第七話 魔窟

「九龍城って言っても実際には城があるわけじゃねぇ。いろんな説がありやすが、九つの龍がいろんな方角の山から降りてきて、この辺りが九龍と呼ばれてるってやつが一番有名ですかね。しかし、昼間でも真っ暗な、丸一日まったく日の当たらねぇ道も部屋もある、不気味なところだぜ。それでも住民はいる。マフィアとは関係ない一般人もな」


 港で聞いた話だ。


 上海よりも香港は気温が高く、蒸し暑い。

 そんなところに、黒いスーツを着た集団がいる光景は珍しかったに違いない。


「砦の中も入り組んでて、それこそ九つの道があって、どこを通ったらあんたたちの求めてるところに行けるのかも解りゃしない。マフィアのアジトはおろか、間違ってアヘン窟に迷いこんじまうのもごめんだ。誰だって砦には近づきたくないもんだ。悪いけど、案内はここまでだ」


「ああ、ありがとう」


 キームンが優雅な仕草で金を渡すと引ったくり、案内人は一目散に駆け出し、逃げていった。


「ボス、どうしますかい?」


 キームンは、白と水色のグラデーションになっている中華風長衣ローブの長い袖の中から、八角形のコンパスを取り出した。コンパスの盤の上の小皿に蝋燭ろうそくをさし、パチンと指を鳴らすと火が灯った。


 な、なんだ!? いきなり火が!

 今、妙な術を使ったのか!

 見ていた数人の手下たちが目を見張る。


「無駄ですよ、ボス。ここでは磁気が強いんだか、方位磁針はめちゃくちゃな方向を指すって聞きますよ」


 マフィアの手下たちが言うように、指針はぐるぐると回転し、逆回転したりと方向が定まらない。


 袖から煙管を取り出し、煙を吐く。


風怜フォンリエン、頼むよ」


 宙に向かってそう言ったと思うと、キームンを含め、数十人いる黒スーツの周りを煙が包み込むように取り囲んだ。


「ありがとう、風怜フォンリエン。みんな、この空間は正常にしたよ。ほら、指針も普通になった」


 にっこりと笑ったキームンだが、手下たちはざわついた。


「……あんた、いったい、今、誰と喋ってたんです?」

「も、もしかして、その羅針盤は……妖気にも反応するってヤツじゃ……?」


「うん、そうだよ」


「なんですと!?」


 手下たちが震えながら身を寄せ合うのを、キームンは不思議そうに見た。


「どうしたのさ?」


「ボ、ボス、……あんた、でもあるんですかい?」


「道士? うーん、まあ、妖術使いとの戦い方も小さい頃に教わったけど、正式な手順を踏んで道士と認められたわけじゃないし」


「あんた、いったい何者だよ!」

「西洋人の道士なんて聞いたことねぇぞ!」


 悲鳴に近い声が次々と上がった。彼らがキームンを奇怪なものを見るような目を向けたのは、初対面のとき以来だ。


「その術を僕に教えてくれた人が、ここにいるんだ。あえてここから出ないのか、その人でさえも出てこられない強力な妖魔でもいるのか……だとしたら困るなぁ、どうしようかなぁ……。あれ? みんな、どうかした?」


 足をとめて顔を青くした手下たちに気がつき、彼も立ち止まった。


「よ、妖魔だなんて……聞いてねぇぞ!」

「騙したな!?」

「そうだぜ、情報じゃあ俺たちみたいなマフィアとしか!」


「あれ? まさかみんな、人間は怖くないのに、妖魔とかお化けは怖いの?」


 可笑しそうにくすくす笑うキームンを、手下たちは憎々しげに見る。


 こんなところまで連れてきやがって! と恨みがましい目付きもあれば、男から見ても美しい笑顔だと、迂闊うかつにも見惚みとれたことを認めたくない故に鋭くなってしまった目付きと、さまざまあった。


 まったく気にもとめずに、西洋人ボスは「先に進もう」と促した。


「冗談じゃねぇ!」

「俺は行かねぇからな!」

「俺も!」


 後方にいた者たちが引き返そうと、駆け出した。つられて、樽を引きずって運んでいた者たちも、樽を置いて逃げ始めた。


 彼らが元来た道を戻りかけると、煙の外に出た。


 そこがどのようなところだったのか、はっきりと目に映った。


 壁にも地面にもべったりと黒々とした液体の乾いた跡があちこちに見られる。血液や吐瀉物、排泄物の跡。乾いてこびりついていても異様な臭気に満ちていて、慌てて鼻をふさがずにはいられなかった。


 天井には張り巡らされた蜘蛛の巣に、埃や髪の毛が垂れ下がり、切れかかった裸電球と完全に切れた電球が、うねっている狭い回廊に点々と続く。


 空中では、ゆらあっと浮かぶ青白い光が、見たり消えたりした。


「言っておくけど、この煙は結界でもあるんだよ。ここから出たりしたら、何かあっても僕には助けられない」


「ひえっ!」


 慌てて手下たちが煙の中へと戻る。


「さっき、なんか浮いてただろ?」

「青く光ってたヤツ?」

「なに!? 俺には赤く見えたぜ?」


「ああ、それ、妖魔かもね」


 キームンの一言で、その場は凍りついた。


「弱い奴だから心配しないで、煙の中にいれば大丈夫。じゃあ進むよ。遅れずについてきてよね。結界はこれ以上広範囲には張れないんだから」


 慌てて煙の中に戻った男たちは、嫌な匂いも嫌なものも視界から消え、ほっとした。


「……一応、俺たち、ボスの煙で守られてたのか……?」

「あ、ああ、そうだよな」

「俺たちのことなんか、駒とか自分の身を守る盾としか思ってないのかとばかり……」


 少しだけ、彼らにはキームンが頼もしく見えた。

 今見た現実では掃き溜め、いや呪われたと言ってもいいこの不気味な通路の中では、白と青を基調にした長衣も、彼の金色の美しい長い髪も手伝って、真仙(仙人)や天使のようにさえ思える。


