第5話

 フロアの電気を点けた木ノ内がこちらに近づいてきた。

 他には誰の姿も見当たらない。


「良い天気ねー。こんな陽気なのに室内で仕事なんて勿体ない感じがしちゃう」

「本当にそうですね……」


 佳穂は木ノ内の背後やドアの辺りを確認するが、やはり誰もいないようだった。


「どうかした?」


 佳穂の視線に気がついた木ノ内が問いかける。


「……木ノ内さん、この部屋に入るまでに誰かと会いました?」

「階段を上ってきたけど、上の階からは誰も降りてこなかったわ。エレベーターも1階に止まったままで、、誰も使っていなかったみたいだったけど」

「そうですか……。木ノ内さんが来る前に、誰かが部屋に入ってきたような感じがして。疲れてるんですかね」


 そう言って佳穂は少し笑ってみる。

 木ノ内はその顔を見て、少し心配そうな表情を作った。


「3月半ばから残業続きだもの、疲れも溜まるはずよ。……もしかして何かあった?」


 彼女は人の表情の奥にあるものを読み取るのが上手い。笑顔であっても、その下にある真の感情や思いに気づかれてしまうことがよくあった。

 佳穂はいや、ええと、などと言葉を濁していたが、木ノ内は何か確信があるようで、じっと佳穂の言葉を待っていた。

 そんな木ノ内に観念して、佳穂は土曜日に元恋人から電話がかかってきたことを、途切れ途切れに語った。


「何それ、最悪じゃない! 浮気しておいて、しかも婚約破棄の場面でも大して話もしなかったのに、今さら平気で電話してくるなんて有り得ない!」


 木ノ内は顔をしかめながら、元恋人を非難する。会ったこともない男ではあったが、木ノ内の中で彼は最低な人物だと記憶されているようだった。

 ぷんぷんと怒っている木ノ内を見て、佳穂の顔に先ほどとは違う自然の笑みが溢れる。


「あはは。本当に最低ですよね、あいつ」

「もう本当に。宮地さんがどんな思いをしたか……。仕事が落ち着いたら、ちょっとお休みでも取ってゆっくりしたほうがいいと思うわ」


 木ノ内にそう言ってくれたおかげで、5月の休みについて相談する良いタイミングができた。佳穂が実は、と申し訳なさそうに2日間休みを取りたいと申し出ると、木ノ内は二つ返事で承諾してくれた。


「5月27、28日ね。予定は絶対入れさせないし、入れられそうになっても何とかするわ」

「すみません、お手数おかけします。よろしくお願いします」

「いいのいいの。宮地さんが少しでもリフレッシュできるなら、なんだって協力するわ。どこか行く予定なの?」


 そう聞かれて、佳穂はどこまで言っていいのか悩んだ。

 確か葉書には家の中で見たこと、起きたことを人に話してはいけない、と書かれていたはずだった。今、この場で木ノ内にかすみの家について話しても、それに抵触することはないだろう。

 しかし、ここで木ノ内に旅行へ行くと話してしまうと、帰ってきたあとで木ノ内からどうだったのか聞かれるはずだ。それに対して、しどろもどろに答える未来が見える。


「……いえ、まだ何も決めていなくて」


 そう佳穂は答えた。これが今、一番良い回答であるように思えた。


「そうなのね。無理してどこか行かなくても、家でごろごろするだけでも十分良い休暇になるもの」


 木ノ内はそう言うと、にこりと笑った。

 佳穂は、お気遣いありがとうございます、と言いながら木ノ内と共に自分の席へと向かった。


 午前中の仕事は、とにかく忙しかった。

 人事異動関係の書類の整理が主だったものだが、提出期限までに出さなかった社員が複数人いたため、電話で催促することになった。

 新入社員や比較的若い社員は平身低頭で佳穂の所まで書類を持ってやって来るのだが、管理職の中には電話口では分からないからと自分の席まで佳穂を呼びつける者もいる。そのため佳穂は度々席を外すこととなった。


 昼過ぎになって自分の席に戻ってくると、出勤時に見たときよりも大きな書類の山が出来上がっていた。思わず顔をしかめると、すごいよね、と隣の席で木ノ内が笑った。

 全くですよ、と言いながら佳穂は机の上に昼食を取れるだけのスペースを作る。

 外に昼食を食べに行っている者が多いのか、課内に残っているのは佳穂と木ノ内だけだった。


 通勤途中にコンビニで買ったサンドイッチと飲み物を鞄から取り出す。

 サンドイッチの袋を開けながら、午前中に届いた郵便物をチェックするために手元に持ってくる。佳穂宛に届くものは大体決まっているため、差出人の名前を見ただけで大体の中身の予想がついた。

