第十三話 聖域

 左手の煙管を吸い、吐いた煙が、キームンと妖魔のみが存在する球体を形作った聖域の中で立ち込めた。


鬼使神差グイシーシェンチャイ拆卸チャイシエ


 先ほどより厳かに、妖気と取りいたものとを分離させる呪文を唱える。

 妖魔の額に、キームンの指先からアメジストへと金色の光が伝っていく。


 金色の光を灯したアメジストをかざすと、煙と共に妖魔の妖気が石に吸収されていくのが目視できる。


 牛の姿はなく、石に映っていた中華人の男がそこに立ち尽くしていた。


 その中年の男は痩せ細ることはなく、血色の良い顔色に小太りな姿、虚な目でぼうっとしている。


「あなたは、香港マフィアのボス?」


「……そうだ」


 茫然と答える様子を注意深く見守りながらキームンが問いかけていくと、男はラプサン・スーチョンが現れてからの経緯を語り始めた。


「あの煙使いの仙人にアヘン窟を潰され、きのこ窟なんかに代えられ、俺たちは収入源のほとんどを失った。それまでの暮らしと一変させられ、朝早く起きてきのこ窟の室温、湿度、観察のため連れて行かれ、管理の仕方をしつこく指導された。部下たちも逆らえなかった。むしゃくしゃして上のアパートの住民たちから金を巻き上げたヤツもいたが、あの仙人にぶん取られ、よりによってそれに俺の金と宝石も付けて住民に返しやがった! なんてことしやがる! だいいち、この俺がボスなのになぜあいつが我が物顔で取り仕切る!?」


「……」


 主観的な言い分で語られていくが、キームンは黙って聞き、頭の中で修正した上に想像で補うことにした。


 近隣住民も怖がって近付かない魔窟と呼ばれて恐れられていたここは、僕も入った時に感じたけど、かなり『負の気』が集まってた。


 金や地位に一際執着していたこの人は、ラプさんにやられて気が弱っていたところに、『負の気』によって集まって巣食っていた妖魔が取り憑いた……。


 巨大化したボスは、おそらく部下だとかもわからずに無差別に襲いかかったことだろう。


 ラプさんは多分、デカすぎて邪魔だとばかりにあの赤いランタンに閉じ込めて、人が乗るくらいにまで膨らんだそれをずっと制御してた。


「近くにあった赤いランタンにあなたごと封印して、あなたが完全に妖魔になり切ってしまうのをラプさんの力で防いでいたって考えられる。でも、彼なら妖魔が取り憑いたことはわかるし、あなたから妖気を取り除くことは出来たと思うのに、なんでそうしなかったのかな?」


「あの男は俺の部下たちが俺を元に戻すよう頼み込んでも『面倒だ。なぜ俺がやらなければならない? お前たちにもこの男にもそんな義理はない』などと言いやがった!」


 ボスの、うつろだがつやつやしている顔に怒りが浮かび、みるみる真っ赤に染まった。


「きのこが育つ二年間はここで楽しみに待つと宣言しやがった。きのこ窟の環境が適しているとかで! その後で俺を元に戻してもいい、と! これまでの二年八ヶ月の間、俺には部下が早起きして市場で買ってきた食材で作られた食い物だけを食わせてきたんだぞ! もうずっと酒も飲んでねえ!」


「……健康的な生活と食事が出来て良かったんじゃない? 取り憑かれた割には血色だっていいし、やつれてないし」


「なぜきのこは二年以上も待てるのに、この俺を元に戻すのは面倒なんだ!」


 キームンは困った笑顔になった。


「真仙にとっては二年は大した時間じゃない。仙人ならではのはかりの掛け方……だったのかな? 他の人には理解出来なくても、ラプさんの中では辻褄つじつまは合ってる、っていう」


 なんとなく、自分が幼い頃にも、ラプサン・スーチョンにはそう感じたことがあったように思う。


 ボスはまだ恨みつらみを吐き出し、それを受けて想像を続ける。


 マフィアたちは妖魔化したボスをなんともしようがなく、心身ともに病んで引きこもっていた。封印されてはいてもボスの妖魔に怯え、いつまで仙人に支配されなければならないのかと気がかりで、やきもきしていた。


 そんな時に、得体の知れない西洋人率いる上海マフィアが攻めて来るという噂を聞きつけた。とても対抗出来ないと踏んで、妖魔化したボスとラプさんも、あのまま閉じ込めて逃げようとした。


 そんなところかな。


 ラプさんの方は二年半以上も何も食べずに、きのこの成長を楽しみに待ってたなんて。それがダメになってたから、あんなに機嫌が悪かったのか。


「きのこが気になって仕方がなかっただろうけど、妖魔を封印したランタンからは動けなかった。ランタンの上を歩くことは出来ても。どうせ二年はきのこのために待つつもりだから、食べてからなんとかすればいいと思ったのかも知れないけど、おなかが空いてきた。栽培した美味しいきのこを食べれば元気が出ても増して、一瞬離れて妖魔を暴走させたとしても対処できると思ってたのかも」


