第3話
翌日、佳穂は珍しく寝坊した。
会社には遅刻せず到着できたが、久しぶりにひやりとした。
おそらく昨日の夜、寝るのが遅くなってしまったからだろう。かすみの家の噂を聞いてから、寝不足が続いていたことも原因かもしれない。
寝坊のせいで朝、葉書を投函することが出来なかった。
早く仕事を終わらせてポストに向かいたかったが、こんな日に限って残業になってしまった。会社を出るとすっかり外は暗くなってしまっていた。
最寄りの駅の入り口にポストがあることは知っていたため、電車に乗る前に葉書を出しに行く。
集荷時間を確認すると、今日の分はすでに終わってしまっていた。
佳穂は少しがっかりしながら、鞄から手帳に挟んであった葉書を取り出す。
投函した葉書は、するりとポストに吸い込まれていった。
「よろしくお願いします」
小さな声で呟きながら、神社で願いごとをするときのように手を合わせた。
時計を確認するともうすぐ帰りの電車が来る時刻だったため、足早に駅構内へと向かう。
空は雲がかかっていて月あかりもなく真っ暗だったが、構内は眩しいほど明るく、佳穂と同じような仕事帰りのサラリーマンや飲み会後の学生の姿などが多く見られた。
ちょうど乗る予定の電車が到着したため、佳穂は他の乗客たちと一緒に乗り込む。
朝の通勤時ほどではないが、電車の中は混雑している。座席はすべて埋まり、立っている乗客も多くいる。
佳穂は比較的周りに人が少ない場所まで移動し吊革につかまった。
電車が動き出した。
吊革を持つ手に体重を預けながら、ぼんやりと外を眺める。川沿いの桜並木が街灯に照らされている。まだ蕾のようで薄ピンク色の花弁は見えないが、来週あたりには少しずつ開花し、満開になる前には大々的なライトアップが始まるだろう。
次の駅に電車が停まると、数人の乗客が降り、それより少し多いくらいの乗客が乗り込んできた。
佳穂の両隣に人が立つ。佳穂と同じくらいの年齢の女性と、少し若い大学生くらいの男性だった。
停車時間が過ぎ、また電車が動き始める。車内がゆったりと揺れた。
電車の揺れで両隣の乗客と肩が触れ合うのが嫌で身を縮めた。
朝はこの倍以上の乗客の中、通勤している。何年電車に乗っていても、満員電車で人混みが一塊になり揺れる感覚には慣れなかった。
そもそもあまり人がたくさんいるところが好きではない。人付き合いが苦手なわけではないが、大勢の人の声が響くテーマパークよりも図書館や博物館のほうが好きだった。
もしかしたら、そういうところが浮気されてしまった原因なのかもしれない。
憂鬱な気分になって視線を落とすと、目の前の席に座っていた乗客と目が合ってしまった。慌てて視線を目の前の窓へと移す。電車内で他人と目が合うことは、何となく気まずかった。
外は夜の景色が広がっていて、窓には車内の様子が映り込んでいる。
ふと佳穂は自分の後ろにぴったりと人影のようなものがあることに気が付いた。
平均的な身長の佳穂よりもかなり背が高い。顔は窓に映りきらず見えなかった。
どきりとする。もしかして痴漢だろうか。
しかし、どこも触られているような感覚はない。
おそるおそる佳穂は顔を自らの背後へと向けた。
そこには佳穂と逆側の窓の方を向いて、吊革につかまっている黄色いコートの女性の姿があるだけだった。
その女性との距離も人ひとり分くらいはある。
もう一度、自分の正面にある窓を見た。
映り込んでいるのは佳穂と吊革につかまっている他の乗客たち、座席の乗客の後頭部だけで、先ほど見えた人影のようなものはなかった。再度、後ろを振り向いて確認するが、そこにも変わった様子はなかった。
佳穂が何度も後ろを確認するので、つられて隣の女性も後ろを振り向いた。
何もないことを確認すると、佳穂のほうをちらりと横目で見る。
佳穂は決まりが悪そうに俯いた。
きっと寝不足で何かの影が人の形に見えたのだ。今日は一日、あまり良いことがない。
いつも利用する駅に停車すると、佳穂はそそくさと電車を降りる。
自意識過剰な感じがして気恥ずかしかった。
その日は家に帰ると夕飯も食べず、シャワーだけ浴びてすぐベッドに潜った。
翌朝はいつもより早く目が覚めた。
ぐっすり眠れた気がするが、それでもまだ昨日のことが頭の隅に残ったままだ。
小さいことから恥をかかないようにしなさい、と言われながら育ってきた。
両親は一人娘のことを気にかけての発言だったろうが、自分は人一倍恥について敏感になってしまったと佳穂は思っていた。
スーツに着替えながら、ぼんやりと記憶を辿る。
あれは小学生の時だ。
親子で参加したワークショップで自分の作った作品を発表した。確かビー玉を使った迷路の箱のようなものを作ったはずだ。
作品発表の段階になって誰よりも早く手を挙げたから、講師もよほど佳穂に自信があるのだと思って、一番先に発表をすることになった。
結果、その工作は失敗だった。
前に出て、ワークショップの参加者に見せようと箱を斜めに傾けたとき、側面の部分が外れたのだ。木工用の接着剤がまだ完全に乾いていなかったのかもしれない。
ほぼ同時に、側面にくっつけていた水車のような仕掛けなども外れて、バラバラと床に落ちていった。ビー玉がどこまでも床を転がっていったのを覚えている。
