第22話
ヨエが自分たちを怖がらせようと冗談を言っているとか、実は怪しい宗教に関係する施設だったとか、様々な可能性が浩司の脳内を駆け巡る。
疑問で頭がいっぱいになった浩司はぐずぐずと考えた後、
「どういう意味ですか?」
というごく単純な問いかけをした。
しかし、ひねり出した問いに対してヨエからは、言葉の通りですよ、という答えしか得られず、浩司の疑問は少しも解消されることはなかった。そして、蓮人は隣でぽかんとしたままだった。
浩司が次の質問が思いつかないままそうこうしている間に、十八時頃にまた来るという言葉を残して、ヨエは家を去ってしまった。「幸せになれる家」から「怪しい家」へと変貌したかすみの家に、神様の意味に悩む浩司と状況が掴めない蓮人だけが残された。
ヒノキの香りが鼻腔をくすぐる。浸かっているのは繊維強化プラスチックで出来たユニットバスだから、その香りはヨエが入れてくれた入浴剤から発生しているものだ。
浩司は快適な温度の湯の中で、長く、深くため息をついた。
「この家に住んでいる神様を見てはいけない」
その言葉の意味はヨエが家を去った後、すぐに分かった。
突然衣擦れの音が聞こえたかと思うと、浩司と蓮人ではない何者かの気配が家の中に現れた。現れた瞬間に家じゅうが耳の痛くなるような静寂と凍り付いた空気で満たされ、ヨエが言っていたのはこのことだと本能的に理解した。
そして、それは公園や図書館で感じたあの気配だと気づいた。
今まで背後に立つだけだったそれは、この家では移動した。布団を敷くと説明された和室の辺りから衣擦れの音がし始めた後、気配はひどく緩慢な動きで家の中をぐるりと一周し、縁側の奥へと消えた。浩司や蓮人に干渉してくることはなかったが、二人とも息を殺し、異質な存在を視界に入れないようやり過ごした。
見てはいけないと言われたが、そもそも目にしようとは思えなかった。身体が見ることを拒んだ。見てしまえば良くないことが起こると脳が警鐘を鳴らした。
ゆっくりと移動する気配から顔を背けつつ蓮人の様子を窺うと、顔を真っ青にして視線を落としていた。おそらく自分も同じような顔をしていると浩司は冷静に思った。
「……俺、今のやつ知ってる」
完全に衣擦れの音が聞こえなくなった後、蓮人が消え入りそうな声で呟いた。
どういうことかと浩司が詳しく蓮人の話を聞くと、驚くことに二週間ほど前から蓮人の元にもあの気配が何度も現れていたのだという。浩司が経験したのと同じように、自室や外出先で自分を見下ろす気配が急に現れ、急に消えたらしい。非科学的な現象が共通して起こっている。
そして、二人が遭遇した気配と同質のものが、確かに目の前に現れていた。自分たちはかすみの家に来る前から、神様に会っていたということなのだろうか。浩司も蓮人もそれに気づいたが、何も言うことはできなかった。
二時間ほど前、夕食の用意のため再びやってきたヨエにあの気配について話すと、神様にお会いになったんですね、と嬉しそうな顔をしていた。それがひどく恐ろしく感じた。
訳の分からない存在が現れ、全身で危機を感じ怯えた浩司たちに対し、この家の管理をしている老女はそれは幸運なことだという。あの恐怖が幸せに繋がるとは浩司には到底思えなかった。
夕食を終えた頃にあの気配はもう一度現れた。浩司と蓮人は衣擦れの音にすっかり恐怖し固まっていたが、ヨエは何事もないように穏やかな顔で囲炉裏を突いていたのを鮮明に覚えている。彼女にとってあれは当たり前のことなのだ。
浩司は身体を浴槽に深く沈めた。鼻から上だけが水面から出ている。
――どうしてこんなことになったんだろう。
浩司はただ幸せになりたかっただけだ。それなのにどんどん幸せから遠ざかっているような気がする。
父親からは疎まれている。奇妙で恐ろしい気配が日常生活に現れるようになったし、そいつは幸せになれるという家でも現れる。幼馴染からは都合の良いお財布として使われている。
浩司は眼下の水面に視線を落とした。ライトグリーンの色がついた湯に、鏡の上に設置された照明がゆらゆらと反射する。
その光を眺めながら浩司は、こんな風になってしまった蓮人との関係をどうして自分は維持したいのだろうと考え始めていた。
理由の一つとして、友人らしい友人というのが蓮人しかいないのが考えられた。うつ病が酷かった頃、付き合いのあった友人たちからの誘いを断り続けた挙句、衝動的に連絡先を消して関係を断った過去があるため、本当に自分には蓮人しか友人がいないのだ。
しかも自分のうつ病の告白に対して、俺も似たようなもの、と蓮人が返事をしてくれたのもあり、勝手に仲間意識のような、依存するような気持ちが芽生えていたように感じる。
