2.変身

 不快な夢から目を覚ますと、自分の体が何倍にも重たくなっていることに気がついた。いつも通りの朝、昨日の記憶を探ってみても、いつもよりお酒を多く飲んだこと以外、特に思い当たることはない。普段は二日酔いで体調が悪くなるなんてないけれども。



 隣にいる私の恋人は、気持ちよさそうに寝息を立てている。


 私たちは彼の会社が軌道に乗ったことをきっかけに、来月入籍することになった。順風満帆。その言葉が似合う程、今の私は幸せだ。



 私は彼を起こさないようにベットから抜け出した。小さな物音でも起きてしまう、神経質な彼を気遣って、音を立てないよう慎重に。


 寝室を出て洗面所を向かう。小さなマンションに住む私たちは1LDKに住んでいて、寝室から洗面所まで割と近い距離にあった。入籍を機に二世帯住宅を建てることになっていて、この狭い家で生活する日々が残り僅かだと思うと、なんだか感傷的な気分になる。



 いつもより重たく感じる頭に違和感を覚えながらも鏡の前に立った。


 昨日二人で飲みすぎたことが原因かもしれない。彼との入籍が正式に決まってはしゃぎ過ぎてしまった。彼が好きな料理を作って、二人の思い出話に花を咲かせていると、ワインボトルはすぐに空になっていた。



 私が蛇口を捻ると、ひやりとした水が指の間を抜けて落ちていった。この肌を刺すような冷たさが瞼に乗った眠気をどこかへ飛ばしてくれる。


 手にお椀を作り水を溜めて、顔を洗ってみると妙な引っ掛かりを覚えた。


 普段ならするりと顔の曲面を撫でるのに、今日はやすりのように手触りで、自分のものとは思えない異物がくっついているような感覚。


 私は思わず顔を上げて、鏡に映る姿を見た。



「………」



 言葉が出なかった。


 音にならない何かが喉を通ろうとするも、外に出る形を見失っていて、閉まりきらない唇から空気が漏れるばかり。


 無意識に鏡の映る自分の顔であったものを撫でると、確かな質量を持っていて、その重さが私を絶望の淵へ叩き落としてくる。


 混乱しているはずなのに、心臓は比較的正常に動いていることがわかった。


 例えば、顔の皮膚が禿げ、中にあるはずの肉が見えていれば、今の私よりも驚いていることだろう。だが、あまり現実とかけ離れすぎていると、理解できない。自分のことではなく、鏡の向こうにいる別の誰かの事件を見ているように思えて、逆に冷静だった。


 


「麒麟……?」



 しばらく経ってから私は鏡に映る姿を見て、独り言を漏らした。言葉を伝って外に出さないと、自分の中に溜まっていって現実になってしまうと思ったから。


 鏡の中にいる私の口周りには、小さい頃、動物園へ行った時に見た麒麟の口が私のものとして存在しており、耳も細長く麒麟と同じもののように見えた。


 頭部には牛のような丈夫そうで立派なツノがあって、麒麟も牛もまだ完璧に存在しているわけではないのが、どの部位も未熟ながらもそこにあった。


 このまま生活していけば、いずれ人間であった自分はいなくなって、合成獣のような姿になってしまうのではないか。そんな最悪な想像が頭の中をチラついたが、夢みたいなありえない事だと押し切ってしまう。


 夢でなかったとしても、きっと昨日残った酒が幻覚を見ているのだろう。そう思い込みたい。



「おはよう。どうしたの? 水を出しっぱなしなんかにして」



 鏡の前で呆けていると、後ろから彼の声が聞こえてきて、私は咄嗟に顔を隠した。一刻も早く誰かに相談するべきことは理解しているが、こんな醜い姿を彼に見せることは耐えられない。もし幻滅されてしまったら? そんな悪い想像ばかりが頭をよぎる。



「何かあったの?」



 彼は普段と違い「おはよう」とも返さない私を怪しんでいるようだ。不安を消し去るためか、優しく包み込むような声色で様子を伺ってくる。


 彼が下から覗き込もうとすると、反射的に顔を逸らした。温もりが近づくたびに反対方向に逃げる。何度も顔を見られないように抵抗したが、狭い室内かつ筋力もない私は、次第に逃げ場をなくして捕まった。