突然の出来事に驚いていたら、直して後でもう一度発表し直そうね、と講師が優しく声をかけてくれた。その後、必死になって付き添いに来ていた母とともに作品を修正し、無事に発表することができた。
ここまでは良い思い出だった。
その帰り道、母が会話の中で言っていたことを今でも覚えている。
「出来るふりをして失敗をすると恥をかいてしまうのよ」
だから何かをするときは気をつけなさいね、と母は付け加えたが、それから何かに挑戦することは極端に減ってしまった。
社会人になってからも、挑戦とはあまり関わりのない生活を送っている。
今の部署も企画などとは無縁で、毎日、毎週、毎月、ある程度やることが決まっている。その方が安心した。
ここ数ヶ月で挑戦したことと言えば、婚約と婚約破棄、それとかすみの家の応募がそれにあたるのだろうか。
そういえば昨日出した手紙は今日、集荷されるのだろうか。東北のあの地まではいつ頃届くのだろうか。
頭の隅で考えながら、佳穂はいつもより早い電車に乗るためにアパートを出た。
それからしばらく忙しい日々が続いた。
人事異動が発表されたが、佳穂や上司の木ノ内を含め、同じ部署の多数の社員がそのままの配属だった。四月からも上司が変わらず木ノ内であることに安堵を覚える。
佳穂の所属する部署は、社員の入退社に関連した書類作成や備品の管理などで三月、四月は特に忙しい。今までと同様に木ノ内が隣にいてくれるととても心強かった。
残業続きの日々の中でも、かすみの家のことだけは一日のどこかで思い出していた。
いつ頃電話が来るのかなど気になることがたくさんあったが、かすみの家のホームページは元より、インターネット上のどこを探してもその情報は出てこない。
しかし抽選に当たったということが佳穂の心の余裕に繋がっているようで、『幸せになれる家』という情報だけを頼りに調べていた時のような焦りは感じていなかった。
四月も半ばに入った土曜日のことだった。
いつもより遅めの時間に目が覚め、リビングで昼食に何を作ろうかとぼんやり考えていたとき、テーブルに置いていたスマートフォンに着信があった。
どきっとして画面を見ると、そこには非通知の文字はなく、固定電話の番号が表示されていた。記憶にない番号だった。
普段であれば知らない番号からの着信に出ることはなかったが、かすみの家の管理者が非通知設定をし忘れてかけてきたのかもしれないと思い、少し悩んでから画面の応答ボタンを押した。
「はい」
電話に出た佳穂が声を発しても、すぐに返答はなかった。
もしかしたら聞こえなかったのかも。そう思い、何か言おうと口を開きかけた時だった。
「……もしもし、俺だけど」
耳元で男性の声がした。
すぐに佳穂は電話を切った。元恋人の声など聞きたくなかったからだ。
浮気が発覚した日のことを強烈に思い出す。動悸とめまいがする。
佳穂はテーブルに顔を突っ伏して震えながら泣き始めた。
ようやく幸せになれそうなのに、どうしてまたあの声を聞かなければいけないのだろうか。不愉快さと虚しさの中で佳穂はしばらく泣き続けた。
その間、スマートフォンは何度も鳴り続けていたが、手に取られることはなかった。
昼を過ぎた頃、ようやく気持ちが落ち着いてきた佳穂はスマートフォンの画面を確認する。同じ固定電話から十数件着信があった。
おそらく元恋人が実家かどこかから電話をかけてきたのだろう。泣きはらした顔で着信拒否の設定を行う。
彼の両親とは婚約破棄の話し合いの際に電話番号を交換していたが、全てが終わった後、もう関わらないようにと、お互いに番号を消去することを約束していた。
電話番号を変えておくべきだったと佳穂は後悔した。
喉の渇きに気づき、佳穂はお茶を淹れるためにキッチンへ向かった。
電気ケトルに水を注ぎ、電源を入れる。戸棚からハーブティーのティーバッグを取り出した。木ノ内からもらったものだ。
木ノ内はよく差し入れやプレゼントをくれる人だった。
社外に用事があって出かけた帰りなど、ちょっとしたお菓子などを部下全員に買ってきてくれる。このハーブティーも会議で行ったホテルのブランドのものだったはずだ。ここにいない木ノ内の優しさを感じる。
ティーバッグを入れたマグカップに沸きたてのお湯を入れる。
ぐすぐすと鼻をいわせながらリビングに戻ると、スマートフォンが着信を知らせていた。
もしかしてまた元恋人からだろうかと身構える。
マグカップを慎重にテーブルに置くと、ゆっくりと画面を見る。
そこには非通知設定と表示されていた。
佳穂は電話に出ようか悩んだ。元恋人が非通知設定で電話をかけている可能性があったからだ。
だが、何となく、そうではない気もしていた。
佳穂はスマートフォンを手に取り、躊躇いがちに応答ボタンを押した。
「……はい」
「わたくし、かすみの家の管理をしております、イバラと申します」
凛とした女性の声が聞こえた。
「宮地佳穂様のお電話でお間違いないでしょうか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます