第15話 エアツリー
沼地から逃げ帰った俺たちは森の中で傷を癒していた。
「二人とも……薬草だ。軽い傷なら食べれば治る」
ひとたび森の中に入ってしまえば臭いはかなり軽減され、そこでセレナから貰った薬草を食べれば肺やのどの痛みは嘘みたいに消えていった。
薬草すげえ。
しばし休憩した後。アーニャが叫んだ。
「無理! あの沼を渡るなんて絶っ対に無理だから! キモすぎ!」
俺もすかさず同意する。
「そうだよ! なんたって毒ガスがあるんだ! 渡ってるあいだに死んじまう!
しかしセレナは首を横に振った。
「ダメだ。あのルート以外は危険すぎる。沼地を渡る方法を考えた方が良い」
「だから! 沼地を渡っても俺たちは毒で死ぬだろ!」
「いいや。それでもあの沼地を渡った方が生存率は高い」
「いやよ! またあの虫の所に行くなんて死んでもいや!」
言い争うこと数分。ついにセレナは折れ、
「分かった。ならば他のルートを見に行こう。ただし、見るだけだ」
セレナは毒の沼地を迂回するように森を先導しだした。
十分後。俺とアーニャはセレナの言っている意味を知ることになる。
〇
「これは……」
「確かにここを通るのは……無理そうね……」
沼地を迂回するように森を進むと、いつの間にか広葉樹林の森はジャングルへと変わっていった。
そしてそこで見たのは……。
牛をも超える体躯の巨大カマキリが、巨丸太程の太さを持つ巨大なムカデと戦っている姿。
大量のミルメコレオが、巨大なカマドウマの死体を細かく千切って運んでいる姿。
まさに怪獣レベルでの弱肉強食の世界がところかしこで繰り広げられている。
セレナは昆虫たちに気づかれないように小さく呟いた。
「これが死の森の日常……私が通ったルートは何人もの犠牲によって導き出された最も生存率の高いルートなんだ」
〇
再び広葉樹林の森に戻ったセレナは言った。
「先ほどの巨大昆虫たちが住むエリア。あそこを出来るだけ通らずに進むルートが沼地ルートなんだ」
確かに、あの中を進んで行くのは無理だ。命がいくつあっても足りない。
だから沼地を通るしかないのはわかるが……。
「あの毒ガス……どうやって突破すればいいんだ?」
と、その時。
「それよりも虫でしょ!」
俺の言葉をかき消すようにアーニャが目に涙を浮かべながら必死に訴えてきた。
「毒もそうだけど虫! あの虫何とかしてよ! セレナも女の子でしょ!? あの虫嫌じゃなかったの!? ここまで来る時どうしてきたの!?」
「私はそのまま歩いてきたが?」
当然だが? と言った表情で答えるセレナ。
アーニャは信じられないといった表情でセレナを見つめた後。吐き捨てるように言った。
「とにかく私はあの虫が寄って来ないようにしなくちゃ無理だからね!」
……。
目を見合わせる俺とセレナ。
まあ、アーニャの気持ちもわかるが、このタイミングでそれはあまりにも我が儘すぎる。
毒ガスを無効化する方法も分からないのに、それに加えて虫も寄って来ないようにするなんて……。
「あ」
その時。気づいてしまった。
「……もしかしたら、毒の無効化と虫を寄せ付けない方法……あるかもしれない!」
「ええ!? 本当! さっすが恭也ね!」
「なっ!? それは本当か!?」
そう! ヒントは目の前にあったんだ! この広葉樹林の森に!
〇
その後。俺たちはマスクをつけ、松明を手に持ちながら沼地の沿岸へと立っていた。
「ほっ……本当にこれで虫が寄って来なくなるんでしょうね!」
心配そうに松明を持つアーニャ。俺はマスクの位置を直しながら返した。
「少なくともこうやって毒は無効化出来てるだろ。虫も多分大丈夫さ」
さっきまでだったら、ここにいるだけでも臭いで嘔吐し、毒で肺をやられていた。
が、このマスク──特殊なマスクをつけていれば臭いはかなり軽減され、毒も無効化できる。
正し、臭いは軽減されただけでなくなったわけではない。臭いことは臭い!
