13. 逃避
取調室を出て、廊下を抜けた先にある階段。そこで真理ちゃんは一人、蹲っていた。
近づいて見てみると、彼女は背中を震わせていた。恐らく、泣いているのだろう。室外は非常に冷え込んでおり、ここに居続けていたら身体が冷え込んで風邪を引いてしまう。僕の中の冷静な部分が、そう考えた。
声をかけようにも、どんな言葉をかけるべきか分からなくて、迷った末に僕は彼女の隣に座ることを選んだ。
「……どうして、来たんですか」
涙声で、彼女は問うてきた。迷わず僕は答える。
「……放っておけないからだよ。君は勝手に抱え込んで、勝手に突っ走っていくから」
「保護者面……しないでください」
真理ちゃんは、そっぽを向いた。
「わたしの家族は、もういないんです。頼れる大人なんて、どこにもいないんです。わたしのことなんて何も分からない癖に、わたしの土俵に土足で立ち入らないでください」
「……確かに、僕は君の全てを理解しているわけじゃない。出会って数日しか経ってないしね。でも、今はそんなこと関係ないよ」
あえて真理ちゃんの方を向かず、本心を思いのまま伝える。
「偉そうなことを言うかもしれないけど、大人は先人として子供の悩みに寄り添うべき存在だと思っている。だから、少しでも君の支えになりたいんだ。大人としてね」
「……本当に、偉そうなことを言いますね。武弘さんらしくありません」
そう真理ちゃんは呟いた。ふと目を向けると、相変わらず顔を膝に埋めていた。
僕は、さっき抱いた疑問を口にする。
「……博士の過去、君は知ってたんだね?」
しばらく反応はなかった。けれど、少しの間を開けて、やがて彼女は小さく頷いた。
真理ちゃんは、おもむろに話し出す。
「……研究所に居候していた時に博士の部屋に立ち寄ることが何度かあって、その時に偶然見つけた資料を目にして発覚したんです。そこに、数年にも渡る生物の実験結果とかが記されていて……でも、その前から薄々感づいてはいました。だっておかしいですもん。見るからに胡散臭かったですし、アッシュに対する対抗策が用意周到でしたし。ですが、優しくしてくれたのは本当ですよ? だから余計に彼の犯した罪が信じられなくて……一時期見なかったふりをしていたんです」
僕は、彼女のだんだんと自嘲めいてきた自白に、黙って耳を傾けていた。
「けど、わたしが馬鹿でした。あの老害は、わたしの微かな信用をいとも簡単に裏切ったのです。彼は最低な人間ですよ。動物の悲鳴に耳を傾けることなどせずに、挙句の果てには被害者に罪を擦り付けたんです。彼のやったことは、到底許されるべきことではありません。そんな彼の計画に加担していたわたし自身も……憎たらしい存在です」
「真理ちゃん……」
思わず、口から零れ落ちてしまう。黙って聞いているべきだったのに。
でも、これ以上はいけない。自分を憎み始めるだなんて。
真理ちゃんは何も、悪くないのに。
「……まあ、そんなことはどうでもいいんです。問題は、この後のことです」
まるでさっきまでの発言を無かったことにするかのように、真理ちゃんは議題を変える。頭を上げて、目元が赤く腫れた顔をこちらに向けてきた。
「恐らく、警察側も研究所側も、次の遭遇で闘いを意地でも終わらせる気です。自分たちの出せる全ての策、全ての戦力を以ってシャパリュを討伐するはずです。捕獲とか、そんな生ぬるいことはしないでしょう。もうこれ以上の犠牲を出さないために、あらゆる手を尽くすことになると思います」
そう言って、目を伏せた。胸中に巡る様々な感情から、相応しいものを選りすぐっているかのような、そんな印象を覚えた。
「……わたしが戦線に立てるかどうかは、その時にならないと分かりません。ただ、どちらにしろ、その日が、アッシュとの別れの日になるのは間違いありません。だというのに、わたしには……未だにその覚悟ができていないのです」
真理ちゃんの肩が、一層強張った気がした。
「覚悟を決めなきゃいけないのは、分かっているんです。でも……駄目なんです。どうやっても、アッシュのことを忘れられないんです」
「……真理ちゃん」
それ以上は、駄目だ。
「アッシュは、両親を殺したんです。本来は憎むべき相手なのに、両親にとっての仇であるはずなのに……怒りの一つすら、少しも湧いてこないんです」
「真理ちゃん」
それ以上は……駄目だ。
「ああ、こんな苦しい想いをするんだったら、アッシュと会わなきゃよかったな。それとも、わたしがもっと冷酷な人間だったらよかったのかな。そしたら、たかが猫一匹、簡単に忘れ去ってしまえるのに──」
「真理ちゃん」
気づけば、語気が強くなっていた。真理ちゃんはびくりと肩を震わせて、こちらを見た。
怒っているように聞こえてしまったかな。それに、僕がこんなことを言うのはあまりにも図々しいかもしれない。
だけど、それでもいい。それ以上は、良くないから。
「これ以上は、駄目だ」
「…………」
「会わなきゃよかったなんて、言うんじゃないよ」
「…………」
「忘れ去ってしまいたいなんて、言うんじゃないよ」
口を噤む真理ちゃんに、立て続けに僕は言った。
「忘れる必要なんて、ないじゃないか。君とアッシュの思い出は、そんな簡単なことで否定されるものなのかい? 何にも代えられない、宝物であるはずだ。そうだろう?」
「ち、違いますよ」
「嘘を吐かないで。自分の胸に、問いかけてごらんよ」
まさか「違う」だなんて、そんなことを口走るようになるなんて。
そんなの、流石に許せない。
僕は続けた。
「君は、シャパリュを……アッシュを殺すために博士に協力してきたのかい? 違うだろう? もしそうなら、今日あの場で寄り添うことなんてしない。復讐心に駆られて、博士がそうしてように怒りの矛先を向けていたはずだ」
「ち、ちが……」
「もしそうなら、アッシュにあんな優しい言葉をかけたりしないはずだ。あの言葉は、アッシュを殺すために仕掛けた罠とでも言うのかい? 違うだろう? アッシュと過ごした日々を取り戻したい、その一心から出た言葉だろう?」
「違いますよ!」
目線を合わせぬまま、真理ちゃんは叫んだ。
声を震わせて、そして僕のみならず自分に言い聞かせて、肯定するかのように。
「違いますよ……違いますよ! わたしはそんなこと、考えてなんかいません! わたしは、シャパリュを……アッシュを殺さなきゃいけないんですよ? そのためには、こんな甘い考え、捨て去らないといけないんです!」
「真理ちゃん……」
「もし仮にそうだとしても、殺すはずの相手に情なんて抱いていられません。感情でどうにかできる話では──」
「でも、それはあくまで常識論だろう?」
真理ちゃんの言い訳を断ち切るように、僕はそう問うた。
「僕が聞いているのは、真理ちゃんの考えについてだ。周囲のことはどうでもいい。君自身は、どう思っているのさ」
「わ、わたしが……?」
一瞬、彼女は言葉を失った。
戸惑った様子を見せた。が、やがて歯軋りする。
「そんなの、決まっているじゃないですか! できるものなら、忘れたくなんかありませんよ! だって、たとえ短くても……アッシュとの思い出はかけがえのないものでしたから。ですが……」
言いかけて、真理ちゃんは言葉を詰まらせる。
それから、吐きかけた言葉を失ったかのように、沈黙した。
「……ほら、もう分かってるじゃん。自分が本当にどうしたいか」
できる限り彼女を安心させようと、僕は微笑んだ。
かつて光田さんが、不安に駆られた僕にそうしてくれたように。
「自分に嘘を吐く必要なんか、ないんだよ。自分の本当の想いを──アッシュとの思い出を押し殺すなんて、そんなことしなくていい。忘れてしまったら、僕らがアッシュと向き合う理由も、資格も失ってしまうのだから」
真理ちゃんは、何も言わなかった。
俯いて、僕の顔からまた目線を逸らして。
全てを受け入れてもらう必要はない。僕自身もそれを望んでいない。
だけど、もし少しでも彼女の心に広がる闇の中に一筋の光を差し込めたなら、それだけで十分なんだ。それが大人としての、責務なのだから。
「むしろ、殺す必要もないんじゃないかな? シャパリュには家族愛が有効なのが分かっているんだ。だから僕か、もしくは真理ちゃんがアイツに寄り添い続けてあげれば──」
「……ふふっ」
僕の言葉を、意外な声が遮った。
少し驚いて横を見る。その先で、真理ちゃんが口元に笑みを浮かべていたのだ。
「それは都合が良すぎますよ、武弘さん」
