま会ってさ。旦那と喧嘩してこっちに戻ってきてるって言ってた」
いつかの食卓で母が言っていた話だ。
夫と喧嘩して地元に戻ってきて、そして――
「その時に流れであいつとヤっちゃってさあ。ははっ。由利の話聞いて、ちょっと優しくしたらすぐヤれたわ。そしたら後になって、そのせいで離婚することになったって喚かれて。マジでめんどくさかったわー」
ぺらぺらと蓮人は話し続けた。時折笑い声を交えながら。
浩司はそれに対して相槌を打つこともなく、ただ黙って聞いていた。頭の中では先ほど名前だけだった渡辺由利が、小学生の姿に変わり、スポットライトで照らされている。彼女は下を向いて、めそめそと泣いていた。
「それから、由利の旦那から慰謝料請求だなんだって話もされて。でも結婚してるの知らないと、浮気しても金払わなくていいらしいじゃん? だから、俺は知らなかった、言わずにあいつが誘ってきたって答えたわけ。由利、しっかり結婚指輪してたのにな。あいつ、泣いてたわ。酷いって。それで――」
「もうやめろ」
気がつくと声が出ていた。十分に怒気を含んだ声だった。
浩司は蓮人を見据える。途中で話を遮られた彼は面食らったようで言い返してはこなかった。何かを言いかけた口のままで、ぽかんとしている。
脳内の渡辺由利はまだ泣いている。ひくひくと肩を震わせながら。ポニーテールがそれに合わせて揺れる。
「お前さあ、そういうの最低だよ」
そう言い捨てて、浩司は立ち上がった。一度も振り返ることなく、ヨエが布団を敷いてくれた座敷の奥へ向かう。そのわずかな間、蓮人の反論も、衣擦れの音も聞こえなかった。
六畳の和室は電気が点いておらず薄暗かった。薄闇の中に二つ布団が敷いてあるのが見える。浩司は明かりを点けずに布団に潜り込んだ。眼鏡を枕元に乱雑に置く。横向きに寝転がると、自然にため息が出た。
とにかく不快な気分だった。
二十半ばにもなって誰とヤっただのという話を嬉々として語るのにもうんざりしたが、自分の行動に責任を持てない蓮人を心底軽蔑した。不倫の良し悪しを言うつもりはないが、自分で起こしたことなのだから自分で責任を取るべきだと思った。
きっと渡辺由利は蓮人に唆されただけなのだ。彼女の夫は「機嫌が悪いと由利に当たるような男」だと母は言っていたはずだ。こっちに帰ってきたのだって、暴力を振るわれたり、暴言を吐かれたりして、それから逃げてきていたのではないか。
十数年前、小学校の教室で泣いていた時の由利の顔が浮かんだ。真っ赤になった目。頬を伝う涙。揺れるカーテン。
十数年経った今、苦しみから逃れようとした渡辺由利を蓮人は自分の欲望のままに振り回し、さらに深く傷つけた。浩司にはそれが許せなかった。彼女がこれ以上傷つけられる話を聞きたくはなかった。
明日一日、蓮人とどう過ごそうと考え始めたところで、浩司は急激な眠気に襲われた。徐々に思考力が落ちていく中で、先ほど飲んだ発作の頓服の副作用だと気づいた。瞼が重くなり、考えがまとまらなくなっていく。頭の中に佇んでいた渡辺由利の姿が次第にぼやけていく。
――そういえば昔から蓮人は手癖が悪かったんじゃなかったか。
そう思うと同時に意識が浩司から離れた。思考も視界も闇が埋め尽くした。
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