第一章 善人が住まうセカイ
第一話 邂逅
「はじめまして、こんにちは」そう、挨拶をしわたしは名刺を手渡した。
「記者をしているの」、と言い彼を見据える。
変わり映えのない景色を眺め車に揺られること数十分。白く大きな屋敷の前に着いた。屋敷と言ってもここは牢であるのだからそこまで豪華というわけではなかった。
「……………はぁ」
外で担当者に渡された地図は、なんというかすごく古めかしい、時代遅れなものだった。おかげで。無人自動車からここにつくまでかなりの時間がかかってしまった。
今どき。紙の地図があることに若干驚いたのは言うまでもないだろう。
「……はじめして。片瀬美琴さん」
彼はそう言うと名刺をじっと見つめ僅かに顔を曇らせた。
「……僕は、
藍は目眩がするほどの白い部屋に居た。白い机に白いソファ。窓一つ無いそんな歪な空間だ。年は35程だろうか。無精髭を生やしたその顔には生気が無く、長ったらしい髪は目を隠していた。
『不潔』。真っ先に抱いた彼の第一印象だった。
「………わたしがここに来たのは貴方に聞きたいことがあったからよ」
そう問いかければ藍はこちらにようやく目を向けた。虚無感を抱いているような、そんな男だった。
早く、ここから出たい。顔には出していないだろうが笑顔の下でわたしはそう思った。
「……僕に、聞きたいこと?」
前髪から除く瞳には光がなかった。藍の問には答えず鞄の中から資料を取り出した。
「財前さん」と名を呼び話を始める。
「人にとっての『幸せ』とは一体何なのでしょうか」
「え………?」
わたしの問いかけに藍はやや困惑した。
「なんだと思いますか?」
再度そう問いかければ彼は少しの間の後におずおずと口を開いた。
「わかりません。………でも」
一度区切り彼はより小さな声で言った。
「『幸せ』とは自分の願いが叶うことではないでしょうか………」
一つうなずき私は肯定を示した。
「私もそう思います。『幸せ』とは自分の願いが叶うことだと」
何が言いたいのかと藍はそっとわたしを覗き見た。
「そう、だからこそ。財前さん、貴方が作ったこのレシピについてわたしは聞きたいんです」
バサリ、と机の上に資料を置いた。
「…………………………ッ」
ソレを見せると藍は一層暗い表情をした。
狼狽えているのは、それがどういうものなのかわかっているということ。
暫く藍は黙り込んだ。チラッチラッと視線をせわしなく動かし指を絡めあわせている。コツっとヒールを鳴らし腕を組んで彼を逃さぬように見つめた。
ここから逃げ出すことなどできやしないのだろうが、万が一。彼の少しの変化も見逃したくなどなかった。
息を付き僅かに下を向いていると「あの」と藍は声をかけてきた。
「………どうぞ、おかけください」
「えっ?………あ、ああ。どうも」
特に断る理由もなかったのでありがたくソファにかけた。意外と座り心地は良かった。すると。藍の後ろの白い壁が揺れ動くのを見た。そしてそれが壁ではなく巨大なディスプレイだとも気付いた。
随分大きなディスプレイだ。一体何に使わるのか。
そう訝しげに見つめていると、ヴン、という音がしてディスプレイになにかが浮かび上がった。それは幾何学模様をした歯車だった。
「アオイ。お客さんにその態度はイケませんよ」
歯車が回り声が響いた。どこか無機質な感情の投影されていないように聞こえる声だった。
「…………アイ」
低くそう呟いた藍は、ソファに寄り掛かりその虚ろな瞳を宙に彷徨わせる。
「はじめして、カタセミコトさん。ワタシはアイ。ここを統治する
そう人工知能は自己紹介をした。
「………ご丁寧にどうも」
声を固くして軽く頭を下げる。歯車が更に回り声が発せられた。
「ミコトさんがアオイ、アナタにキイテイルのは|
事も無げに発せられたその単語に藍はビクっと反応した。
「……………あ、あれは」
「……………!」
今までそのことについて触れなかった藍が声を漏らし出した。まるで今まで食い止めていた川の流れが少しずつ決壊するかのように。ガタガタと震える体を両手で抱きしめながら藍は言葉を漏らす。
「創っていいものじゃ無かった…………」、と。
「あれは……、あれはっ。人間が手にして良いものじゃないッ!」
頭に手を当て髪をギュッと掴み、まるでナニカに取り憑かれたように藍は唐突に錯乱状態に陥った。
「僕は…………僕は、なんてものをッ」
正気を失った人間ほど口の軽いものはない。
「財前さん」とわたしはゆっくりと藍に話しかける。核心に迫るには、速く踏み込んだほうがいい。
今がその時だ。
「あれを使用すると、どんな『幸せが訪れる』のか、教えてもらえますか?」
にこり、と優しい声と笑顔でわたしは言った。
「……………ぅ…………ぁ、、」
目を見開き涙を流す藍の顔を見たとき。頭のどこか奥底の方で警鐘が鳴ったような気がした。
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出版社に帰ってきた美琴は上司である
結局、あの後藍が錯乱状態から戻ることはなく肝心な質問には答えてはくれなかった。だが
「……………以上が今日の報告となります」
わたしが手にした資料とメモを笹山に手渡した。パラパラと報告書をめくり一つ頷いた。
「………ご苦労だった、片瀬。仕事に戻ってくれ」
笹山は淡々とそう言うとどこかに電話をかけ始めた。
縁無し眼鏡の奥で。その切れ長の目が冷たく光ったような気がした。
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デスクに戻ると美琴はコーヒーを口にした。ギッとデスクチェアに寄りかかりほっと息をつく。オフィスは活気にあふれていた。
もう二度と
牢と言うには歪なあの空間。いや、セカイと言ったほうがいいのかもしれない。
だが、もう関係のないことだ。あとは記事を出せるか、それが問題というだけ。
コーヒーを一口すすり仕事に取り掛かる。
「わたしにはもう関係ない」、なんの確信もなくそう考えていた。
いや、普通ならそう考えるだろう。
キーボードを叩く音がいつもより強く聞こえた。
人がいつ犯罪を犯すかなんて誰にもわからないというのに。
愚かな幻想を見ていたと気づいたときはもう、何もかもが遅かった。
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