第28話
振り子時計が鳴っている。一回、二回、三回。数える度に意識が明瞭になっていく。
何度か瞬きすると視界がクリアになる。いつもより寝起きの景色がはっきりと見えるのは眼鏡をかけたまま寝てしまったからだと気づいた。板張りの天井の模様が人の顔に見えてどきりとした瞬間、浩司は完全に目を覚ました。
蓮人の夢を見た。蓮人だという確証があるわけではない。何しろあんな顔だったからだ。しかしあの走り方や見覚えのある母親の顔から、夢の少年は蓮人だった、と浩司は確信めいたものを持っていた。
あんな終わり方だったが、途中までは幸せそうな親子の夢だったことを思い出す。蓮人を不幸な目に遭わせてしまったかもしれないという自分の不安を裏返しにしたものだろうか。
それにしても奇妙な夢だった。夢で遊んでいた蓮人の顔には口だけしかなかった。しかもそれが五つもついていた。
何故蓮人があんな顔で夢に現れたのか考えてみるが、これといった理由が浩司には見当たらなかった。かすみの家での体験が影響している可能性が真っ先に思い浮かんだものの、あの場で五つの口に繋がるようなものを見た覚えが浩司にはなかった。他の要因も考えてはみるが、それ以外のことは思いつかない。
脳が疲れていて上手く働いていないことに気づいて、浩司は夢の分析をやめた。代わりに自分が横になっている部屋を観察しようと見渡す。
先ほどの木目模様とは別の顔が目に入った。壁の高いところに黒い額縁に入った顔写真がいくつも並んでいる。遺影だ。年老いた男女の写真が多いが、時代を遡ると若い男性――おそらく徴兵されたであろう――の白黒写真も目に入る。ずらりと並んだ遺影の先、部屋の奥に黒い仏壇が納められているのが見えた。
浩司が休んでいた部屋は仏間だった。広さは十数畳ほどあるだろうか。仏壇以外には壁際に重ねられた座布団と立てかけられた大きなテーブル、それから仏間に不釣り合いなプリンタが乗った折りたたみテーブルが置いてあるだけの寂しい部屋に浩司は横になっていた。
いつの間にか定刻を知らせる時計の音は鳴り止んでいる。軽く頭痛を感じるものの、起き上がることはできそうだった。浩司は布団を抜け出し、そっと引き戸を開けた。戸の向こうの居間にヨエの姿はない。振り子の音のするほうに目を向けると、時計の針は十時五分を示している。
居間を挟んで向かい側にドアがあった。耳をそばだてると少し開いたドアの向こうから、水を流す音が聞こえる。ヨエがいるのだろうか。
「すみませーん……」
その場から声をかけるが、思ったよりも声量が出ない。体調は万全とは言えないようだった。
しかしそんな小さな声でもドアの向こうには届いたようで、水の流れる音が止まった。ぱたぱたとした足音と共にドアが開くと、ほっとしたような表情のヨエが顔を覗かせた。
「気分はどうですか? 眠れました?」
エプロンで手を拭きながらヨエが近づいてくる。料理をしていたのか、ドアの向こうからは良い香りがしていた。
「はい、だいぶ良くなりました。ありがとうございました。その、ご迷惑をおかけしまして……」
「いえいえ、いいのよ。私も孫が遊びに来たような気分が味わえたもの」
そう言ったヨエに勧められるがまま居間の座布団に腰を下ろすと、あれよあれよという間にテーブルの上にはお茶やスポーツドリンク、ヨーグルトに様々な菓子が用意された。浩司は恐縮しながら、飲み物やヨーグルトに手を付ける。喉はからからに乾いていたし、胃の中は空っぽだった。
ヨエには孫が二人いるそうだった。今はどちらも地元を離れて、就職や進学しているという。その孫たちの母親であるヨエの娘は、ここから数キロ離れた町の中心地に一軒家を建てて夫と共に住んでいるという。時々、孫がお土産を持って遊びに来てくれるの、とヨエは嬉しそうに言った。
こうしてヨエと話していると、浩司も数年前に亡くなった祖母と話をしているような気分になった。すると、自然と気持ちが緩んでくる。そのせいか聞かれてもいないのに、前職を鬱病で退職したこと、それがかすみの家に応募した一つの動機であることなどをいつの間にかぺらぺらとヨエに話していた。もしかしたら自分は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない、と話しながら浩司は思った。
浩司の話にヨエは相槌を打ち、時折お茶を啜りながら、耳を傾け続けてくれた。話を急かさないその聞き方にも安心感を覚え、浩司は堰を切ったように話し続ける。そうして気がつくと、蓮人のことを口にしていた。
小中学校の同級生で、地元に戻ってきて十数年ぶりに再会したこと。蓮人が聞いた噂話でかすみの家を知り、試しに応募をしてみたら当選したこと。
そこまで一気に話して、浩司は急に口を噤んだ。昨晩からの出来事について話すかどうかを悩んでいた。浩司は下を向いて、唇を噛んだ。やはり自分は蓮人が消えた原因になることを恐れている。