「じゃあそろそろ……行くぞ!」
俺は後ろの二人にそう言うと、気合を入れて沼地の中に……いや、巨大な肥溜めの中に足を突っ込んだ。
「うええええ! 汚ったねえ!」
ズブリっとくるぶしまで足が沈み、ヌルヌルの液体が靴の中に入ってくる。
全身に鳥肌が立つ。この嫌悪感だけで吐きそうになったが、それは我慢した。
そして数舜後。足を入れたことで、水面が揺れ、小さな虫たちが一斉に水面から飛び立った。
「キャアアアアア!」
叫ぶアーニャ。しかし、先ほどと違ったのは、虫たちは飛び上がるだけで、俺たちの方へは向かってこないこと。
俺たちの周り一メートルにはまるでバリアでもあるかのように近寄ってこなかった。
俺は松明を掲げながら、アーニャに叫んだ。
「ほら、やっぱり思った通りだ! この木には虫よけの効果がある!」
エアツリー。
死の森──毒の沼地沿岸に自生する広葉樹。
その葉は毒の沼地から発生する毒ガスを吸収し、新鮮な空気を放出する。
摘んだ葉であっても数日程度はその効力を発揮し続ける。
また、エアツリーの樹液には強力な防虫成分があり、火をつけることで防虫成分を持つ煙を発生することが出来る。
恭也はこの効果に気づいた原因は「なぜ、沼地に隣接しているこの森に毒ガスや虫が入り込んでこないのか」という疑問だった。
その後。広葉樹林の葉を調べた恭也は、葉が毒ガスを吸収して新鮮な空気を放出することを発見。
洋服の一部を切り裂いて布マスクを作り、布の間にエアツリーの葉を挟むことで簡易的なガスマスクを作ることに成功した。
また、虫が来ない理由もエアツリーが虫が嫌がる成分を発しているからと仮定し、エアツリーの枝を集めて松明を作成。
予想通り、その煙に含まれる防虫成分は彼らに虫を寄り付けなくさせた。
このマスクと松明により、恭也たちは順調に沼地を進んで行く。
〇
「……私今うんち踏んでる……うんち踏んでる……」
「それは言わない約束だって何度も言ってるだろ!」
毒の沼地を進むこと数時間。
虫が寄りつかなくなったとは言え、視界を埋め尽くす虫の群れ。
マスクをしていても防ぎきれない排泄物の臭い。
歩くたびに感じる足への気持ち悪さ。
さらに、沼地は歩きにくく、かなり疲れる。
休もうにも休めないこの状況。この臭いや不快感もあって、俺たちのストレスは極限まで高まってきた。
「ううっ……うううっ……」
号泣しながら歩くアーニャ。
先導するセレナがイラついた口調で言った。
「少し静かにしてくれないか? 騒ぐとその声に反応して虫たちが飛び回るんだ」
アーニャは涙を拭いながらセレナに言い返す。
「しょうがないじゃない! だって嫌なんだもん!」
その言葉にセレナは足を止め、振り返った。
「嫌なのはみんな一緒だろう!」
「うわっ! 急に止まるなよ!」
長時間の行進のせいで、歩き続けることに慣れてしまった足。
俺は目の前で止まったセレナに対応できなかった。
ドンっと、衝突した俺は汚泥の沼地に尻もちをつく。
(うわ……最悪だ……)
べっとりと、手と尻についた茶色い排泄物。
俺は大きなため息をつき、ゆっくりと立ち上がると。
「……いい加減にしろよ」
と、二人に言った。
「お前ら今が緊急事態だってこと分かってんのか!? 下らねえことで喧嘩してんじゃねえよ!」
「私だって喧嘩したくないわよ! でもセレナが言うから!」
「私だって言いたくて言ってるわけじゃない! 貴様がこの程度で泣きわめくからだろう!」
「この程度!? このうんこまみれの状況がこの程度!? 極限の環境に決まってるじゃない! 普通の女の子だったら泣くわよ! 平気な顔してるあんたがおかしいんでしょ!」
「っ! 私だって辛い! だが、堪えてるんだ!」
「だから下らねえことで喧嘩するなって言ってんだろ! 俺は早く先に進みたいんだよ!」
この環境でストレスが最大限まで高まってしまった俺たちは、ついに言い争いを始めてしまった。
そしてこの言い争いは思わぬモンスターを引き寄せることになる。
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