異端めがすこしは売れたいと考える その4
逆にエゴを消し去った結果、読むに耐えなくなるってパターンもある。
私の師匠のマンガなんか、特にそうじゃないかと思う。
師匠は、やたらとエゴを消し去ることが得意だった。巧かった。
だからこそ、大手から連載を取れるくらいの実力がある。
でも、結果は、長く持っても単行本2巻分ほど描いた辺りで、人気が伸びず打ち切り。
師匠は逆にエゴが無さ過ぎた。ナサニエルも泣いてる。
永島慎二のマンガをリスペクトしてたくらいで、あまりコアな趣味・嗜好もなく、強いこだわりも感じられない人だった。
ナサニエルとは、師匠の盟友、外薗昌也さんのマンガのキャラです。
外薗さんもつくづく頑張って来たけど、迷走しまくって来たという印象がある。
私が何気に外薗さんのマンガの感想呟いたら、私なんぞのの呟きをRTするとか(外薗さんはフォローしてないです)
なんか、まだまだ感がした w
迷走しながらも、粘り強く描き続けるというところに尊さを感じてしまうよ、外薗さん。
例えば、古屋兎丸さんのマンガなんかも、エゴを消し去ると読むに耐えないでしょ?
月刊漫画ガロでデビューしてから、一般青年誌に移り、エゴをかなり消し去ったことがあった。
で、結果ご本人も気が付いたのだろう。ある程度元に戻した。
現在は、その辺調整しながら描くようになったのではなかろうか。
私としては、兎丸さんならエゴがゴリゴリなの読みたいけど。
藤子・F・不二雄になると、昔の人過ぎて何考えてるのか分からんところがある。
私の両親なんかより上の年代だし。
F先生は、大長編ドラえもん描くようになったのが、大きな転換期だと思う。
出来杉くんが登場した辺りからだろう。
時代で言うと、79年かな。
少し『のび太の恐竜』の思い出話に付き合ってくれ。
当時、コロコロコミック読んでてびっくりしたもんだ。
その頃の私は、まだ幼い。
大長編ドラえもんという映画が制作されるということに気が付いてなかった。
あれ? 何でまた、てんとう虫コミックス10巻(76年)に収録されてる『のび太の恐竜』が再録されてるんだろ?
そう疑問に思いつつ、もう何度も読んでたけど、取り敢えず、コロコロに再録されたそれを読み、ページをめくった。
ドラえもんとしては割と、長めの短編だ。
ラストももう知ってるよ、と読み終え、次のページで、ドラえもんの新作が読めるだろうと思った。
ところが、短編だった筈の『のび太の恐竜』の続きが描かれてた!
そんなサプライズに尻が10センチ浮くくらい、仰天したのだった。
大長編ドラえもんも、シリーズを重ねるごとに、中学生に上がる頃には飽きてしまい、後は大人になってから、改めて読んだ。
飽きてしまうような要因て、大長編ドラえもん1発目の頃にあったように思う。
悪く言えば、マンネリ感。F先生はドラえもん描くのが、すっかり慣れたちゃった。
ノーベル賞の人の言葉を借りるなら――転がる石のように、迷走ぎみの頃の方が好きだった。私的には。
散々、語り尽くされた話だけども、F先生って、手塚治虫同様、劇画の波に乗れなかった。
大人もマンガを読むようになり、マンガは子どもだけのものでなくなり始めたそんな時代の波に。
同じ藤子不二雄でも、A先生は、乗れちゃってて、そんなマンガ読んでたら、親に怒られたな。
「子どもが読むもんじゃありません!」
と母親に。
(母は、永井豪には一目置くところがあり、『キューティーハニー』のアニメは母と一緒に観ていたというのもおかしな話たが。そのくせ『うる星やつら』は「エロマンガ」と一蹴するというような変人?)
F先生は、本当に落ち込んでいた時期でしたとどっかで書いてた。
何を描いても空回りだと。
私も今は、落ち込んでる時期なので、気持ちは分かるけど、オバQやパーマンでヒットした頃の充実感が忘れられないのだろう。
そんな頃に『21エモン』もそうだけど、『モジャ公』もノリノリで楽しんで描いたとも仰ってた。
その割に、鳴かず飛ばずだったので落ち込むのも無理はないだろう。
「面白がってたのは作者だけでした……」
なんて、寂しいコメントも残してる。
ちょっと、その『モジャ公』について軽く考えてみたい。
藤子・F・不二雄、最大の異色作と言っても過言ではない。
ローリングストーンズで言えば『サタニックマジェスティーズ』みたいなもんだ。
一歩間違うと、ブライアン・ジョーンズのソロ『ジャジューカ』になりかねない(いや、それはないか)
『モジャ公』は、そもドラえもんのような1話完結短編の数珠式構成とも違っている。
掲載誌に、何回にも渡って描かれた中編が数珠繋ぎとなっているのだ。
F先生の作品としては、変則的だ。
しかも、それでいて話が繋がっているのだ。
F先生の「僕は短編作家ですから」と一度は大長編ドラえもんのを断った話は有名だ。
いやいや、そもそも『モジャ公』って、短編じゃないやん!
また、ちょい思い出話、ごめん。
『モジャ公』の『地球最後の日』のくだりで、主人公が遥かな宇宙の旅から、地球に帰って来るシーンなのだが、長年ずっと疑問に思っていた。
なんで、そのシーンが夜になっているのかと。
第1話『宇宙へ家出』で、地球から旅出った時は、昼だったじゃないか。
タイムロックして、時間を止めてた筈なのである。
それなのに、夜になってるのはおかしい。
F先生、ボケてたのかとも思った。いや、演出として夜にする必要があるのかも? と、考えたりもしたり。
でも、そうではなかった。
小学館から『モジャ公』の大全集版も刊行され、未収録だったものも読めるようになった。
それで、私が読んでいた『宇宙へ家出』は、単行本収録の際、終盤が描き直されたものだったと知った。
更には『宇宙へ家出』は、もっと長く、掲載誌に2回に渡って描かれており、もうひとエピソードあってびっくりした!
1本分、まるまる未収録になってたとは……。
その1本が抜けてたので、生じてしまったという矛盾だったのだ。
ちゃんと繋がってた!
そういうことだったかと長年の疑問が解消され、感慨深く感動した。
『モジャ公』は何故、売れなかったのか?
F先生の作品の中でも最も好きなだけに、私もそこを考えざるを得ないのだ。
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