第2話

「いらっしゃいませー。」元気で覆われた気怠さ混じりの挨拶を浴びながら職場近くのコンビニに足を踏み入れた。


日が落ちていくのを背中で感じながら、煩悩を吟味するのがとてつもない快楽をもたらしてくれる。


「梅おにぎりか、いやしぐれも捨てがたい。」


脳内で繰り広げられるたわいもない議論に思わず精を出してしまいそうになる自分を抑えながら、梅おにぎりをカゴに入れる。


「次は飲み物か。やはり米のお供は麦茶しか...しかし緑茶も気弱な私を誘惑してくる。烏龍茶まで...」ご多分に漏れず終わりのない議論を一通り繰り広げた後、どうしようもない残尿感に似たものを感じながら渋々緑茶を選択する。


10分にもおける議論の結論を、これまた気怠そうな店員に差し出して無事に買い出しは終了だ。


ただ夕飯を買っただけとは思えないほどの疲労感を帯びながら帰路に着こうと自動ドアに人間アピールをしようとすると、前方からどこからともなくやってきた人間に先を越された。


その瞬間前方の人間の背後から風が吹いてきた。工場地帯特有の油の匂いとともに、大脳を直接刺激するような甘酸っぱい匂いが俺に向かってくる。


「これは!?」突如として漂い出したその匂いはどこか懐かしいのだけれど思い出せない。でも忘れてはいけないようないと本能が叫ぶ。そんな匂いがした。


先程の不思議かつ妖艶な、少し気を抜くとここではないどこかに引き込まれてしまうような妙な引力を持った匂いがいつまでも鼻を漂い続ける。


コンビニから十分程度の距離にある、住宅街から一線離れた人通りの少ない空き地街にひっそりと佇む俺の住処(アパート)が顔を出していることから、もう五分は歩いたであろう。


それなのに消えない。まだ、漂うのだ。

「あーモヤモヤする」あまりの後味の悪さに心の声が少し漏れてしまった。


俺はいつだって独りよがりなんだ。

悩めるときも、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも...

愛する相手も、敬う相手も、慰め合う相手も、共に助け合う相手だって...悲しいことに心当たりが微塵もない。

命ある限り真心を尽くす事を誓えるような相手が欲しい。そんな感傷に思わず浸ってしまう。


何故か無性に体が冷えてきた気がする。


そもそもそんな感傷に浸らせる元凶になったのはあのよく分からない匂いのせいじゃないかと。


それに気づいた途端無性に腑が煮えくり出した。


収めようとも収まろうとしない、身勝手で無邪気な苛立ちに頭を悩ませられながら、当然の如く迎える者など存在しない、暖かくも何ともないマイハイムに向かった。普段より時間をかけながら。


ただでさえ運動不足で腐りかけた足腰を、本格的に腐らせにくる憎き敵である地獄の階段は、三階にある部屋まで永遠に登らせる。


休憩スペースすら無いのは、流石に足腰に溜まった年代物の疲労が頭まできてしまう。加えてエレベーターもないのが芸術点を格段に高めている。


体の節々が余す事なくダメージを与えられるこの鬼畜の所業は、部屋を訪ねるのに三千里歩いたのかと勘違いさせるほどだ。


ただ、難攻不落の地獄峠さえ抜ければその先に待つのは自分だけの桃源郷、ユートピアだ。


苦労の末着いた安息の地に着くや否や、他の何よりも早く、汚れてくたびれきった心と体を清めるべく入浴をしに向かう。

滝行を受けている気分でシャワーを浴びると、元の状態でも快楽をもたらしてくれる救世主であるのに、それはさらに格別なものへと昇華される。


そんな自分流入浴術を自分だけに従順な鏡に向かって語りながら、今日の出来事を振り返る。


本当に身の覚えのない匂いであるはずなのに。初対面であるはずなのに。いくら頭を悩ませて過去の記憶を掘りに行っても、一向に目標物が出てくる気がしない。


そうこうしているうちに、眠くなってきた。必要以上に濡れた素肌を急ぎめに乾かして、顔を洗って歯を磨く。最低限のエチケットを済ませた後転がるようにベッドインして、その勢いのままに眠りについた。

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