かすみの家

北上マサラ

佳穂

第1話

『泊まると幸せになれる家がある』


 その噂をしたのは、まだ雪が降っている頃だったと思う。

 宮地佳穂みやじかほはぼんやりとその日のことを脳裏に浮かべながら、電車の外を見た。二両編成の黄緑色のラインの入った電車は、カーブした海岸線に合わせて走り続ける。平日ということもあり、車内の乗客はまばらだ。


 湾内は凪いでいて、時折漁船が目に入る。午後の日差しが海岸に寄せる波を照らした。あと一時間ほどで目的地に到着するだろう。佳穂はストレスから逃れられた解放感と、確約されたであろう幸せに期待を膨らませた。


 きっかけは数か月前、耳にした噂話だった。



 婚約者に浮気をされ、同棲したアパートを引き払ったのは一月の半ば辺りだった。

 一人娘の結婚を心待ちにしていた両親に浮気と婚約破棄を伝えると佳穂よりも憤慨したため、逆に冷静になることができたように思う。


 うちの娘が恥をかかされた、と母が口にしていた。母は大切な一人娘が恥をかかないようにと、いつも気にしているような人だったから余計に娘の婚約破棄はショックだったらしい。


 そんな両親を呼ぶと暴行事件に繋がりかねなかったので、浮気と婚約破棄の話し合いは、佳穂と元婚約者、その両親とで行うことになった。話し合いは向こうの両親の協力的な姿勢があったため、意外にすんなりとまとまった。義理の両親になる予定だった二人からの誠心誠意の謝罪と、僅かばかりというには多すぎる慰謝料。

 佳穂が手に入れたのはその二つだった。


 最後まで元婚約者からは謝罪の言葉を聞くことはできなかった。それどころか、佳穂と元婚約者、その両親を交えた話し合いでは、そっぽを向いたままでろくに会話もしなかったと思う。結婚の具体的な日時を決めていなかったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。


 両親は佳穂が実家に帰ってくることを望んだが、それはできなかった。遠方にある実家から会社までは二時間以上はかかってしまう。毎日、その時間を通勤に費やすのは嫌だった。


 今の会社を退職するつもりもなかったため、取り急ぎ新居は会社から数駅の場所に借りた。築十五年、1LDKのアパート。前の住居で使っていた家具は大体引き取った。物に罪はないはずだ。

 ただ、ダブルサイズのベッドだけは引き取る気が起きず処分した。

 

 引っ越してからというもの、結婚という目標がなくなってしまった佳穂は度々散歩に出かけるようになった。歩いていると色々なことを考えずに済みそうだった。散歩が趣味になったことを母に伝えると、一人でうろつくのは恥ずかしい、と言われてしまった。都会では誰も他人のことを気にしないから大丈夫、と反論すると、まだ何か言いたそうにしていたが、それ以上のお咎めはなかった。


 母は結婚してからずっと専業主婦をしているうちに、テレビや雑誌の情報から独自の恥概念を持つようになったようで、それを元に度々佳穂に忠告してくる。一人娘の身を案じての発言もあるだろうが、それは佳穂の価値観形成にも大きく関わった。恥をかかないように、と言われて育った結果、どれが恥にあたる行為かについて敏感な人間ができあがったように思う。


 二月の雪のちらつく日、佳穂はいつものように散歩に出かけた。アパート近くの公園をぐるりと一周し、見つけた細い路地を闇雲に進む、行き当たりばったりの散歩だ。


 歩きながらも時折、結婚できなかったという事実を思い出す。結婚したら幸せになれる、と幼い頃に聞いたのをいつまでも信じていたつもりはなかったが、心のどこかでそう思うところがあったらしい。自分は幸せになれなかったんだなあ、と落胆している自分がいた。


 そんな考えをかき消そうと歩き続けていたが、気づけば見知らぬ場所を歩いていた。地図アプリを開くと、駅方面とは逆方向の住宅の密集している区域にいることが分かった。家を出てからすでに三十分ほど経っていて、寒風で鼻先が冷たくなっている。風邪をひかないうちに帰ろうと思い、アパートの方向を確認しているとすぐ近くに喫茶店があることに気がついた。


