2. 忠告

 時刻は正午過ぎ。予想通り、道中の雨は強かった。


 近所のスーパーマーケットで買い物を済ませて、僕は冷たい冬の雨が降る帰路を歩いていた。家まで徒歩約十分。そこまで苦にならない時間だが、雨中なら話は別だ。たった十分でも、悴むような寒さが僕の手を苦しめていた。


 ただ、お目当てのものが買えたのは不幸中の幸いだった。うみ大好物のキャットフードに、セールで安かった野菜やタラ。今夜はこの寒さだし鍋にしよう。頭の片隅でそんなことを考えていた。


 だからだろうか。ぼーっとしていて、前から来ていた小さな人影に気がつかなかった。


「わっ、すみません」


 身体がぶつかって、思わず声を上げる。


 謝罪の意を伝えて、相手の様子を窺う。赤い傘を差し、黒いパーカーを着た、長い黒髪の女の子。背丈や容姿から察するに、中学生ぐらいの年齢だろうか。


 少女は何の反応も示さず、しばらく無言でこちらを見つめていた。苦情どころか返答の一つもない。どう言葉をかけるべきだろうか。段々と、彼女の目や佇まいから不気味さを感じ取ってしまい、背中を冷や汗が伝った。


 とりあえず、何も言わないならそれでいいかな。結局、僕は少女に向かって小さく頭を下げて、その場を立ち去ろうとした。


「あの」


 その時だった。背後から、彼女のいた場所からか細い声が聞こえてきたのは。

 振り向くと、今まで微動だにしなかった少女が言葉を発した。


「もしかして……シャパリュがそこに、いますか?」


 さっきと同じか細い声。ようやく声の主が目の前にいる少女のものであると確信する。

 けど、話しかけられる前よりも、謎は深まる。シャパリュ? 何だろう、それは。


「匂いからわかります。あの子は大事にされている。きっと、あなたの住む家に魅力を感じていることでしょう」


 頭の上に疑問符が浮かぶ僕のことなどお構いなしに、彼女は続ける。一体、さっきから何の話をしているんだろう。


「けど……忘れないでください」


 そう言ったかと思うと、少女は一歩踏み出して僕に接近した。傘と傘が衝突する、それぐらいの距離まで。


「あなたは近い将来、危険な目に遭う。人生で最も、最悪な目に。それこそ、死んでしまうかのような苦痛に、もがき苦しむこととなるでしょう」


「…………」


「お願いします。もう少しまでの間、あの子を家から出さないでください。さもないと、さらに犠牲者が増えてしまうことでしょう……」


 ……最悪な目? 犠牲者?


「どうか本当に、よろしくお願いします。わたしにはもう……何もできないので」


 そう言い切って、その子は踵を返して行ってしまった。何処か苦しそうな感情を宿した藍色の瞳が、しばらく頭から離れてしまった。


 結局、何が言いたかったんだろう。あの子って、誰のこと? けど、犠牲者が増える点や僕が最悪な目に遭わされる点、そして彼女の真剣そうな面持ちから察するに、かなり深刻な事情なのは間違いないだろう。もしかしたら、もっと詳しく話を聞くべきではないだろうか。


「ねぇ、ちょっと待って。もう少し詳しく──」


 少女を呼び戻そうと声をかけ、顔を上げる。


 しかし、そこにはもう彼女の姿はなかった。その子がいた気配すら残らず、まるでこの雨の中に存在ごと融けてしまったかのように、跡形もなく消えていた。


 僕はしばらく呆然とした。すぐ隣の道路は自動車一台も通らず、辺りは雨音だけが激しく鳴っていた。






「ただいまぁ」


 濡れたコートと靴を脱ぎ、冷え切った身体を震わせながら、僕はまた返ってくる筈のない挨拶をかける。一刻も早く暖房のついた部屋で温まろう。その一心で居間へと向かう。居間の中央にある座布団の上では、うみが呑気そうに欠伸をして寝転んでいた。


 買い出し品の入ったビニール袋を置きに行こうとキッチンへと足を運ぶ最中、さり気なく見たうみの姿に違和感を覚える。一見、普段と変わらない容姿の中に薄らと見えた、異様な色。一瞬目に留まっただけなのに、やけに強い印象が残った。


 袋を置いて、すぐさまうみの元へと駆け寄る。そして、じっと目を凝らし観察する。違和感の正体を突き止めるのに、そう長くかからなかった。


 けど、その違和感が驚くべきことであることに気づくのに、ちょっとの間が空いてしまった。


「ちょっと、うみ! 脚、怪我してない?」


 思わず強い語調で、僕は言葉を漏らす。けど、我ながら驚くのも無理はないと思う。だって、うみの左の前脚が──正確には爪の付け根の部分が、血で染まっていたのだから。


 うみが怪我をするのなんて初めてだったものだから、少しだけ狼狽えてしまう。それに反して目の前で寝転んでいるうみは、キョトンとしてこちらを見ている。全く、こっちは心配しているのに、当の本人はこんな時でもマイペースだ。