 気を取り直したように、キームンが爽やかな笑みを浮かべた。


「それじゃ、そろそろこの『聖域』から出ようか。あなたにふさわしい場所に行こう」


 その中華人のボスは知らない。

 彼の爽やかな笑顔を見た後に、マフィアがどうなってきたかを。


   ***


 キームンが風の精霊に運ばせていた煙の結界を解き、余った上海蟹を九龍城砦に住む住民に配り終えた時に、一番弟子の宇航ユーハンが数人の弟子を連れて駆けつけ、東方美人もそこにいた。


正山小種ジョンシャンシャオジョンさまぁ! ご無事で何よりです!」


 宇航ユーハンが泣きそうな笑顔で重ねた手を前に出し、ひざまずいた。


「遅くなった。上等なきのこを収穫したら、皆で食そうと持ち帰るつもりだったのだがな」

「我々のことまでお考えで! ありがたき幸せに存じますー!」


 宇航ユーハンはキームンにも、「立派になられて!」と涙ぐむと、心配そうに見上げる。


「なんですか、この得体の知れない液体は!」

「ああ、妖魔の胃液がかかっちゃって」

「なんですと! すぐに湯浴みをなさらないと!」


「でも、香港マフィアのボスを警察に引き渡さないと。逃げた手下も捕まえて、それとアジトにあった宝も警察に届けたり……」

「そんなことはこちらでやりますから!」




 港近くに建てられた西洋風旅館では、シャワーを済ませたラプサン・スーチョンが、弟子たちの用意した新しい青い長衣に着替え、ベッドに胡座あぐらをかいた。


 ベッド中に広がる髪を風の精霊である風怜フォンリエンが、両手を掬い上げて風を起こしては髪を巻き上げ、触れずに乾かしている。


「何を手こずっていたのかしら? あなたらしくもない」


 ドアを開けたまま寄りかかり、腕を組んだ東方美人が冷たい口調でラプサン・スーチョンに言った。


「あまり弟子たちに心配かけるものではないわ」


 無言で東方美人を見た後、ゴロンと肘をついて寝転ぶ。


「美味そうなきのこだったから、弟子にもねえさんにも分けたかった」


「ねえさん……だって?」


 シャワールームから、着替えたキームンが驚いて顔を覗かせた。


「ねえさんはラプさんよりも年上だったの!?」


「たいして変わらないわよ! なのに、この人がからかってねえさんって呼んでるのよ」


「……だから、ラプさんのことを阿種アージョンって、子供の呼び名で呼んでたのか」


「……幼馴染のクセが抜けなかっただけよ」


「な〜んだ! 一時期付き合ってたらしいって噂もあったけど、違ったんだね! 誤解してたよ!」


 あははと無邪気に笑うキームンだったが、二人は無言だった。


「それよりも……、やっぱり小さかったみたいね、その服」


 急いで東方美人が購入してきたツーピースに分かれたスタンドカラーの服だ。

 中華結のボタンを二つほど外して着ているキームンが、困った顔になる。


「肩もキツいし、丈も短い。パンツも15cmくらい短くて成長期の子供がサイズの合わなくなった服着てるみたいだよ。しかも、男の鎖骨とか腹チラなんてキモくない? といって、煙で女装しても身長はほとんど変わらないし、女性が露出が多い方が良くないかな」


「中華服にこだわるから。それでもお店で一番大きいサイズだったのよ。あなたはいつもオーダーメイドだったけれど、今回はそんな暇なかったんだから、我慢して。大丈夫よ、可愛いから」


 クスクス笑いながら、東方美人が、口を尖らせるキームンの肩をぽんぽん叩いた。


「こんなんじゃ、蝴蝶幇フーディエ・パンの部下たちにナメられそうだよ」


「お前のマフィアか? お前らしくて良い名だな」

「ありがとう」


 ラプサン・スーチョンが微笑んだ。

 髪を乾かし終えた精霊は、もう一つあるベッドの上にちょこんと座っている。


「ああ、お腹空いた〜! 香港では広東料理かな? フカヒレを食べるって聞くよ。飲茶ヤムチャも試してみたいけど、昼間かなぁ!」


「港はイギリス人がよく出入りするから、西洋人向けに建てられたホテルが多いの。だから、西洋の食事よ」


「うわあ! 久しぶりだ!」


 窓の外に、青い蝶が見える。

 キームンは窓を開け、手の甲に蝶を乗せた。蝶を見る視線には、常に愛おしさがこもっている。


「部下を全員連れてきてくれたみたいだね。ありがとう」


 ラプサン・スーチョンと東方美人を振り返った。


「僕の部下たちを上海に返してあげないと」


 ホテルの前に集まる黒いスーツの集団は、キームンが現れると駆け寄った。


「ボスー!!」

「本当にご無事で!!」


 サイドテールにした金髪がサラサラと風になびき、丈が短い、着崩した青い中華服に注目が集まる。


「え……」

「……腹チラ……!!」

「なんか可愛い??」


「首筋……エロくないか?」

「うなじ、エロい」


 女装ではない彼に、背徳感からか、さらに悶えている男たちは少なくなかった。


「約束通り皆で上海に帰ろう。船は明日出航する。それまで、雑魚寝で良ければこのホテルに部屋を取ったから今夜は泊まって行って」


 歓喜するマフィアの部下たちを背に、早々に切り上げて部屋に戻ると、キームンは憮然として東方美人に言った。


「やっぱり、西洋服でいいからサイズの合うのを買ってくるよ」

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