そう言って、真理ちゃんは微かに笑う。
涙の伝った痕を、腕で拭って。
一日中ずっと暗い表情をしていた彼女が、今日初めて真珠のようなその顔に笑みを浮かべた。
「いつまでも、微かな奇跡に縋っているわけにはいきません。シャパリュはこの場で討伐しなければなりません。そこは、ケジメをつけないと」
「それは……そうか。ごめん」
自分でも分かっていた。都合の良すぎる話だって。
でも、僅かな可能性を捨てきれなくて、調子に乗って口走ってしまった。
「謝らないでください。むしろ、武弘さんには感謝しなくてはなりません」
すると、真理ちゃんはこちらを見て、微笑んだ。
「あなたのお陰で、見落としかけていたものをもう一度見つけてあげることができました。もしここで見て見ぬふりをしていたら、わたしはまた路頭に迷っていたかもしれません」
「……そっか」
「まだ完全に気持ちが晴れたわけではありません。ですが……少しだけマシになったと思います。ですので……本当にありがとうございます」
そう言って、真理ちゃんは小さくお辞儀した。
頭を上げた時に見せたその瞳には、微かに光が戻りつつあった。その表情を見て、少しだけ安堵した。
「あ、それとわたしからも言わせてください」
不意に、真理ちゃんは口を開く。僕の目をじっと見据えて。
僕は、耳を傾けた。
「……武弘さんも、自分の気持ちに嘘吐いたりしないでくださいね? でないと、人のこと言えませんから」
「……うん?」
言葉の意図が分からなくて、つい戸惑ってしまう。
「な、何を言い出すんだい? 僕は特に何も──」
「正確には、押し殺している、と言った方が正しいですかね。どちらにしろ、あなたの心に悪いですよ?」
「っ…………」
真理ちゃんの言葉に、僕は息を詰まらせた。
核心を突いたような一言。
つい先程まで何事もなかった胸が、ずきりと痛む。針が刺さったような激痛が、身体の表面から背中にかけて、じんわりと全身に行き渡った。
「だって武弘さん、他人事のように言っていますけど、あなたもアッシュの……じゃなくてうみちゃんでしたっけ? どちらにしろ、一時を共に過ごした家族じゃないですか。自分もその場に居合わせたいはずなのに、ケジメをつけたいって言っていたのに、わたしにばかり優遇させてくれるじゃないですか」
……何も、言葉が出なかった。
「無理して、わたしに機会を与えていませんか? そんなこと、しなくていいんです。お互いにアッシュを、うみちゃんを、家族として迎え入れた同士じゃないですか。お互いが納得する形で終わらせないと、嫌です」
胸の奥で、更なる痛みが響き渡った。
「どうか、大人だからって、無理しないでください。わたしを、子供扱いしないでください」
「…………」
「あなたも、自分の気持ちに素直になってください。……偉そうに長々と話してしまいましたが、わたしから言いたいことはそれだけです」
そう言って、真理ちゃんはゆっくりと立ち上がった。黒髪を微かにたなびかせて、決意を固めつつある黒い瞳を輝かせて、いずれ来る結末に向けて、歩を進めた。
その後を、僕は中々踏み出せずにいた。
覚悟を決めたと宣言しておきながら、大人の責務だと偉そうなことを述べておきながら、暗い闇から這い上がれずにいたのは、紛れもなく僕の方だった。
確かな一歩を踏み出す少女の背中を追うことができず、置いてきぼりを喰らう気分で、立ち上がれずに呆然と見上げていた。
「……何だか微妙な空気になってしまいましたね。すみません。……さあ、行きましょう。警察の方々が待っています」
彼女の言葉に頷き、僕は立ち上がった。心中を悟られぬようにと、笑みを浮かべながら。
けど、それはぎこちないものだっただろう。ただの作り笑い、偽物の笑顔に過ぎないのだから。大人を信用できないと嘆いていた少女に向かって、僕は『嘘』で固められた表情を見せた。本当にどうしようもない人間だと、心の中で自嘲した。
黒い渦を胸に抱え。
後悔と困惑の念を残し。
僕は、身震いするほど冷えた薄暗い廊下を、真理ちゃんの後を追うように進んでいった。
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