第2話

 雪の降る中、アパートに帰ると、佳穂はすぐにノートパソコンの電源を入れた。

 先ほど会社で見たホームページを表示させる。

 かすみの家のホームページ自体はとてもシンプルなもので、トップページと応募フォームが用意されているだけだった。


 トップページをスクロールしていくと、かすみの家の紹介文が表示される。

 どうやら東北地方にある古民家を一軒丸々宿泊用に貸し出しているようだ。民泊のようなものなのだろうか。


『泊まると幸せになれる家』の由来として、元はこの家に移り住んだ家族が商売で成功した話、泊まった客人が幸福を手に入れたという話が載っている。明治の頃の話らしい。

 その後、住む人がいなくなり、かすみの家として貸し出すようになってからも、泊まった人が幸せになったという話が度々あったということだった。

 しかし、幸せになれるという噂が広まってしまった結果、予約や問い合わせが殺到し管理が難しくなってしまったため、現在は抽選で宿泊できる人を決めていると書いてある。


 どうりでかすみの家の住所や電話番号、さらに家の外観が分かるような写真さえ何も載っていないわけだ、と佳穂は納得した。

 泊まるだけで幸せになれる家があるとすれば、誰しも一度は泊まりたいと思うだろう。

 さらに実際に幸せになった人がいるという実績もあるのであれば、もしかするとどんな手を使ってでも泊まろうとした人もいたのではないか。

 婚約破棄直後にこの家の場所を知ってしまっていたら、自分は何としてでも泊まろうとし、押しかけてしまっていたかもしれないと佳穂は思う。


 応募フォームを見てみると、自分の名前と住所を入力するだけの簡素なものだった。電話番号やメールアドレスを入力する欄は存在しない。

 応募をすると、一ヶ月に一度宿泊者を決める抽選が行われ、当選した人にのみ管理者から葉書が送られてくるのだという。外れた場合は、翌月にまた抽選されるそうだ。

 普段ならこんな怪しいホームページで名前や住所を入力しようとは考えもしないだろう。しかし佳穂は躊躇なく名前と住所を入力すると、応募ボタンをクリックした。


 大きく息を吐いた。知らないうちに気が張りつめていたようだった。

 まだ応募をしただけの段階ではあったが、幸せに向かって一歩踏み出せた気がして、久しぶりに高揚感を感じた。

 ノートパソコンを閉じると、コーヒーを淹れにキッチンへ向かう。

 高校の同窓会の件はすっかり佳穂の頭の中からは抜けていた。



 アパートに帰ると、真っ先にドアポストを確認する日々が続いていた。

 しかし届いているものはと言うと、公共料金の明細、宅配業者の不在連絡票、ダイレクトメールくらいだった。

 かすみの家に応募したときに感じた興奮は長くは続かなかった。

 毎日ポストを確認するたびに、失望感が溜まっていく。一度前向きになった気持ちが落ち込んでいくと、その前よりもさらに惨めな気持ちを感じてしまう。


 かすみの家の宿泊に応募した頃はまだ雪が降る日もあったが、季節は春へと変わろうとしていた。

 少し肌寒い日の夜、買い物を終えてアパートに帰ってくると、廊下からドアポストに何かが挟まっているのが見えた。

 葉書のようだ。ドアの外から郵便番号枠だけが見えている。


 まさか、と佳穂は一瞬期待したが、どうせ何かの割引だろうと、この後落胆しないための予防線を張る。

 挟まった葉書を慎重にドアポストの内側に落とすと、一度深呼吸をし、落ち着いてドアの鍵を開ける。

 部屋の中に入りドアポストを確認すると、チラシに交じって先ほど落とした葉書があった。


 葉書を手にし、そのまま足元は玄関に置いたまま、ひんやりとした廊下に腰を下ろした。葉書を確認すると、宛名には手書きで『宮地 佳穂 様』とある。

 それは往復葉書になっていて、往信面にはいくつか文言がある。

 返信面の宛名には、ある東北地方の町の住所と、『かすみの家管理者 行』と印刷されているのが見えた。


「当たった……」


 廊下に座ったまま、佳穂は小さな声でつぶやく。

 心拍数が上がった。心音はいつもより大きく聞こえるのに、何だか周りの音は小さく聞こえる。驚きと喜びで失神しそうな気分だった。

 気持ちが落ち着くまでしばらくそのまま座っていたが、少ししてようやく思考が通常通りに戻ってきた気がしたので、靴を脱いでリビングへ向かった。


 佳穂は荷物をテーブルに置くと、ソファに腰を下ろし、もう一度宛名が自分のものか確認した。間違いなく、宮地佳穂と書かれている。

 流麗な手書きの文字は若い人が書いたようなものには見えなかった。

 中の文面を確認する。往信面の宛名だけが手書きで、他の部分は横書きで印字されていた。


『この度はかすみの家の宿泊にご応募いただきありがとうございます。抽選の結果、お客様が当選されましたので、ご連絡を差し上げました』


 以下に案内と注意事項が続いている。

 料金は夕食、朝食込みで一泊一万円。

