紅い聖女(6)

 哀しく冷たい冬の雨の中傘もささずにジャンヌの手を引っ張りながら足を前へ前へと動かした。人から命を狙われるというのは、何度経験しても慣れたものじゃない。これに慣れないと強くなれないのなら、僕は永遠に強くなることはできないだろう。


「ねぇクロエ、もうここまで走ったのなら大丈夫でしょう?」


 ジャンヌがそう言うが僕は足を早く動かすのに精一杯で彼女の言葉なんて耳に入ってこなかった。逃げることだけを考えていた僕は特に目的地など考えずにただ走り続けた。



 *



 去年のある冬の日の夜。僕は特に理由は無いのだけれど、ふと散歩に出かけた。ふらふらとそこら辺を歩いて帰ろうと思っていたのだが、無意識の内にかなり遠くまで歩いていたらしい。時計の針はは既に午前三時を刺しており、僕は家に戻ろうとした。



 頭の中で、誰かの声が聞こえる。か細く、弱々しい声だ。何と言っているのかはわからない。何故かわからないがその声に対してものすごい違和感を感じた。



 気のせいだろうと思いしばらく歩いても声は止まなかった。頭の中でずっと、同じことを繰り返している。次第に声は大きくなり、僕の頭はその声以外のことを考えられなくなってしまった。



(早く―――――――――来て―――――――。)



 どこから聞こえるかはわからない。しかし足は無意識に動き続けた。どこに向かっているのかはわからない。しかし脳は声の持ち主がどこにいるか理解していたようだ。




 *




 全く知らない森の奥深くまで来てしまった。声は次第に強く、近くなっている。それと言葉では上手く表せないが、違和感も強く感じる。僕は恐る恐る足を前へ動かした。木を避けながら進み続けると、そこには大きな湖があった。水面が月の光を映し、幻想的な世界が広がっている。



「すごい…」



 思わず口に出してしまった。すると僕の向かい側から女性が一人出てきた。水面に反射している月明かりの様に美しい白金の髪の毛は腰まで伸びており、彼女を見ているとまるで一つの芸術作品を見ているような気持ちになってしまう。



「あなたは――――――どうしてここまで来たの?」



 彼女が僕に話しかける。先程まで頭の中で聞こえていた声と同じだ。



「あなたに、呼ばれた気がしたんです。早くここに来てって。理由はよくわからなかったんだけれど、貴方のような綺麗な女性に会えてよかった。」



 僕がそう言うと彼女は僕に笑顔を見せた。今思えば、あれが初恋だった―――――そう。人生で最初の、あまりにも短すぎた僕の片思いだ。




 *




 僕は次の日も、その次の日も同じ場所に、同じ時間に向かった。彼女をもう一度見たい。彼女ともう一度話をしたい。彼女の名前を知りたい。気づけば僕は彼女の事しか考えることが出来なくなっていた。しかし僕の願いは叶わず、彼女に会うことは出来なかった。




 *




 彼女と出会いしばらくたった頃、散歩をしていた僕はまた強い違和感に襲われた。そして僕は気がついた。この違和感の正体は視野だ。朝なのに空は真っ暗で、地獄のような光景だった。気分を悪くした僕は壁を伝いながら歩いていると、目先には僕がかつて恋に落ちた女性が立っていた。



 彼女は燃えているように赤く、最初に出会った時の静かな美しさからは想像できないような気迫を感じた。彼女を目にした瞬間僕は立てなくなるほど気分が悪くなり、頭痛と吐き気に襲われた。その瞬間である。



 何かが落ちる鈍い音と車のブレーキ音が耳に響いた。先程までここに立っていた僕の初恋相手の細い手足はありえない方向に曲がり、内蔵は破裂してぐちゃぐちゃになっている。僕は耐えられずにその場で吐いてしまった。青い空の明るい太陽で、赤い血の海が照らされていた。



 胃の中にあったものを全て出し切った僕は最後に彼女の顔が見たかったので、彼女の元へ向かった。以外にも死体を抱き上げるのはこれで二回目だ。ありえない方向に曲がった彼女の首を戻すと、彼女の顔がこちらに向いた。目が開いた状態で死んでいたので、死体と僕は目が合ってしまった。



 彼女と目が合った後、僕は脳の処理が追いつかずに彼女の頭を強く踏みつけた。怖かったのだ。僕が我に返った頃、既に彼女の顔は原型を留めていなかった。僕は怖くなりその場から逃げ出してしまった。




 *




 その日から、僕は度々空が黒く、世界が赤く見える。そしてその度に僕の前で人が死ぬ。どうやら僕は人の死ぬ瞬間が分かるようになったらしい。






 *






 色を持っていなかった世界は徐々に赤く染まっていく。ジャンヌの死が、だんだん迫っている色だ。


「急がないと…もっと早く、もっと遠くへ…!」


「ちょっとクロエ、どこに行ってるのよ!」


 足を動かさないとジャンヌが死んでしまう。また大切な人を失うのだ。これ以上僕の周りから人を取らないでほしい。


「ちょっと!聞いてるの!?」


 もっと遠く。もっと遠く。


「ねぇ!!クロエ!!」


 もっと、もっと遠く。


「ねえってば!!」


 まだ足りない。まだ逃げないといけない。


 その瞬間、僕の後頭部に激痛が走った。


「ちょっと。いい加減にしなさいよ。こんな所まで走ってきて、あなたは何を考えているの?」


「逃げないと…!」


 僕が起き上がると、ジャンヌが僕の袖を引っ張った。


「何してるんだよ!?死んじまうんだぞ!!早く逃げないと!!」


 すると、彼女は僕の頬にビンタをした。


「戦場において相手を見失うことよりも自分を見失うことの方が命取りよ。落ち着きなさい。」


 叩かれて倒れ込んだ僕に冷たい雨が降りかかる。しばらくボーっとしていると、次第に空が元の色を取り戻して行った。

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