第八話 歪な空間
地下へ通じる階段が見えていた。真っ直ぐではなく、といって綺麗な螺旋型とも言えないいびつな作りだ。
暗くて奥は見えないが、ひんやりとした空気が風も何もないのに感じる。
同時に、木材が焦げるような匂いも漂ってきた。
「誰だ? こんなところで焚き火してるヤツは?」
「地下で焚き火はないだろ」
「……なんだか冷気みたいなのも……?」
「下の階から風が吹いてきてるような?」
「地下なのに、どうやって風が入ってくんだよ?」
「冷気っていうより、霊気かな?」
「ひっ! ボ、ボス!」
「脅かさねぇでくださいよ!」
「きみはどう思う?」
誰にともなく尋ねると、手下たちが顔を見合わせてざわついた。
『キームン、確かにボクも
ふんわりと青と白の衣を羽織った幼い男児に、うなずいた。
「
また宙に向かって喋ってる!
手下たちには、キームンと話す風の精霊の姿は見えず、声も聞こえていない。
地下への階段を、先頭を歩くキームンが一段降りた。
二、三段あとから手下たちもこわごわ付いていく。
革靴の底の音だけが静かに続いた。
行き止まりには、階段の幅と同じくらいの両開きの扉が見えた。
方位磁石の蝋燭の火に照らされたその扉は、天井近くまである青銅で出来た重苦しいものだった。
ドアには目立つかんぬきまでかけられていた。
「こんなところに閉じ込められてるのかな。妖気もこの扉の向こうに感じられるけど、彼が抑えきれないほどのものとは思えないな」
わずかな時間考えてから、キームンは両扉にかけられた横木を外して立てかけた。
扉はギギギ……! と軋む音を上げながら、うっすらと開き、あとは手下たち数人が両側へと開いていく。
「……!?」
扉から吐き出されるようにしてぼわっとやってきた煙に、キームンと風の精霊以外の人間たちが、ゲホゲホと
「なっ、なんだ、この煙は!」
「ボスのと違って、相当ケムい!」
コンパスと
「
一歩踏み込むと、がくんと身体が傾いた。
「なっ!」
風の精霊が、サッと手のひらを向け、逆さになったキームンの身体を宙に浮かせた。
「皆! 入ってきちゃダメだ!」
「どうしたんですか、ボス!」
「浮いてる!?」
「いったい何が……!?」
「いいから下がって! そのまま部屋の外にいて!」
真剣な声に、扉を越える手前で手下たちは止まった。
煙が薄くなってきたと思うと、ぼんやりと奥に何かが浮かんでいるのが見えてきた。
キームンが逆さになって浮かんでいるだけでなく、天井には石畳が敷き詰められ、煙で視界が遮られる中で床は見当たらず、ただどこまで続いているか見当もつかない黒い空間にしか見えない。
「天地逆転してる!」
キームンの声に、驚いて黒スーツの手下たちが目を凝らすが、目の前の現実が飲み込めないでいた。
「誰だ?」
その一声だけでも威厳の感じられる、低く響き渡る声に、誰もが息をするのを忘れるほど固まった。
「……僕だよ」
すぐには返答できないでいた、静かな青年の声は微かに震えていた。
「……聞き覚えのない声だ」
「当たり前だよ、声変わりしてるんだから。会わない間、何年経ったと思ってるのさ?」
「英語で呼ばれたのも久しぶりだ」
「……ラプさん、僕だよ」
扉の前の手下たちからすると、キームンの更に下方の黒い空間から湧いていた煙がとどまった。
「……なっ……!」
「なんだ、あれは……!」
徐々に煙が引いていくと、床に相当する部分が明らかに更なる地下へと深まったところで、ぼんやりと見えてきた。
房飾りのついた、赤く、丸い中華風ランタンがその両側に浮かび、そのすぐ下の赤い巨大なランタンの上にいる、人らしき影がある。
袖のない中華風ローブ姿。クワンではない足首で絞られたパンツに、爪先の尖った靴、金色のずっしりとしたくびれのある丸みのあるボトルからつながった細いホースは、煙管に似た管に付いている。
その水煙草の
白い煙の奥には薄紫か灰色かに見えるものがあったが、それが髪の毛とわかるには時間を要した。
濃いくすんだ青色のパンツに羽織った詰襟の青い長衣からは、褐色肌の大きい手が見え、爬虫類のような金色の吊り目がじっと見つめている。
「おお、
少しだけ弾んだ低音に、ぺこりと精霊が頭を下げて、ふわんと浮かび直した。
その隣に浮かんだままの青年が、顎を引き、ぐっと唇を引き結ぶ。
「それと、見たことのない奴がいるな。外国人か?」
「外国人か……だって……?」
キッと、顔を上げて睨む。
「本当に僕のこと忘れたんなら、思い出させてあげる!」
階段の上から青い蝶の集団がサーッと勢いよく入ってくると、
「蝶か。見事なものだ」
金色の瞳を光らせ、水煙草の男がゆっくりと立ち上がった。
蝶の後ろから、
「
小声で言うと、キームンの身体は空間の中を走るよりも速く、スッと下方へ向かう。
褐色の手の甲が受け流し、そのままぐるんと回した。白い長衣の青年の身体も同じ方向へ回転すると、すぐさま
片足を上げて防御しながらキームンの顎に向けて拳が突き上げられるが、ふわんと回転して退き、空間を地面のように蹴って向かっていく。
階段から見ていた、逆転した空間に入れずにいる手下たちには、二人が接触したときに起こった風圧が浴びせられた。
腕で風を庇いながら、彼らがなんとか目を凝らしても、暗闇に浮かぶ赤いランタン、飛び交う青い蝶たち、ひらめく白っぽい布と青い布に、金色の長い髪と煙だかなんだか区別のつかない髪だけが見えただけだった。
銃を構えた者たちもいたが、他の者に、「ボスの煙を忘れたか! 見えてるのと実際は違うところにいるんだぞ!」「闇雲に打って万が一ボスに当たったらどうする!」と口々に止められて諦めるしかなかった。
あのような宙に浮かんだままで、素早く繰り広げられる、目で追いきれない信じ難い攻防戦に混ざらなくて良かったと、内心誰もが思っていた。
援護するものだと頭ではわかっていてもどうすることも出来ず、ボスを信じて待つしかない。
「花の香りに、上品なスモーキーな香りが混ざっている」
金色の瞳が光り、男の片方の口角がニヤッと上がった。
「祁門……キームンか」
ビクッと、キームンの肩が震えた。
袖で目尻を拭うような仕草をすると、潤った碧い瞳は輝きはじめた。
「久しぶりだね、ラプさん。やっと思い出してくれた?」
「ああ」
今にも感極まって飛び出していきそうなキームンに対して、ラプサン・スーチョンの表情はさほど変わらず、声にも懐かしむ様子も感じられない。
それが、キームンを無邪気な子供時代に引き戻さずに、現実にとどめていた。
互いに距離を取ったまま、ラプサン・スーチョンの足元にある巨大なランタンから、煙が一気にあふれ出した。
「妖気!?」
戦いの間、空中に浮かんだままになっていたコンパスの指針が、ぐるぐると回っていた。
青い蝶たちがひらひらとキームンへと舞い戻って、足元に落ちた。
「ラプさん……!? 何を……!?」
片手を突き出して向けたラプサン・スーチョンは、怪しく微笑んだまま、白い煙をまとった。
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