浩司が俯いて黙っている間も、ヨエは話を急かすことはしなかった。壁に掛けられた古時計の振り子の音のみが部屋に響いている。自ら会話を中断したのに無言に耐えきれなくなった浩司がヨエに視線を向けると、優しそうな眼差しと目が合った。
言ってしまえば楽になるのかもしれないですよ。ヨエの目がそう言っている。勝手にそんな風に解釈してしまう。
――だったら、言ってしまってもいいのかもしれない。
浩司の心は傾いた。ここでヨエに蓮人のことを話さずに日常に戻ったとしても、何故あの時話さなかったんだろう、と生涯後悔し続けるだろう。浩司は自分がそういう人間だと重々承知していた。
「……あの」
驚くほど情けない声が出て、言葉に詰まった。心臓が高鳴っている。自分のせいで蓮人がいなくなったと確定するのが怖い。しかし、自分の罪が確定しないまま過ごすのも同じくらい怖かった。
浩司は一度深呼吸した後、心に
「……あの家の神様にマッチ箱を渡したせいで、蓮人がいなくなってしまったと思うんです」
最後に浩司がそう言って話を終えると、部屋に静寂が戻った。判決が言い渡されるのを待つような心地で、浩司は膝の上に置いた拳を黙って見つめていた。振り子の音がひどく遅く感じる。
「そうですねえ」
ヨエのゆったりとした口調が耳に入る。
「工藤さんのせいでお友達がいなくなった、と言うことはできませんね。偶然だと思うほうがいいでしょう」
浩司は顔を上げた。つまり、自分のせいではないということなのだろうか。
「お友達の相内さんは神様を見てしまった。今までもあの家で人がいなくなったことがありましたから、それは間違いないと思います。でも、それが工藤さんのせいかと言われると……」
うーん、と言ってヨエは考える素振りを見せる。自分のせいではない、そう言い切ってくれないヨエを見て、浩司の中にじわじわと不安が広がり始めた。しばらくヨエは言葉を探していたが、浩司の目を見据えると口を開いた。
「かすみの家にお住いになっている神様は、人の不幸を幸せに変えてくれます」
「不幸を幸せに……」
浩司はただ言葉を繰り返すことしかできなかった。そのオウム返しを聞いて、ヨエは深く頷く。
「ええ。工藤さん、夢の中でマッチ箱を渡したと言ったでしょう。話を聞く限り、そのマッチ箱は工藤さんにとって不幸を表すもの。そして、夢に現れたのは間違いなく神様でしょう。現実で神様の御姿を見ることはできませんが、夢を通してであれば対面することも可能となります。神様は不幸を幸せに変えたい人の夢に現れ、そこで不幸を受け取るのです」
一度、ヨエはお茶を口に含んだ。そのまま、その湯呑の中を見つめている。浩司は昨晩見た夢を思い出す。確かに浩司は自らの不幸を名も知らない神に奉納していた。
「……神様は工藤さんの不幸を受け取った。これで工藤さんは渡した不幸の分、幸せを手にしました。しかし、その幸せはすぐに訪れるものではないのです。突然お財布のお金が増えたり、怪我が治ったりするわけではなく、定められた運命が徐々に良き方向に変わっていく。神様によって不幸と幸の交換が行われると、人生が変化していくのです」
浩司は黙って話を聞いている。
「ですが、一人の人間が持っていた幸せと不幸の割合が変わる、つまり運命の修正が入ればそれに伴って周りにも変化が起きます。そこで何がどう変わってしまうかは、誰にも分からない。例えば病気がちの兄弟の体調が良くなったり、恐れていたストーカーが不慮の事故で亡くなってしまったり。運命の修正がどう影響するのか分からないのです」
「だから、蓮人がいなくなったのは」
「そう、工藤さんの運命が変わったことによってお友達が神様を見てしまったのかもしれないし、ただの偶然かもしれない。私たちにはそれを判断する術がない。だったら偶然だと思ったほうが良いでしょう」
結局、自分が有罪なのかは分からないままだ。蓮人は浩司が幸せになるために、犠牲になってしまったのかもしれない。そうではないのかもしれない。誰にも分からないのだから偶然だと片付けてしまえばいい。そう思えばいいのに、浩司は割り切ることもできず途方に暮れて、また俯いてしまう。
「ああ、でも」
ヨエの声が少し明るくなったように感じる。
「相内さんは神様を見てしまいましたが、それは決して不幸なことではありませんよ」
浩司はヨエの言葉の意味が分からなかった。あんな血塗れの部屋を残して消えた蓮人が不幸ではないとは到底思えない。続く言葉を聞こうと、浩司は顔を上げた。
「相内さんは神様の国へ連れて行ってもらえたのです。そこでは相内さんが持っている全ての不幸が幸せに変わっているはずですから、きっと今は幸福に包まれていますよ」
ヨエはにこりと微笑んでそう言った。人が一人消失しているのに平然とそう語るヨエが急に恐ろしく感じて、浩司は何かを言うことはできなかった。
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