15.後輩A
月夜が照らす道を私は一人歩いていく。くたびれたスーツに身を包んだ男性が肩組んで歩いていたり、呑みたりなかったのか、コンビニで買った缶ビールを路上で飲んでいる若い人達。飲み屋街のこの場所は様々な人間が羽目を外している。
私は出来るだけ話しかけられないように早足で歩きながらも、どうしてこんな役割を引き受けたのか、後悔してため息をついた。
「まったく、人使い荒いんだから」
不満も愚痴も、この場所に溶けていく。
目的の居酒屋に目の前に着いて、既読はつかないと思うけど、一応ラインを送ってみる。案の定返信はなく、私は渋々、居酒屋のドアを開けた。
「何名様ですか?」
「あ、いえ。人を迎えにきただけですので」
ごめんなさい店員さん。私は愛想笑いをしながら店内に入っていき、目的の人物を探していると、すぐに見つかった。予想通り、目は虚になって、周りにいる同年代の女の子に遊ばれている。
大学生にもなって。いや、大学生だからこんな飲み方しかできないのか。
こめかみを抑えながら、私は目的の人物へと向かっていった。
「先輩、帰りますよ」
「あー、茉莉奈? 今帰るところだったんだ」
「違います。その茉莉奈さんに迎えを頼まれた、林夏です」
あーもう。どうしてこの人はこうも腹が立つのだろう。
こんなことなら茉莉奈さんのお願いなんて引き受けなければ良かった。桃次先輩が帰ろうとしなかったとか、適当理由をつけて、何も知らないふりをして。けれど、本当にそうしてしまったら、どこの馬の骨とも知らない女に持って帰られそうで、彼女じゃない私でもそれは嫌だった。
そもそもサークルの打ち上げだから茉莉奈さんが打ち上げに参加することを許したのだ。桃次先輩と女の人が絡むことを好まない彼女は、不安で不安で仕方がないだろう。その分、私は桃次先輩と高校から仲の良い先輩、後輩だと信頼をされている。だから、こうして迎えにいくことを頼んだはずだ。
「はあー……」
私は壁にかけてあった先輩のダウンジャケットを取って着替えさせる。
「ほら、いきますよ。そろそろ帰らないと彼女さんに怒られます」
「う〜ん、わかったよ。帰りましょう」
「あなたの準備待ちなんですけどね」
会計を済ませて居酒屋を出ると、二月の風が肌を撫でる。自分が白い息は空に昇って、すぐに消えてしまった。
「ごめんなー、わざわざを迎えにきてもらって」
「いいですよ。いつものことです」
桃次先輩の足元は、お酒のせいかふらついていて、顔は火照って赤くなっている。千鳥足の先輩は何度も肩にぶつかってくるが、私は避けようとはしなかった。
駅のホームに入り、改札を抜けると、次の地下鉄までは三分の程の時間がある。
「先輩って、茉莉奈さんと付き合って幸せですか」
「なんて質問だよ。恥ずかしやつだな」
「……いいから答えて下さいよ」
先輩は「んー」と唸った後、恥ずかしそうに、まだくるはずのない地下鉄の方に視線を向けてポツリと話し始めた。
「一つあげるとすれば、知らないことを沢山教えてくれるところかな。あんまり新しいことに挑戦しない性分だったから、連れ回してくれて色々経験できたし」
桃次先輩は奥手で、自分から進んで話すタイプではなかった。そんな彼だからこそ茉莉奈さんみたいなタイプが合っている。
「そうなんですね……」
私の返答を落ち込んでいると勘違いしたのか、ぽんっと頭を撫でられる。
「大学生になって恋愛に興味が出てきたのか? 彼氏ができたらちゃんと報告してくれよ。相談には乗るからさ」
先輩は屈託のない笑顔でそう伝えてきた。
それがきっと……答えなのだろう。
『女』という認識は先輩の中にはない。よく懐く、ただの後輩A。
でも、私は……。
「先輩、来ましたよ。乗りましょう」
電車内は混んでいるとも空いているとも言えない状態だった。二人分空いている席を見つけ、当たり前のように肩を並べて座った。
『扉が閉まります。ご注意下さい』
扉が閉まり、車内が揺れる。あと三駅先が茉莉奈さんの最寄り駅。
肩に重さが加わって隣を見ると、はしゃぎ疲れたのか眠っている先輩が目に入る。そんな無防備な姿を愛おしいと思うと同時に、いけない気持ちだとかき消そうとした。
ただの後輩に見せない顔が、茉莉奈さんだけが知っているだろう。
高校の時もそうだった。桃次先輩は誰とも付き合っていない。一番仲の良い異性は、先輩の同級生を入れたとしても、私で間違いはなかった。
けれど、関係を壊すことが怖くて『懐いてくれる後輩』を演じていた。
それは、きっと今も……。
私は先輩を追っかけてここの大学を選んだ。だけど、私が大学に入学した頃には、一度も見せたことない顔を、私以外の人に向けていた。
茉莉奈さんは優しい人だ。三人でご飯に行ったこともある。なにもわからなかった履修登録の相談も乗ってくれた。
「先輩着きましたよ。起きて下さい」
「んあ、本当だ。いくかー」
駅を出ると五分もしないうちに茉莉奈さんの家に付いてしまう。私は出来るだけゆっくりと歩いて、意味のない抵抗をする。
この時間が永遠と続けば良いって思った。けれどそれは、ありない現象で。明日は大学休みなのに、どうして茉莉奈先輩の家にいくのだろう。明日はデートでもいくのかな。
そんな考えても仕方ないことばかりを頭の中を巡って、気分は暗い方向へと走っていく。
「先輩の家。着きましたよ」
あなたの瞳には私のことなんて映らないで、1人の女性だけが占めている。
これ以上の関係を望んでいると、いつか必ず壊れてしまうから。
部屋のチャイムを鳴らすと、当たり前のように彼女が顔を出す。桃次先輩は帰るべき場所に戻ってきたと、嬉しそうに笑っている。
「お帰りなさい。ほら桃次。林夏ちゃんにお礼言って」
「ありがとうな林夏。また頼む」
「次酔い潰れたら、無視しますからね」
ああ、本当に。本当に羨ましい。
「林夏ちゃんいつもありがとうね。本当は私が迎えにいければ良かったんだけど、バイトが長引いちゃって。林夏ちゃんのおかげで安心して飲み会に行かせられるよ」
「いいえ! とんでもないです! それじゃあ、私は帰ります。茉莉奈さん、桃次先輩、また今度」
「気をつけてね」
私は手を振って茉莉奈さんの家を後にする。月は帰るべき道を照らしてくれて、カーブミラーには一人で歩く私の姿だけが映っている。
さっきまであった彼の温もりは、いつの間にか消えていて、もう思い出せない。
これでいいんだ。濡れた私の体は自然と乾いていく。
私はもう大人になった。大人になったから、困らせないように本気にはならない。
だから、私は。私だけにしかできない特別な役割を演じていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます