15. 開戦

 午後一時。


 ○○県×××市の住宅街。朝井宅。

 その崩落した玄関前で、一匹の猫が毛繕いをしている。


 空がよく晴れているのも相まって、日光浴にも最適なのだろう。それはもう幸せそうに、一匹は自分の時間を満喫していた。


 そんな幸福に浸る猫の周囲に、黒い防刃チョッキを身に纏った男たちが取り囲むようににじり寄ってくる。猫が異変に気づいた頃には、個々人が手にしていた麻酔銃の銃口がその身に向けられていた。傍から見れば、逃げ場がない。


「総員、撃て!」


 集団のうち一人の号令により、麻酔弾が一斉に発射される。四方八方から、猫目がけてスポイト型の極小の弾が迫り来る。抵抗する暇もなく、着弾するものだと思われていた。


 しかし、その結果は誰もが目を疑う光景だった。


 猫はジグザグに高速で跳ねながら、後退。その俊敏な動作を捉えるものは弾を含め何一つおらず、猫は壊れた扉の隙間をくぐって颯爽と家の中へと逃げ込んだ。大量に放たれた麻酔弾は一発も当たらず、無様にも玄関前に突き刺さっていた。


 猫は何処に行ったのかと、男たちは辺りを見回す。すると、一人が上方に指を差して叫んだ。一同、その方向に目を向ける。猫は指を差した先、住宅の屋根上から男たちを威嚇していたのだ。


 猫は体勢を前のめりにした。爪を突き立て、毛を逆立て、尻を立てた。


 そして、みるみるうちに全身が膨張し、唸り声が大きくなっていく。胴体が膨らみ、四肢が膨れ上がり、尾が伸びた。爪は鋭利な刃物と化し、両目は爛々とぎらつかせ、口から覗く牙が純白に光る。唸り声に呼応するように徐々に巨大化していく猫は、その鋭い視線で、人間たちを見下ろした。


「キシャアアアアアアアアアアアア!」


 その巨体が最大に達したのと同時に、猫は咆哮を轟かせた。既に周囲の住人が避難し、閑散とした住宅街に、背筋が震え上がるような雄叫びが響き渡った。


 先程ののどかな風景から一転した、緊迫した空気。


 その一部始終を、僕と真理ちゃんはモニター越しで傍観していた。


「……始まったね」


 僕の一言に、真理ちゃんは頷いた。

 二人はあの時と同じ、車内からドローンを操作して状況を確認していた。





「二人は、数キロメートル離れた場所で待機していてください」


 作戦の概要を説明された際、光田さんは僕ら二人に向かってそう言った。


「シャパリュが家族愛に弱いという話は把握しております。この目で確と見ましたし、眞柴さんからも話は聞いております。しかし、だからこそあなた方二人には遠い場所で待機して頂きたいのです」


 光田さんの隣にいた嘉部井さんが付け加える。


「シャパリュはストレスに極端に弱い。仮に何かの弾みで興奮し、二人にもしものことがあれば誰も奴を止められなくなる。できる限り弱らせた上で、二人には出場して頂きたい」


「いわゆる最後の切り札、という奴です。それまでは私たちに任せてください」


 光田さんはそう言って、僕らに微笑みかけた。


 もしものことを考えて策を練って頂けているのは幸いだ。しかし、自分の中でよくない疑念が浮かんできたのも確かだった。ふと横に目を向けたが、どうやら真理ちゃんとしても同じ心情のようだった。


「とりあえず、その時になったら詳細を連絡します。それまでは、他の方のサポートに徹して頂けると幸いです」


 光田さんの強引な進行に、僕は頷くことしかできなかった。





 そして、遂に当日となったわけだが……。


 シャパリュが発見され、作戦が開始されてから既に数十分。何なら今こうしてシャパリュと両者互いに睨み合っている最中だ。それなのに、未だに光田さんから僕らの役割の全容を説明されていない。光田さん側のミスか? いや、しかしあんなに念入りに計画を組み立て、ゼロから万全な体勢に持っていくほどの上層部がそんな過ちを起こすだろうか。むしろ、伝達ミスが本当なら、市民を護る立場の警察としてあるまじき、大問題だと思う。


「伝達ミス、ではないか」


 自分に言い聞かせるように、僕は独り言を呟く。


「はい、違うと思います」


 そんな独り言に、真理ちゃんは画面に目を向けたまま返答する。


「実は計画概要が配られた翌日、研究員さんに書類をこっそり見させて頂いたんです。そこには、会議で説明されていたよりも詳細かつ綿密に今回の計画が事細かに書かれていたんです。予備を含めた麻酔弾の必要本数の予測。おおよその射出角度も含めた、攻撃方法の指示。シャパリュのこれまでの行動から逆算された、数パターンに及ぶプランとその移行条件。博士の作った計画書とは比較にならないほど、隅々まで作り込まれているんです」


「へ、へえ。そうなんだ……」


 流石は県警、と言ったところか。


「しかし、問題はここからです。他の要項はここまで詳細に書かれているんです。それなのに、わたしたちと武弘さんの役割に関しては、一文字も書かれていないんです」


「……えっ? そ、それは本当かい?」


「わたしも目を疑って、何度も見返したので間違いないと思います。最後の切り札、などと仰っていたのに何の記載もないって、流石におかしいと思いませんか?」


 僕は大きく頷いた。もし真理ちゃんの言葉が本当なら、これはうっかりミスとかそういう次元の話じゃない。意図的なものだと考えざるを得ない。嫌な予感が、当たってしまった。


「僕らが感情的になって、作戦に支障をきたすかもしれないから、ってことかな」


「もしくは、あの日光田さんが仰っていた通りなのかもしれません。仮に全ての策を投じた上で全滅した場合に、家族愛という漠然とした要素に賭けられるように……」


「それまで、僕らに傷一つつかないように安全な場所で待機、か。言葉通りに捉えればそうだけど……」


 どこまで真実かは分からない。

 その現状が怖くて、確認することも、口に出すことすらも恐ろしかった。


 開始から約五分。僕らが困惑する間にも、作戦は順調に進行していた。

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