18.遠くに行っても忘れない

食卓テーブルに並べられた味噌汁を口にすると薄味だった。疲れた体は濃い味付けを欲しているけれど、意気地のない僕は言葉にすることが出来ない。


 真帆は僕の顔を伺いながら聞いてくる。


「どう? 美味しい?」

「うん、美味しいよ」

「いつもありがとう」


 定型文のようなやり取り。それが正解だとわかっているから口にする。


 さりげなく料理は僕が担当すると言っていても、彼女は料理だけは自分がやりたい、絶対にキッチンを譲らなかった。


 不味いわけではないが好みの問題だ。同棲をしてからというも家事は分けていて、掃除は僕が担当している。


 彼女は僕の食事を見守りながら、口を開いた。


「そろそろどこか行きたいよね。旅行とかさ」

「そうだね。どこかにいこっか」


 楽しそうに話す姿を見ていると、つられて自分も口角が上がっていく。


 真帆との出会いは、ナンパに入るのだろうか。仕事と家の往復しかしていなかった僕は、ある日声をかけられて真帆と出会った。


 始めは怪しいと思ったけれど、彼女の話を聞いているうちに自然と心を開いていった。


 真帆はすぐに「同棲を始めよう」と言った。もしかしたら僕と親密になるまでがストーリーで、家を荒らされる可能性は充分にあったけれど、盗まれる物は何もないし、僕は二つ返事で了承した。


 それからずっと同棲を続けている。


 少しずつ、つまらなかった毎日が彼女のおかげで変わっていった。もし彼女と出会わなかったらと思うと少し怖い。


「来週の土曜とかどうかな?」

「ごめん、来週は出張入っているから行けないんだ」

「……そっか、仕事なら仕方ないよね」


 真帆はそう言うと、悲しそうに俯いた。こんな時、どんな言葉を掛ければ良いかわからない。何が正解で、何を彼女が求めているかわからない。

 

 天真爛漫な彼女だが、時折ひどく不安定になることがあった。


 一つでも間違えてしまったら崩れてしまいそうで。別の男なら、なんて言葉を掛けるんだろうと意味のないことばかり考えてしまう。


「もうやめようか。この関係」

「え、どうして?」


 いきなりだった。僕には止めることは出来ないとわかっていても、反射的に理由を聞いてしまう。

  

 何度も悩んでいる姿は知っているが、口に出されたことは今日が初めてだ。


 出会ってすぐなら「やっぱりな」と思えたかもしれない。しかし、半年も一緒の時間を過ごして入れば、気持ちは変わってしまう。


「こんな関係良くないよ。甲斐くんにも……」

 

 そっか。もう僕の役目は終わったんだね。


「私のわがままに付き合わせてごめんね」

「うん、真帆さんがそれでいいなら」

「ありがとう」


 彼女は何も持たずに出ていってしまう。こうなることはわかっていた。準備はしていたつもりだったが、胸の中に芽吹いた気持ちをどうやって処理していいかわからない。


 

 真帆さんは、亡くなってしまった甲斐さんという人を僕に重ねていた。容姿、雰囲気、言動が全て似ていたらしい。


 だから初めに話を聞いた時は、怪しいと思いはしたけれど、突き放すことは出来なかった。


 甲斐くん、甲斐くんと、いつも僕を呼ぶ。

 彼女は僕の本当の名前を知らないし、僕も彼女の苗字を知らない。味の好みも甲斐さんが好きな味だった。

 

 遠くに行ってしまった彼を忘れることは出来ないにしても、消化できればいいと思っていたが、真帆さん出来たのだろうか。


 彼女はもう戻らない。けれど、前に進めるならいいと思った。


 また灰色の世界に戻るだけだ。

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