 サンドイッチを齧りながら、佳穂は十数通の封筒を裏返していく。

 地方の支社から送られてきた封筒はおそらく人事異動関係書類のはずだった。サンドイッチを食べ終わったら中身を確認しようと思い、次々にキーボードの上に乗せていく。

 その作業を繰り返していると、1通の封筒で佳穂の手が止まった。


 差出人は、数ヶ月前まで佳穂が同棲していた部屋の管理会社だった。宛先、差出人ともにシールに印刷したものが貼ってある。

 退去してからすでに数ヶ月経っている。退去時の費用の支払い、手続きなどは全て元恋人側が行ったため、佳穂は特に何もせずに引っ越した。


 残りのサンドイッチを一口で頬張り、佳穂は引き出しからカッターを取り出す。封筒の上部に刃を差し入れ、すっと滑らせた。

 封筒の中を覗いてみると、三つ折りの用紙が1枚入っているようだった。

 鍵は確かに返却したはずだった。物置に何か忘れ物でもしてしまっていたのだろうか。それとも追加の費用支払いか何かだろうか。

 疑問で頭がいっぱいになりながら、佳穂は中から用紙を取り出した。どうやら便箋のようだ。


「う……」


 便箋を開いた佳穂の口から、思わず低い声が漏れた。

 隣の席で本を読んでいた木ノ内がこちらに顔を向けるのが分かる。


 あの時は仕事が忙しくてどうかしていた

 佳穂じゃないとダメなんだ

 やり直そう

 会いたい


 便箋には元恋人の自筆で、後悔と言い訳がびっしりと書き連ねてあった。

 呪詛のようなその言葉に佳穂は震えだす。


 もう会いたくない。怖い。


 なぜ害を被った側がこんな追い詰められなければないのかと、佳穂は固く目を閉じ、暗闇の中で記憶に残る男の姿に怨み言をぶつける。

 自らの震えを抑えるように、自分の肩を抱きしめた。

 まるで真冬の雪山で遭難し一人取り残されたかのように、手は冷たくなり、身体ががくがくと震えているのに気が付いた。


 ふいに肩を抱きしめていた手が温かくなった。

 目を開け肩を見ると、佳穂の手の上に木ノ内の手が添えられていた。すらりとした指の雪のように色白な手は、とても暖かく感じる。


「どうした? 大丈夫?」


 木ノ内の優しさだろう。他の社員には聞えない程度の声で声をかけてくれる。

 おそらく自分の顔は恐怖に満ちているに違いない。きっと血の気が引いている。


「これ……」


 木ノ内に忌まわしい便箋を渡す。

 読んでもいいの?と訊ねる彼女に、無言で首を縦に振る。

 冷静に考えれば木ノ内を巻き込む必要はなかったが、とにかく誰かとこの気持ちを共有したかった。少しでもこの恐怖が薄くなってくれるのを願っていた。


 便箋を読む木ノ内の表情は険しい。

 その顔を少し確認してから、佳穂は俯き、木ノ内の手の温もりを思い出していた。少しでも温もりを取り戻そうと両手を合わせてみるが、少しも温かくはならなかった。


「大丈夫そう? 具合悪かったら午後休みを取っても大丈夫だからね」


 木ノ内の優しい声に気づき顔を上げると、読み終わった便箋を畳んでいるところだった。畳まれた便箋が佳穂の机の端に置かれるが、触れたくはなかった。


「いえ、大丈夫です……。少し気が動転してしまっただけなので。それに仕事をしていた方が、気が紛れそうです」

「本当に? 無理はしちゃだめよ」


 数か月前にも同じことを言われた気がする。木ノ内には迷惑をかけっぱなしだと申し訳なくなる。


「一応、受付の担当者や守衛さんには、宮地さんにお客さんが来たら、まず私に連絡をもらえるようにしておくわ。……実際に会いに来てしまう可能性っていうのは、どれくらいありそうなの?」

「……おそらく、あまり現実的ではないと思うんです。確か、四国の実家に連れ帰られたはずで、就職先や金銭面の管理もしばらくはご両親がされると言っていました。すぐ、こっちに出て来るだけの余裕はないと思います」


 木ノ内にそう説明すると、少し気持ちが軽くなったような気がした。言葉にすると状況が見えてくる。


 そうだ、あの男は簡単に動ける状態ではないのだ。

 四国からやって来るだけの金銭があれば、きっと直接会社にやって来ていただろう。

 わざわざ管理会社の名を騙って便箋だけ送ってきたということは、それだけ自由に動かせる金がないということなのではないか。


 少し佳穂の肩から力が抜けた。

 緊張した表情が少し緩んだのが木ノ内にも見えたようで、いつものように微笑みながら、それなら少しは安心ね、と言った。


「とりあえず午後イチで受付には話しておくわね。あと、守衛さんには帰りにでもお願いして、共有してもらうようにするわ」

「何から何まですみません。いつもお手数ばかりかけてしまって」

「いいの。一番大変なのは宮地さんだもの。私の仕事もよく手伝ってもらってるし、そのお返しよ」

「本当に、ありがとうございます」


 木ノ内に礼を言い、先ほど彼女が置いた便箋を手に取る。

 便箋を開ける手はもう震えてはいなかった。もう一度、軽く目を通すと、言い訳ばかりが目立って見える。

 佳穂は何だか腹立たしくなってきて、便箋を畳むと元の封筒に入れ、引き出しにしまいこんだ。

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