第6話
休憩時間はまだ残っていたが、佳穂は仕事を始めた。少しでも何かに集中していた方が、あの便箋を思い出さずにすむ。
午後の勤務時間が始まる前には、外に出ていた他の社員も戻ってきて、皆一様に仕事に取り掛かっていた。
キーボードを打つ音や書類をめくる音、誰かとの話し声でフロアが充満する頃には、佳穂の頭はすっかり切り替わっていた。
佳穂が書類とにらめっこをしていると、いつの間にか席を外していた木ノ内が戻ってきた。佳穂の顔を見て、右手でOKサインを出す。
受付に先ほどの件を伝えてきてくれたのだろう、と気がついた。
ありがとうございます、小声で木ノ内に伝えると、彼女は親指を立てた。
落ち着いたらお礼をしよう。
佳穂は頭の片隅で彼女の好きなものを考えながらも、書類をチェックしてはキーボードを打つ、という単調な作業を繰り返した。
木ノ内も同じような作業をしているが、時折内線電話がかかってきては、厳しい顔をしたり、笑顔になったりしながら対応をしている。
何となく、同棲していた頃や今の一人暮らしよりも、木ノ内の隣で仕事をしているのが落ち着くような気がした。
長かった繁忙期も4月末には落ち着き、ゴールデンウィークは暦通り休めることとなった。今年は水曜日が憲法記念日で、5日間、羽を伸ばすことができる。
佳穂はその休みを利用して、久しぶりに実家に顔を出すことにした。関東圏に住所はあるが、東京駅からは特急列車を使っても2時間ほどかかるため、しばらく帰っていなかった。
実家に到着すると、父と母、そして猫のコタローが出迎えてくれた。
父、
もうすぐ定年を迎える年齢ということもあって、頭髪は定期的に染めているはずだったが白い毛が何本も見える。
母である
子どもは佳穂一人だけであったが、作らなかったのか、出来なかったのか聞いたことはなかった。
高校生の頃、父が拾ってきた茶トラの猫にコタローという名前を母がつけたとき、本当は息子が欲しかったのかもしれない、と余計な想像をしてしまったことがある。
しばらく悶々とした日々を過ごしたが、思い切って名づけの理由を聞いたところ、単純に雄猫だったということと、弱弱しい子猫だったからコタローとしたと言われ、あっけなく女子高生の悩みは解決した。
そんなコタローは今、L字型のソファに座る佳穂の膝で昼寝をしている。正確な年齢は分からないが10歳ほどの老猫は、帰省した佳穂をすぐにこの家の娘だと思い出してくれたようだった。
こうして膝の上にコタローが乗っていると、受験勉強をしていた頃を思い出す。冬の晩、勉強をしていると、構ってほしいのか、それとも暖を取りに来たのか、よくコタローが膝の上の飛び乗ってきたのだった。
コタローを撫でていると、すっかり気持ちはこの家で暮らしていた女子高生に戻っていた。
「仕事は忙しいの?」
母がコーヒーを持ってきてくれる。マグカップには15年ほど前に流行ったキャラクターが描かれている。中学生の頃に買ってもらったものだ。
「3月、4月はすごく忙しかったよ。頼んだ書類を全然出してくれない人もいるし、おじさん社員は書き方が分からないから、自分の席に来て教えろってすぐに電話してくるし」
そりゃあ大変だな、と離れたダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいた父が苦笑した。おじさん社員という言葉を聞いて、少し思うところがあるのだろうか。
「大変なのねえ」
L字型ソファの佳穂が座っていない方の辺に母が座った。手には湯呑が握られているが、中身はお茶ではなくコーヒーだ。
こうして全員がコーヒーを飲んでいることを考えると、我が家はコーヒー好きなのかもしれない。
「そういえば、松島さんから何か連絡とかはないの?」
「え?」
湯呑でコーヒーを啜っていた母が口にした名前は、思い出したくはないものだった。婚約を解消した原因を作った男の名は、松島新吾という。
「……別に何もないよ。やめてよ、もう」
本当は電話もかかってきていたし、会社に郵便も届いていたが、余計なことを聞かれたくないために嘘をついた。
しかし、佳穂の拒絶など意に介さず、母は口を開く。
「いや、だってねえ。別に復縁してほしいなんて、少しも思ってないのよ。ただ、向こうとの婚約破棄の話し合いの時だって、全然謝ったりしなかったんでしょう? 時間が経てば、少しでも謝罪の気持ちが湧いてくるかと……」
