第4話

 一瞬、頭が真っ白になった。

 何を言われたのかを理解するまでに数秒要したが、佳穂はかすみの家からの電話であることが分かると、すぐさま自分だと返答した。


「お電話が遅くなり申し訳ございません。お泊りできる日程が決まりましたので、ご連絡いたしました」


 イバラと名乗った女性はそのまま続ける。


「宮地様の宿泊日は五月二十七日と決まりました。宿泊不可日にはなっておりませんでしたが、このままご準備してもよろしいでしょうか」

「あの、はい、少し待ってください」


 佳穂は急いで鞄から手帳を取り出す。

 約1か月後の5月27日は木曜だったが、翌日も含めて今のところ何も予定は入っていない。5月は今ほど忙しくはないため、月曜日に出勤した際に休暇の申請をしておけば、まず間違いなく休むことができるだろう。


「はい、問題ありません。5月27日でお願いします」

「かしこまりました。それでは当日のお迎えについてお知らせいたします。宮地様には16時までM市にあるシモヨシ駅という場所までお越しいただきます。そのお時間までにこちらでお迎えの車をご用意してありますので、そちらにお乗りください」

「シモヨシ駅……」


 聞いたことのない駅名だった。手帳に『シモヨシ駅 16時』とメモをする。

 業務上、社員の出張手続きなどで駅名を見ることが多かったが、今まで目にしたことはなかった。出張先には東北もあったが都市部が行先になることが多いため、目にする機会がなかったのかもしれない。

 あとでインターネットの地図で行き方を確認しなければないと心に留めておく。


「翌日は10時出発で駅までお送りいたします。料金のお支払いは、現金のみとなりますのでご了承ください。タオル等は全て備え付けてあります。お食事は当日の夜と翌日の朝にこちらでお持ちいたします。何かご質問はありますか?」


 イバラは一度も言いよどむことなくすらすらと述べてみせる。まるでコールセンターの機械音声のようだと思ったが、会話が出来ているということは生きている人間に違いないのだろう。


「いえ、特に……、あ、1ついいですか?」


 そう言ってはみたものの、全く質問など考えていなかった。

 しかし、ここで電話を切ってしまうと、今しっかりとつながっている幸せへの道が消えてしまうような気がして、つい引き留める発言をしてしまった。

 しばし佳穂が何を聞こうか考えている間、電話の向こうは無音でじっと佳穂の発言を待っているようだった。必死に、何か聞くべきことがないかを考える。


「……もし、急に予定が入って宿泊をキャンセルする必要が出た時は、どこに連絡したらいいのでしょうか?」


 ひねり出した問いがそれだった。まるで幸せをつかむ権利を放棄する可能性がある、と自分で宣言しているようで、後ろめたいような気持ちになる。

 しかし、質問として言葉にしてみたら、実際キャンセルした場合はどうなるんだろう、という気持ちがわいてきたので、我ながら良い質問をしたような気がしてくる。


「宿泊が出来なくなってしまった場合は、ご縁がなかったということで、キャンセルのご連絡は不要です」

「え? じゃあ、キャンセル料は……?」

「そちらも不要です。16時に下芦駅におられない場合は、宿泊できないと判断させていただきます」


 ということは、電話で話をする機会は今回が最初で最後だということだ。あとは当日、現地に行ってみるまで、かすみの家に関する情報は増えることはない。

 顔は見えないが、おそらく当日も会うことになるであろうイバラの名前も手帳にメモしておく。


「そうですか。分かりました」

「他にご質問はございますか?」

「いえ、大丈夫です。当日はよろしくお願いします」


 佳穂はスマートフォンを耳に当てたまま、軽く頭を下げた。相手に自分の礼は見えていないだろうが、何故かやってしまう。働き始めてから出来た癖だった。


「こちらこそお会いできるのが楽しみです。それでは失礼いたします」


 そうして電話は切れたのだった。

 先ほどまで涙が流れていた頬はすっかり乾いており、触るとカサカサとしている。急に色々なことが起こってしまい、どっと疲れを感じる。頭がぼんやりとした。

 テーブルに置いたままのハーブティーを口にすると、ちょうど良い温度になっていた。ゆっくりと飲みながら、頭の中を整理し始める。


 まず、思い出したくもないが、元恋人から電話があった。番号は拒否したので、もうかかってくることはないだろう。

 その後、しばらくして不在着信があり、相手はかすみの家の管理者だった。イバラと名乗ったが、どういう字を書くのだろうか。井原か伊原くらいしか浮かんでこない。


 佳穂は手帳を手に取り、自身のメモ書きをチェックした。『シモヨシ駅 16時』と走り書きされている。

 佳穂は手帳を置き、スマートフォンでシモヨシ駅について検索し始めた。


 シモヨシ駅は漢字では下芦と書き、北東北にあるM市の駅だった。地図で見てみると、目の前が湾になっており、線路が海に沿うように敷かれている。

 乗り換えの検索をすると、東京近辺からは飛行機や新幹線を使っても、5時間程度はかかってしまう場所にあった。時刻表を確認すると、10時過ぎに出発し、15時半頃に向こうに到着するルートがあった。新幹線に乗ってから、その後2回電車を乗り換えることになる。