 かすみの家は山道の先にあり、地元以外の人の運転は危険なため、最寄りの駅まで送迎の車があるそうだ。


 そして、宿泊日の決め方が一般的な宿泊施設とは大きく異なっていた。


『こちらの勝手で申し訳ございませんが、お客様側で宿泊のお日にちを指定することはできません。都合の悪い日を返信面にご記入下さい』


 普通のホテルや旅館であれば、宿泊者の希望する日に部屋が空いていれば部屋を予約できる、というのが通常の流れである。

 しかしかすみの家はその逆で宿泊日は決められない。

 それはつまり、幸せになれる日を宿泊者自身は決めることができないということだ。


『希望が殺到しており、タイミングが合う方からのご案内となります。ご了承ください』


 そのように注意書きがある。

 自分で宿泊する日を決められなければ、いつ宿泊できるかの連絡が来るかも分からない。まるで人を泊める気がなさそうだが、それでもこの家にはそれだけ泊まる価値がある。


 注意書きの下に宿泊日が決まり次第連絡をするため、返信面に電話番号など必要事項を書くように記してあった。

 宿泊日決定の連絡は、管理者から非通知設定で電話がかかってくる。

 ホームページに電話番号を載せていないくらいなのだから、この連絡で使用する電話番号も広まってしまうと困るということだろう。


 その他、注意事項として、かすみの家の存在自体は口外してもいいが、その場所や過ごした様子については誰にも言ってはならないこと、写真を撮ることも許されていないことが書いてあった。

 返信面に必要事項を記入し、葉書を送った時点でこの約束事に同意したこととみなされる。


 佳穂は不思議に思った。

 写真に関しては到着時にカメラを回収されたり、家の中に監視カメラがあったりして撮影できない、撮影しても見つかるというような工夫がされているのかもしれない。

 しかし過ごした様子を誰にも言わないという約束を守ることは、果たして可能なのだろうか。インターネット上の書き込みであれば、かすみの家の管理者がチェックし削除のお願いをすることも可能なのかもしれないが、人の口には戸が立てられない。


 例えば、友人同士の会話でうっかり「幸せになれる家に泊まってきた」などと言ったら、おそらくその友人は幸せになれたかとか、その家はどんな様子だったのかを聞くはずだ。

 そして泊まった本人も言いたくなってしまうのではないだろうか。自分は多数の希望者の中から選ばれて、そして幸せになる権利を得たというのであれば、ついその詳細を語り、自慢したくなってしまってもおかしくはない。

 かすみの家から日常に戻った時、その先どこで、誰が、そこで起こったことを口にしても管理者は止めようがないはずだ。

 だが実際、あれほど『幸せになれる家』について検索して何の情報も出てこなかったということは、過去の宿泊者たちは確実にこの約束を守っているということだ。


 約束を守らなければ、幸せになれないのかもしれない。佳穂はそう思った。

 もしかしたら、約束を守れる人が選ばれているのかも、とも思う。どうやって約束を守る人、守らない人を見分けるかは分からなかったが。


 自分は選ばれたのだから絶対にこの約束を守ろう、と固く決意し返信面の記入事項を確認する。

 名前、住所、電話番号と予約の際によくある項目の次に、宿泊が出来ない日を書くようになっていた。都合の悪い日がない場合は、隣の欄にチェックをする。

 その下に食べ物のアレルギーを記入する欄があった。


 通勤用の鞄から手帳を取り出し、予定をチェックする。三月末から四月初旬は年度替わりで忙しいが、それ以外は早めに日付が分かれば平日でも休みを取ることができそうだった。

 手帳に挟んでいたボールペンで葉書に記入をしていく。高級感のある青い見た目のボールペンは、両親が就職祝いに買ってくれたものだった。芯を替えながら、五年ほど使い続けている。

 宿泊が出来ない日の欄に三月末から四月初め頃まで、アレルギーの欄には無し、と記入した。幸いにも花粉症なども含めアレルギー症状が出たことは一度もなかった。


 書き終えた葉書に間違いがないかもう一度チェックする。

 大丈夫なようだったので壁際に置いてある机からカッターマットを持ってくる。定規とカッターを使って綺麗に往復はがきを切り離した。

 最後に宛名のかすみの家管理者『行』の上に縦線を二本引き、下に『様』と書いた。

 先ほどの手帳に葉書を挟み込むと鞄にしまう。明日の通勤時に駅のポストに投函するつもりだ。


 時計はすでに午後九時をまわっていた。

 これから夕飯の支度をするのは面倒だったので、ご飯とおかずがセットになった冷凍食品を電子レンジに入れる。

 早く明日が来ないか待ち遠しくて仕方のないような表情で、佳穂は電子レンジの残りの秒数を見ていた。

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