「母さん、よさないか。傷ついているのは佳穂なんだぞ」
父の静かな声が、母を制した。
母はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、父の顔を見て諦めたようで、そうね、ごめんなさい、とぽつりと言った。
母の言いたいことはよく分かる。
佳穂よりも泣いてくれた母は、一方的に娘が傷つけられ、それに対して何も謝罪されていないというのが引っかかっているのだろう。
そんな心配をしている母に、電話や便箋の件を話したらひどく興奮してしまいそうだ。とにかく今は、何も触れないでいてほしかった。
「しばらく部屋にいるね」
いたたまれない雰囲気の居間を抜け出す。いつの間にか、起きていたコタローが先行してドアを通り抜けていった。
後ろ手にドアを閉め、二階への階段を上り始めると、母をたしなめる父の声が小さく聞こえてきた。
徐々に小さくなっていく声を聞きながら階段を上りきると、コタローがドアの前に座り、こちらを見ていた。
心配してついてきてくれたのか、居間の雰囲気に耐えられなかったのか、それともただ気分のままにやってきたのかは分からなかったが、一人で部屋にいるよりは精神的に良さそうだった。
ドアを開けると、待っていましたとばかりにコタローがベッドに飛び乗る。西日でベッドが照らされていた。コタローはこれが目当てだったらしく、すぐにそこで毛づくろいをし始める。
大学入学以前まで暮らしていた部屋は、半分物置のようになっていたが、机もベッドもその当時と変わらず、壁際に置かれている。
壁を向くようにしてコタローの隣に寝転ぶと、ベッドから洗剤のいい香りがした。佳穂が帰って来るのに合わせて、母が布団などを洗濯しておいてくれたのだろう。
左腕を枕にしながら、もう片方の手でコタローの頭を撫でてやる。老猫は毛づくろいをやめて、されるがままになった。あごの下を掻くと、ゴロゴロと喉を鳴らす。
ペットを飼うのもいいかもしれない。家に帰るのが楽しくなりそうだ。本当はコタローをアパートに連れて帰りたいが、ペット禁止だったし、おそらく両親も家族が減るのは嫌がるだろう。
その時、またあの気配を感じた。
誰かが背後で見下ろしている気配だ。
会社であの気配を感じた後も、度々同じような感覚に会っていた。
それはアパートだったり、会社だったり、休日に散歩をしているときなど、時も場所も選ばなかった。
気配は急に現れる。そして、ただ佳穂のことをじっと見下ろした後、また急にいなくなるのだった。
何度か振り返って確認しようと思ったが、その気配がこちらを見つめているときは、蛇に睨まれた蛙のように身動きができなくなってしまうのだった。身体が動く頃には、その気配は消えていた。
もしかしたら、自分は幽霊の存在を感じるようになってしまったのかもしれないと、最近では思うようになった。
元から幽霊については肯定も否定もしていなかったが、このように急に現れたり、消えたりするものは幽霊以外知らなかった。
ふと、先ほどまで喉を鳴らしていたコタローが、じっと佳穂の背後を見つめているのに気がついた。コタローには何が見えているのだろうか。
コタローの目は、一点を見つめたまま動かない。その視線の先は、天井付近を見ているように思える。
ふいに、ノックの音が部屋に響いた。
どきりとしたが、同時に身体に自由が戻ってくる。
「佳穂、今日の夕飯、寿司でも取らないか」
少し開いたドアから、父の声が聞こえる。
佳穂は身体を起こし、数秒前までの緊張を感じ取らせないように、笑顔を作って振り返った。
「お寿司食べたーい! コタロー、お寿司だって」
同じ空間を共有していたコタローは、いつの間にか毛づくろいをしていた。よしよし、と背中を撫でて抱き上げると、父と一緒に居間へと下りる。
母は父に何を言われたのか、少し元気がなかったようだったが、佳穂が一番高い寿司を5人前頼もう、と元気な声で言うと、それは無理、と笑った。
その日の夕食には特上寿司が3人前と刺身の盛り合わせが並び、コタローはまぐろの刺身をお裾分けにあずかることができたのだった。
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