「とりあえず、水洗いすべきかな? 包帯とかは……使わなくてもいいか。いや、でもちゃんと調べるべきか?」


 どうすれるべきかとあぐねている最中、ふと別の違和感を肌で感じ取る。暖房をつけているはずなのに、思わず身震いしてしまうような寒気を感じたのだ。暖房の故障、ではないはずだ。現に背中の一ヵ所を除けば暖気で包まれているし、まるで冷気が一筋に固まって流れてきているような、そんな感触だったから。


 もしかして──。


 僕はふと、後ろを振り向く。目線を向けた先にある窓が、数センチ程空いていたのだ。


「うわ、何でだろう。閉めておいた筈なのに……!」


 このままではせっかくの暖気が無駄になる。すぐさま立ち上がり、窓をビシャリと閉めた。当然の如く、冷気は収まった。


 おかしいな。家を出る前にちゃんと戸締りを確認したはずなのに。それに、そもそも雨だから洗濯物も干してないし、この窓を開ける目的もない。となると、何故窓が開きっぱなしになっていたのだろうか。それも、数センチという僅かな隙間で。


 しばらく考え込んでしまったが、やがてハッとする。こうしちゃいられないんだった。早くうみの怪我を治療しないと。すぐに治療法をスマホで検索し、実行に移した。頭がいっぱいになっていたせいで、怪我の原因について考察する余裕もなかった。





『えー、先程速報が入りました。今日午後十二時頃、○○県×××市の住宅街にて三十代の女性が血を流して倒れているところを発見されました。近所の住人からの通報を受け、現在病院へ搬送中とのことです。女性の首元には三本のひっかき傷があり、昨日と同じ区域、同じ犯行の事件であることから、警察は計画的な犯行と見て捜査を急いでいます』


「えっ、また殺人事件? しかもまた近所……勘弁してくれよ」


 鍋をつついていた箸を止め、大きな溜め息を漏らした。ただでさえ近所での殺人事件が初めての現象だったのに、まさか連続殺人事件の疑いにまで発展してしまうとは。部屋は暖かいはずなのに、冷や汗が背中を伝う。


 でも、被害者が発見されたのは真昼だし、目撃者の一人や二人はいるはずだ。雨が降っていて視界が悪くなったにしろ、夜に比べれば人通りが多いだろう。だから、きっと早いうちに事件は解決するはずだ。解決、するだろうか。


「うみも気をつけてよ? お前怠け者なんだから、取って喰われないか心配だよ」


 そう言うと、隣の椅子で丸くなっていた怠け者は一言だけ、ナァと鳴いた。どこまでも呑気なコイツを見ていると、胸に芽生えた不安も何だかどうでもよくなってくる。今となっては、むしろありがたいことだけれど。


 それでも、脳の片隅では、今日のうちに起きた異様な現象たちが蘇っては消えてを繰り返しながら、ぐるぐると回っていた。うみの脚の怪我。中途半端に開いていた窓。そして一番にくっきりと残る、謎の少女からの忠告。


『あなたは近い将来、危険な目に遭う。人生で最も、最悪な目に──』

『お願いします。もう少しまでの間、あの子を家から出さないでください』

『わたしにはもう……何もできないので』


 ……本当に、何だったんだろう。あの切羽詰まった言葉の数々は。


『あの子』の正体も、結局何だか曖昧だった。姿かたちも、これといった特徴も、そもそも実体があるのか否かも、説明することなく去ってしまった。まあ、実体がない生物なんて非現実的だからいるわけがないけど。誰かに聞かれていたら、漫画の読みすぎだと突っ込まれるだろう。


 いや、でも何だろう。何かが妙に引っかかる。

 うみの脚の怪我、いつ開いたかすらわからない窓、そして……今回の事件。


 ……もしかして。


 僕が目を向けた先で、うみが不思議そうに目を丸くして首を傾げた。少し引き気味になっているような、そんな風にも見て取れた。


 もしかして、そんなに怖い顔をしていたのだろうか。うみの瞳を見て我に返り、嫌な想像を振り払うように頭を思い切り横に振った。


 そうだ。そんなことがあるはずがない。だって、うみは優しい子なんだ。初めて出会った日に歩み寄った時も、コイツが少し嫌がりそうなことをした時も、僕を傷つけるどころか威嚇すらしなかったんだ。そんなうみが、人を怪我させることなどしないはずだ。


 それに、猫が人間の首元をひっかいたぐらいで、死ぬほどの出血を起こすなんて考えにくい。だから、今回の事件はうみどころか、猫が関係ある可能性すら無に等しい。きっと犯人は熊手か何かを用いたに違いない。


 あの女の子の言葉も、きっと戯言に違いない。そもそも人違いだったと考えるべきだ。うん、そうだ。そうに違いない。全くもう、なに根拠のないことを心配しているんだ、この僕は。


 胸中の不安をかき消そうと、器に入った鍋の具をかき込む。そして……愚かなことに喉を火傷した。熱い、熱いともがきながら、麦茶を飲もうと冷蔵庫へと駆け込む。


 そんな馬鹿なことをやって、ニュースの後のお笑い番組で爆笑しているうちに、今日という一日はあっという間に終わりを迎えていた。

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