「どうしたの? 具合でも悪いの?」



 彼の優しい声色が私の耳を通って、体の芯に響き、腰を抜かして崩れて落ちてしまった。



「大丈夫⁉︎」



 顔を覆っていた腕は離れ、頼るように彼の元へと向かった。


 怖い……。


 醜い動物の姿へと変化していっている顔、体を彼に見られてしまうことが怖い。


 きっと、あなたなら驚きながらも優しい言葉をかけてくれることを信じてはいるが、距離を取られるのではないか、言葉とは裏腹に心は恐怖しているのではないだろうか。そんな嫌な妄想ばかりが、頭の中を這いずり回っていて、視界は私たちを支えるフローリングに固定されたままで変わらなかった。



「昨日のお酒がまだ残っているの? とりあえず水でも持ってくるから、ここで座ってて」



 私は「そうじゃない」と伝えるように、顔を小さく振ったが、彼はもう洗面所から出ていってしまった。


 


一人ぽつんと残った私は恐る恐る右手で顔に触ってみると、ざらざらとした感触だけが残っていて、夢であって欲しいという希望は打ち砕かれた。


動物と人間が混ざった顔に変化してしまった。その現実だけが突きつけられる。



「はい、これ。水だよ。ゆっくり飲んで」


「……ありがとう」



 優しくしてくれる彼とは対照的に、私の声は語尾になるにつれて掠れていく。


 水の入ったコップを両手で受け取ったが、口に含むことはせず、力の入らない両腕で支えることが精一杯だった。



「……ねぇ」


「なに?」


「……驚かないって約束してくれる?」


「驚くってなにさ? どうしたの?」



 私は彼に今の自分の姿がどうなっているか、見せなければいけないと思った。しかし、体は言うことを聞かず、何度も顔をあげようとしても三センチ程度上下するだけ。自然とコップを握りしめ、唇は食いしばりすぎて軽く切れてしまった。


 ゆっくり。ゆっくりと顔を上げると、心配してくれている彼と目があった。



「……朝起きたら、こんな顔になっちゃった。変、だよね」



 精一杯。心配をかけないようにと笑顔を保ったつもりだが、彼の目にどう映っているかはわからない。


 慎重の彼の様子を伺うと、目は限界まで見開かれ、私のことを二回、三回と、上から下まで確かめている。


 なんて声をかけて良いかわからないようで、彼は何度も口を開閉させていた。



「……とりあえず、落ち着こう。それから、救急車を呼んだ方が良いのか、警察か。それとも……。とりあえず、落ち着いて、ソファにでも座ろう」


「わかった。ありがとう」



 落ち着くのはあなたの方だよ。


 


 まるで腫れ物を扱うよう大切に。それでいてどこか距離を離されているような。そう思ってしまうのは悲観的にしか見えない私が原因なのか。


 普段の生活で使っているソファに座ったが、この姿のせいか、新しい家具を試しているような感覚が襲った。



「……」


「……」



彼は隣に座らず少し離れた位置に席を取っていた。


 私も彼も何を言い出して良いかわからない。彼は何を考えているのだろう。昨日まであった日常のことなのか、それとも、私をどこの機関に持っていくべきかを考えているのか。


 長い年月を共に歩んできて、楽しいことだけではなく、辛いことも一緒に乗り越えてきたつもりだ。でも、どれだけ苦楽を共にしようと、相手の心を中まで分かり合えることなんて、ありえないのだろう。


 彼のどんなに幸せそうな顔より、私を怪物だと怯えている顔が更新されていって、笑っている顔さえ上手く思い出せない。



「……とりあえず病院に行って見よう。信じてもらえないかもしれけど、まずはそこに……」


「嫌よっ!」



 私は彼の言葉を遮って叫んだ。



「嫌って言っても、このままのわけにはいかないだろう?」



 そんなことはわかっている。でも、この醜い姿を大衆に晒すことなんて、耐えられるはずがなかった。



「ねぇ、正直に答えてよ。……醜いって思ったでしょ?」


「いや、そんなことは……」


「だってあなた、私の顔を一度でも見なかったじゃない」



 部屋の空気はどんよりと重く澱んでいて、窒息しそうなくらい息が苦しい。


 幸せな家族になるはずだった私たちは、『見た目』というたった一つの要素で崩れ去ってしまった。

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