しかし、その依存心だけが原因ではないような気がどこかでしていた。
もっと幼い時、蓮人との関係はどうだっただろうか。浩司は小学生の頃を思い返す。
放課後や休みの日は他の友人たちと学校近くの、あの気配に初めて遭遇した公園で遊んだ。たまに浩司や別の友人の家で蓮人も一緒にゲームをした記憶もある。懐かしい思い出だ。
ただ、その記憶があるのは小学校低学年頃までで、そこから先は放課後や休日に蓮人と遊んだ記憶はなかった。学校の昼休みに体育館や校庭でドッジボール、鬼ごっこをしたことはあったが、それ以外の場所、時刻で蓮人に会った記憶が小学校中学年以降すっかりなかった。
浩司ははっとした。
自分は学校以外で蓮人に会うのを避けていたのではなかっただろうか。記憶を辿っていくと、彼を避けるようになったきっかけがあったような気がしてきた。何があったのかを明確に思い出すことはできないが、二人の間で決定的な出来事が確かにあったはずだ。
それなのに自分は今、半ば金蔓のようになりながら、彼との関係を継続させようとしている。
――むしろ金を出すことで安心しているような気さえする。
ふと、浩司の頭の中に、引き出しに入っていたガムテープでぐるぐる巻きにされた箱が浮かんだ。あれは、何だったろうか。
「浩司」
風呂場の外から声がして、浩司は我に返った。顔を湯から引き上げる。ざぶ、と水面が揺れた。
「え、何?」
「ああ、いるならいいわ」
蓮人の声がした後、遠ざかっていく足音が聞こえた。思った以上に長風呂になっていたことに気づく。なかなか風呂から出てこない浩司があの気配を見てしまったのかもしれない、そう思った蓮人が様子を見に来たらしかった。
脱衣所に出た浩司は備え付けのドライヤーで髪を乾かした。風で周囲の音がかき消される。あれが現れていても、衣擦れの音は聞こえず気がつかないかもしれない。
ドライヤーを当てながら、あの気配を見てしまうとどうなるのかを自然に考えてしまう。きっと良くないことが起こるのが、あれと対峙すると本能的に分かる。ホラー映画のように恐怖で死んでしまうのだろうか。一瞬で自分という存在を消されてしまうのかもしれない。
ぞわり、と身体の表面を恐怖が撫でていく。
今この瞬間にも、あの気配が脱衣所の引き戸の向こうにいる可能性だってあるのだ。
ドライヤーのスイッチを切ると、浩司はおそるおそる戸をスライドさせた。目の前にはステンレス製の流しと
さらにその横には、ホテルの客室にあるような白いシンプルな電話機が置かれていた。受話器を上げるだけでヨエの自宅に繋がる緊急用の電話と説明されている。
左手にある板の間を見ると、囲炉裏が目に入った。夕食時にはそこでヨエが川魚を焼いてくれた。その脇に板の間から繋がる座敷を背にするようにして蓮人が座っていた。
ヨエは夕食の片づけをした後、浩司が風呂に入る前に自宅へ帰ったため、今この家には浩司と蓮人、それから時折現れる神様しかいない。風呂での考え事のせいで、少しこの空間の窮屈さが増したように感じた。
衣擦れの音は、今はどこからも聞こえなかった。その代わりに浩司のスマートフォンからゲームアプリの音楽が流れている。操作しているのは蓮人だ。
山中にあるかすみの家には電波が届かなかった。暇を持て余した蓮人がスマートフォンでゲームをしようとしたところ、どれもオンラインでなければ遊ぶことができなかった。異常な環境に置かれ苛立ち始めた蓮人を見かねて、浩司はスマートフォンに入っていた兄の開発したゲームアプリをいくつかやらせていたのだ。これなら電波も関係ない。
「あいつ、出なかった?」
「出なかったー。一人の時に出たらどうしようかと思ったわ」
背後から声をかけた浩司に対して、蓮人は振り返ることなく答える。彼は一点だけを見つめることで、あの気配を視界に入れないようにしているのかもしれない。
画面を覗き込むと、以前に兄からテストプレイを頼まれた間違い探しゲームをやっているところだった。
また自分は蓮人に何かを与えることで安心していると浩司は気づいた。これは蓮人より上に立ちたいという醜い感情なのだろうか。
――いや、違う。蓮人が満たされていない状態を自分はどこかで恐ろしく思っている。
浩司は混乱してきた。なぜ自分はそんな思いを抱いているのか。自身の考えが分からず焦っていると、少しずつ不安と鼓動が高まってくる。パニックの前兆を感じた浩司は台所に戻り、ポケットに入れていた発作の頓服を麦茶で流し込んだ。
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