紅い聖女(4)

 これは随分昔の話なのだが、僕には年が三つ離れた妹がいた。兄妹仲は世間的に見てもいい方で、学校から帰るといつも一緒にいた。




「僕はどんな時でもお兄ちゃんとして■□を護るよ。どんな事があっても、どこに居たとしても。必ず僕は■□のそばに居る。」



 *



 ある春の日の夜、桜が咲き始めた頃の話だ。僕はちょっとそこまで友達と散歩に出かけた。散歩と言ってもただ公園の遊具に座ったり寄りかかったりして世間話をするだけだが。いつもは二十一時頃に家に帰宅するのだが、その日は少し遅くなった。今日は何を作ってやろう。そう思いながら家のドアを開けるとやけにしんとした空気に僕は佇んでしまった。



「ただいま。」



 僕がそう言っても返答はない。両親はいつも夜遅くに帰ってくるので居ないことは分かるのだが、妹の■□の声がしない。いつもなら玄関で帰りを待ってくれているのに。疲れて眠ってしまったのか。



 自分の部屋で眠ってしまっているであろう妹を起こすために妹の部屋へ向かった。■□の部屋に入るのはいつぶりだろうか。妹ながら少し緊張してしまう。そっとドアを開けると目に入ってきた情報に脳の処理が追いつかなかった。



 声も出ない。熟れた苺をぐちゃぐちゃに潰したような赤黒い血を踏みながら少し前まで命だった物の元へ向かう。そっと抱き抱えるとぼろぼろと体が崩れ落ちた。



「僕はどんな時でもお兄ちゃんとして■□を護るよ。どんな事があっても、どこに居たとしても。必ず僕は■□のそばに居る。」



 自分が過去に言った無責任な言葉が胸に突き刺さる。僕があんなことを言ってしまったから■□はきっと殺される時僕が来ることを信じていたのだろう。僕がいつも通りの時間に家に着いていたら妹を救えたのかもしれない。■□が死んだのは僕のせいだ。



「ちょっと待っててくれ…すぐそっちに行くから。」



 僕の体に絡まっていた温かい臓物を退かしながら、台所へ向かう。置きっぱなしにされてあった包丁を手に取り、自分の首に刃を当てる。



「やめておきな。君が死んでも妹さんには会えないよ」



 月に照らされた夜空の下に、先程見た血のように赤く繊細な髪をなびかせている女性が言った。言わずもがな、この女性が皐月である。



「…あなたは誰ですか。どうしてここにいるんですか。」



「何物でもないただの通行人さ。たまたまここを通りかかったら首に刃物を当てて死のうとしている少年がいたからね。それを止めに来たという話さ。」



「ただの通行人がなんで妹のことを知ってるんですか。」



「君たち兄妹はここらでは有名な仲良し兄妹だからねぇ。いつも幸せそうな君が死のうとしているということは、そういうことだろう?だからで言ってみたのさ。」



「勘って…」



「唯の勘じゃないよ。長年探偵をしていると見えるんだよ。目の前の人物がなぜその行動をしているのかがねぇ。」



 確かに皐月さんが言っている通りなのだが、大切な生命を軽率したような発言に腹が立った。



「妹さんは君に生きて欲しいと思ってるはずだよ。実際君が死んで妹さんが喜ぶと思うかい?否、喜ぶ筈がないことくらい君も分かるだろう。だから君が彼女の代わりに生きて、彼女の分まで喜び、悲しみ、怒り。彼女の分まで人を助け人を裏切る。それが君の使命だよ、少年。」



 彼女の言うとおり僕が■□の分まで生きないといけない。僕が■□の代わりに、■□がしたかったことを叶えないといけない。



「私ね、いつか誰かと一緒に空を飛びたいの。飛行機とか旅客機とかそんなものじゃなくて、翼や魔法を使って空を飛んでみたい。あの雲の先を見たいの。」




 *




 皐月さんが作業室に籠って三十分程経った。しばらく一人の時間が続いたので棚から漫画を取って読んでいた。皐月さんの家にあるとは思えないほど純粋なラブコメディなのだが、これが案外面白いので彼女の家に来たらよく読んでいる。しばらくしてジャンヌが風呂から上がったがそれに気が付かないほど夢中になっていた。


「上がったわよ。クロエ、またそれ読んでるの?」


「ああ、もう上がったのか。結構面白いぞコレ」


 あぁそうと適当に流した彼女は冷蔵庫から何十本もあるいちごミルクを取り出し、飲んだ。


「お風呂上がりに飲むいちごミルクは最高ね。これがないと出ないの。モチベというか、やる気というか。とりあえずこれが私のエネルギーよ。」


「ガソリンのようなものか?全くジャンヌは仕事終わりにビールを飲む中年男性のようなことを言うね」


「えぇ。この一杯の為に一日頑張ってるのよ。」


 大袈裟だ、と思ったがそうでもない。半年ほど前にこんなことがあった。


 *


「あれ。いちごミルクがないじゃない。クロエ、買いに行かない?」


「嫌だよ。もう夜遅いんだから、明日の朝にでも買って行こう。」


 残念そうにジャンヌは寝室へ入っていった。ここまでは唯のいちごミルク好きの女なのだが、事件は次の日に起きた。


「おーいジャンヌ。朝だぞ。」


 いつものようにジャンヌを呼ぶ。いつも通りいくら呼んでも起きてこないので彼女の部屋へ向かった。


 部屋に入ると彼女はぐっすり眠っていた。とても気持ちよさそうなので起こすのは少々勿体ないし可哀想な気がするのだが、起こさないと学校に遅れてしまうので起こしてあげることにした。


「ほら。早くしないと先に行くぞ。」


「うーん。今日は休むわ〜。」


 誰だって学校に行きたくない日はあるのでその日は休ませてあげたのだが、その後同じような事が二回程起きた。しかも二回ともその前日はどちらもいちごミルクを飲んでいない日。だから彼女のガソリンは彼女の言うとおり『いちごミルク』なのかもしれない。



 *



 ジャンヌがいちごミルクを飲み干したと同時のタイミングに皐月さんが研究室から出てきた。


「クロエ君、一応完成したけど」


「ほんとですか!?」


 いちごミルクの話なんてしている場合じゃない。やっと完成したのだ。僕の待ちわびていた物が。

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