 一度、そこで温まってから帰ろう。そう決めて、佳穂は地図アプリを頼りにその喫茶店に向かった。三分ほどで濃い緑色の外観に、道路に面した大きなガラス窓を持つ都会のお洒落な喫茶店にたどり着いた。


 中に入って辺りを見渡す。店内はそれほど広くはなく、カウンター席が六つと、四人掛けと二人掛けのテーブルがそれぞれ二つずつある。まばらに座る客の姿が目に入った。すぐに駆け寄ってきた店員に一人であることを伝えると、窓際の二人掛けの席に案内された。


 向かいの椅子に水色のコートをかけ、メニューを開く。何を頼むか決まらず、何度かページを行ったり来たりしていたが、結局初めに書かれていたブレンドコーヒーを注文した。外はまだ雪が降っているが、雲の合間から陽が差している。木目調のテーブルが日差しに照らされてほのかに暖かくなっていた。


 コーヒーが運ばれてくるまでの間、スマートフォンでSNSを確認する。時間があると何となく開いてしまう。癖のようなものだ。旅行の写真、ペットの写真、そして結婚式の写真が並んでいる。知っている人、知らない人関係なく、全てのものがうらやましく思えてしまう。


 どうして私が、という気持ちが沸き上がってくるのを抑えたくて画面を消した。人の幸せを妬んでしまう自分が嫌になる。間を置かずして、コーヒーが運ばれてきた。

 気持ちを落ち着かせようと、カップに口をつけた時だった。


「泊まるだけで幸せになれる家があるらしいよ」


 決して騒がしい店内ではなかったが、その言葉はやけにはっきり聞こえた。耳を澄ますと、カウンターに座っている友人同士の会話のようだ。カウンターは背後にあるため、姿を見ることはできないが、どうやら二人の女性が話しているらしい。


「家? 宿じゃなくて?」

「そう、家なんだって。昨日、ネットの配信で見たんだ」

「あんた、ホントにそういうの好きだね。で、どこにあるの、その家」

「それがね、場所とかは全然分かんないの。どこにあるかも、どんな家なのかも。でも、ネットでちゃんと探すと出てくるらしいよ」

「何それ、ちゃんと調べてから教えてよ。本当に泊まるだけで幸せになれるならいいよねえ。宝くじが当たったりするのかな」


 その後も二人の会話は続いていたが、佳穂の耳にはもう届いていなかった。


 幸せになれる。


 佳穂にとって、それは今一番必要としているものだ。婚約者に浮気をされ、幸せに続いていたはずの結婚もなくなった。

 この絶望を抜け出すために、どうしてもその家に泊まりたい。


 佳穂は先ほど画面を消したばかりのスマートフォンを使い検索を始めた。

『泊まるだけ 幸せ 家』『幸運 家 宿泊』……

 しかし、いくら検索する単語を変えてみても、関係するような情報は出てくることはなく、出て来るのは観光地のホテルやパワースポットの情報ばかりだった。


 しばらくしてカウンターの二人がすでに店を出てしまったことに気づいた。話し声はもう聞えなくなっていて、これ以上その家に関する情報が増えないことを知った。急に自分の必死さに気が付いて、佳穂は小さくため息をつく。冷めてしまったコーヒーを飲み干すと店を後にした。まだ外は少し雪がちらついていた。



 あの『幸せになれる家』の話を聞いてから数日経ったが、佳穂はいまだ、あの家のことを忘れられずにいた。家にいても、職場の休憩時間でも、気が付くとその家について調べてしまっている。しかし、それに繋がるような情報は何も得られていなかった。