 佳穂はその画面のスクリーンショットを撮る。帰りの時刻も検索し、10時台に出発し、15時過ぎに東京に戻ってくるルートがあったため、同じようにスクリーンショットを撮った。

 そのままスマートフォンで切符の予約を取ろうと予約サイトを表示させたが、しばらく考えてからその画面を消し、机のノートパソコンに向かった。

 スマートフォンの操作をしているときに電話がかかってきて、意図せずそれに出てしまうのを危惧してしまったからだ。

 少々自分は怯えすぎているのかもしれないとも思うが、午前中にあったことを思い出すと、また嫌な気分にはなりたくなかったため少しでも防ぎたかった。


 パソコンで予約サイトを開き、先ほど調べた時刻通りに切符を予約する。切符は当日か、その前にどこかの駅で受け取る予定だった。

 佳穂は椅子に座ったまま背伸びをした。今日は色々あって疲れてしまった。

 椅子にもたれかかり天井を見上げる。


――ご縁がなかったということで――


 キャンセルの質問をしたときのイバラの言葉を思い出す。不採用、という意味で、就職活動中に何度か目にした文言だ。

 イバラの言葉の意味は、『幸せ』に縁がなかったということなのだろう。


 今までにも縁がなかった人はいたのだろうか。せっかくその権利を手に入れたというのに、自らその権利を手放してしまった人。自分の意思に関係なく、何らかの事情で行けなくなった人もいるだろうが、その人たちは宿泊できなかったということで、さらに不幸になってしまうように思えた。

 天井の角を眺めながら、絶対に自分はそうなりたくないと強く感じた。



 月曜日、佳穂は先日早く起きてしまったときに使ったのと同じ電車に乗った。数本早いだけでこんなに電車が空いているものだとは思わなかった。

 繁忙期の現在は早めに出勤し、少しでも仕事を片付けておいた方が得策だ。この忙しい時期が終わったら、どこかの喫茶店でのんびり時間を潰してから出勤すればいい。


 会社に到着すると、他のフロアにはすでに何人か出勤しているようだったが、佳穂の部署があるフロアはまだ誰も来ていなかった。ブラインドは閉まっているが、天気が良いため部屋の中は真っ暗というよりは少し薄暗いくらいだった。


 まだ電気は点けなくてもいいか、と思いながら自分の席に向かう。机の上を見てがっかりした。書類の山が3つほど出来ているのだ。

 先週の金曜日、佳穂が退社した後にまだ残業していた職員が置いたのだろうが、週明けの朝から嫌な気持ちにさせるのは遠慮してほしい。


 ある程度、書類を仕分けると、佳穂はブラインドを上げるために窓の方へ向かった。

 半分ほどブラインドを上げるだけで、部屋の中がずいぶんと明るくなる。佳穂は窓の外へ視線を落とした。


 佳穂の働くフロアはビルの四階のため、眼下を歩く人々はだいぶ小さく見える。ぼんやりと眺めていると、木ノ内が出勤してくるのが見えた。

 佳穂が出勤する時間には、いつも木ノ内は席に座っていたため知らなかったが、毎日この時間に来ているのだろうか。


 佳穂は木ノ内が上がってくる前に、自分の席に戻ろうとした。

 しかし、突然に違和感を覚えた身体が、振り向くことを拒否する。


 背後の、ごく近いところに気配を感じる。


 先ほどまで誰もいなかったフロアだ。誰か出勤してきたのであれば、ドアを開けたり、歩いたりする音がするはずだった。背後まで誰かが近づいてきているのであれば、当然途中で気が付く。

 今、真後ろに感じるこの大きな気配は、急に佳穂の後ろに現れたのだ。突然現れ、天井近くにある目で佳穂のことを見下ろしている。

 ただ、その視線からは敵意は感じられない。つい数秒前まで窓の外を眺めていた自分と同じように、ただ見ているだけという視線。


「宮地さん、今日は早いのね」


 突如木ノ内の声が耳に入り、身体を支配していた緊張感がなくなった。

 ゆっくりと振り向くと、木ノ内が部屋の電気を点けようとしているところだった。


「……おはようございます、木ノ内さん」


 佳穂はそう言葉を発して、初めて自分の喉がカラカラに乾いていることに気がついた。

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