「一つ忠告しておくと、この先はどうも妖気だかなんだかわからないものが強くなってきて、指針が揺れてる。正確な方角が掴みにくくて視界も悪い。妖魔を刺激しないように、喋らないで静かにしていた方が無難だよ」


「無難……て!?」

「どうなるってんですか!?」


 動揺した彼らに、ゆっくりとキームンが振り返った。

 後に続いていた男たちも足を止め、食い入るように彼の白い顔を見つめ、答えを待った。


 彼らの若いボスは、人差し指を口元に持っていき、無言で小首を傾げ、ふふっと微笑んだ。

 そして、くるっと背を向け、また歩き出す。


 ……だから、どんな意味があんだよ!

 しかも、なんか可愛かったじゃねーか!


 泣きそうな表情にも見える困り眉に、誰もがなっていた。


 やっぱ、こいつの手下になるの、間違ってた?


 そこにいるすべてのスーツ男が、今、後悔の念に苛まれていた。




「止まって」


 静かな声に、手下たちも無言で立ち止まる。


「誰だ!?」


 前方から聞こえた押し殺した声に、手下たちが銃をいつでも打てるよう構えた。


風怜フォンリエン、明かりを」


 キームンがまた宙に声をかけると、フーッと風が吹いていき、羅針盤の上にあった火が大きく揺れた。


 狭い通路の正面には、ツーピースの中華服を着た男たちが並んでいた。


「敵か! おい、てめえら、そこをどけ!」


 黒いスーツの手下たちが怒鳴った。

 相手が人間だと知ると、途端に態度が変わるんだな、とキームンが小さく笑う。


 ぬっと、中華服のマフィアらしき人相の悪い者たちが進み出て、キームンをじろじろと見回した。


「……あんたが噂に聞く、上海から来たボス、西洋人の煙使いか」


 南方訛りの言葉に、にっこりと、西洋の若者が会釈をした。


「うん、そうだよ。僕は上海から来たキームン。ここにいる元黒豹幇ヘイバオ・パンたちは、僕の率いる蝴蝶幇フーディエ・パンになったんだ。きみたちは、ここのマフィアかな? 手土産に上海蟹を持ってきたよ。みんなで食べてね」


 手下たちが引きずっていた樽を前に持ち出した。


「動くんじゃねぇ! 妙なものでも入ってるんじゃないだろうな?」

「え? 正真正銘、蟹なんだけど?」

「そんなことはどうでもいい! とにかく、ここから先には一歩も通さねぇぞ!」


 香港マフィアたちがじりじりと迫るが、その顔は青ざめて、いかにも不健康に痩せこけている。


「ボス、こいつらのカオ、なんだか憔悴してるような……?」

「ヤクのやりすぎか!?」


 キームンも彼らの様子が気になった。


「きみたちのボスはどこ?」


「ボスの話はするんじゃねぇ!」


「なんだ、てめえら! うちのボスがお尋ねになってんのに、なんて態度だ、コラァ!」

「ヤクのやりすぎで、頭イカレてんのか!」


「でも、アヘンの匂いはしないよね」


 キームンのセリフに、どちらのマフィアも静まった。


「……アヘン窟はすぐそこを左に曲がった奥だ。だが、潰された」

「潰された……だって?」


「今は、きのこ栽培窟になってるぜ」

「はあ? フザケんのも大概にしろや!」

「それとも、毒キノコか!」


「確かめてみるといい。だが、俺たちが消えてからだ」

「? なんだ、てめえ、ここから先は一歩も通さねえって言い切ってただろーが!」


 黒スーツたちが立ちふさがり、中華服マフィアたちと睨み合う。


「ここから先は通さねえって言ったのは、……先に俺たちがここを出るって意味だぜ!」

「ああ!? どういうことだよ!?」


「どけ!!」


 その途端、中華服の男たちが一気に走り出し、黒スーツと戦うというより押し分けていく。


「きみたち、どこへ?」


 キームンが飛び上がって天井近くで浮かんだ。


「ひっ! あいつも化け物か!?」

「もう嫌だぁ! こんなとこ出てってやる〜!」


 げっそりとした顔で泣きながら、男たちは逃げていった。


風怜フォンリエン、もういいよ、ありがとう」


 浮かんでいたキームンが、くるっと回転して地面に降り立った。


「あいつらどうかしてますぜ、ボス」

「アヘンでアタマおかしくなったにしても、それ以上に怯えてたような?」

「マフィアの奴らがあんなに怖がるってことは、やっぱり……」


 不安気な顔で手下たちがキームンを見つめると、彼らから見れば不可解な表情が浮かんでいた。


「……今のでわかった。この奥にいるのは、やっぱり、……正山小種ラプサン・スーチョン……!」


 ごおっと風が通り過ぎた。


 手下が見回すが、窓もなにもないただの通路だ。


 風が舞上げたキームンの金色の髪が再び肩に降りたとき、その顔には不敵な笑みが浮かんでいた。

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