 インターネット上で誰かが言い始めた都市伝説なのかもしれない。これ以上探しても見つからない、と頭の片隅では分かっていたが、佳穂は諦められきれなかった。

 どういう結婚式にしようか考えていたとき、上司にこっそり婚約の報告をしたとき、まさかこんなことになるとは思ってもいなかった。


 どんな困難があっても幸せになれると思っていた、あの日までは。その夢は消えた。どうしても幸せになりたい。


「宮地さん、宮地さん。大丈夫?」


 声をかけられていることに気が付き顔をあげる。上司の木ノ内彩香きのうちさやかが心配そうな顔でこちらを見つめていた。


「顔色が悪そうだけど、大丈夫?」


 どうやら心配して声をかけたくなるような顔になっていたらしい。ここ最近、ベッドに入ってからもあの家のことを調べていたため、決して睡眠の質は良いとは言えなかった。


「大丈夫です。……少し、ぼうっとしてしまって」

「そう? もし、調子が悪かったら無理をしないで早退してね」


 笑顔ではあったが心配そうな顔をしている木ノ内に、こちらもできる限りの笑みを作り頷く。木ノ内は七つ年上の直属の上司だ。今の部署に同じタイミングで配属されてから数年、隣の席で仕事をしている。自分の仕事も忙しいだろうに、こまめに部下のことを気にかけてくれる、どこか姉のような信頼できる上司だった。


 そんな存在の木ノ内だったため、プロポーズされた翌日、まだ入籍日も何も決まっていないのに婚約することを伝えた。木ノ内と退社時間を合わせ、休憩室で婚約したことを打ち明けると、自分のことのように喜んでくれた。おめでとう、具体的な日づけが決まったら教えてね、それまでは内緒にしてるから、と笑顔で言ってくれたのが懐かしい。


 その後、まさか一ヶ月も経たずに破談になるとは思いもしなかった。両親に会社へ報告していないか聞かれ、木ノ内に伝えたことに気づいたときには血の気が引いた。あんなに喜んでくれたのに、どう破談の件を話したらいいか悩んだ。そして、報告もしなければ良かったと後悔した。


 婚約を伝えた日と同じように、退社のタイミングを合わせ、婚約破棄とその顛末を伝えると、また自分のことのように涙を流しながら怒ってくれた。やはり、婚約の報告はしない方が良かったと心の底から思った。


 それから木ノ内は以前にも増して、佳穂のことを気にかけてくれるようになったように感じる。これ以上の心配はかけたくない。そう思い、午後からの仕事も頑張らねばと背伸びをした。


 手帳を確認していると、スマートフォンが振動した。画面を見てみるとSNSの通知がきている。どうやら高校の同窓会があるようだった。地元を出てから十年ほど経つが、今までそういった集まりに参加したことがなかった。気分転換に顔を出すのもいいのかもしれない。帰りの電車の中でメッセージを確認しようと考えたときに、ふと思いつく。


 そのSNSの上部にある検索欄に『幸せになれる家』と入力する。何十件もの検索結果が表示された。理想の家づくり、風水による家具の色など、企業の広告やデザインをウリにしているアカウントの投稿ばかりで、佳穂の欲しい情報は見当たらない。

 やはり都市伝説のようなものなのだろうか。そう思いながら画面をスクロールしていく。


〈泊まると幸せになれる家〉


 その投稿が目に入った。佳穂は食い入るように画面を見つめる。鼓動が高まったのを感じた。


〈泊まると幸せになれる家。抽選のご応募は以下のURLから〉

 

 投稿には緑豊かな森の写真が添えられてある。URLをタップしてみると、ホームページが表示された。どこかの田舎だろうか、田んぼや山々の風景が大きく表示されており、その上部に『かすみの家』と掲げられている。


 ついに見つけた。これで幸せになることができる。


 佳穂は他のページも確認しようとしたが、外食に出ていた課員が戻ってきた音で休憩時間があと五分足らずで終わることに気が付いた。終業時間まではあと五時間ほどある。それまで気持ちを抑えておくことは出来なさそうだった。


「……あの、木ノ内さん、やっぱり体調が優れないので早退してもいいですか?」 


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