* 第二章 真仙と精霊 *

第六話 岩山の黒髪青年

 福建——

 海を隔てて台湾と隣接した中華国の土地。上海から二つ目の県を南下したエリアにある。


 さらに険しい岩山は常に霞がかり、真仙しんせんと称される仙人が住んでいると噂されていた。


 年老いているようにも若すぎるようにも見えない、年齢不詳の青年であるという。


 膝まである長い黒髪が美しくなびき、中性的な整った顔立ち、黒目の大きい切長の瞳、すらりとした長身は190cmを超え、足元まで隠れた長衣中華風ローブの上からふんわりと青い軽い生地が覆う。


 そんな姿が、ごくたまにではあったが見かけたと、山を登った者たちから噂が広まっていた。


 彼が持つ横笛かと思うほどに長く太い煙管キセルからは、松の葉を燻した燻香が常に漂っているという。


正山小種ジョンシャンシャオジョン様は、まだイギリスからお戻りにならないか!」


 黒髪を頭の上で団子に結った青年のひとりが、巻物を積んで運びながら早歩きで右往左往している。


「は、はい、宇航ユーハン様、もうすぐだと思いますが」


 中華風の絹の衣装に身を包んだ、やはり頭頂に団子の髪型をした若い娘も、フルーツを乗せたカゴを運んでいるところだった。


「好物の龍眼ロンガンのドライフルーツもご用意しましたし、茶葉の補充も完璧ですので、いつでも宴は始められます」


「わかった。行っていいぞ」


 娘たちがお辞儀をして去ると、つぶやいた。


「ご無事だろうか。いや、また気まぐれを起こされでも……? あのお方の性格は前々から重々承知していたが……」


 嘆かわしく、青年・宇航ユーハンが首を振る。


 ゴツゴツと固い岩山の霞がかった部分にあるのは、中華国の民からは伝説の生き物である龍も入れそうだと言われている天井の高い神殿のような建物だった。


 丸い柱に、丸い枠の窓、丸い飾り棚。

 広い回廊を、弟子である宇航ユーハンを始めとする数十人の弟子たち、それを遥かに上回る使用人の青年と女性、少年少女たちが、歓迎の宴の準備に行き交っていたが、それも落ち着いてきた。


 そこに、一羽の青い鳥が飛んできて窓から入ると、ぼわんと白い煙とともに少年の姿に変わった。

 ツーピースの中華風な装束の上に、青く透ける長い衣をまとった少年は、肌や髪の色素が薄く、どこかか弱い妖精のような、中性的で不思議な雰囲気があった。 


「おお、風怜フォンリエン! 風の精霊! どうだ? 我らの主人は今どこにいらっしゃる? 迎えの者たちは、もうとっくに港に着いている頃だと思うのだが」


『お迎えの場所に正山小種ジョンシャンシャオジョン様の姿はなかったけど、上の方に彼のを感じたから来てみたんだよ』


だって? どこに?」


 宇航ユーハンも使用人たちもきょろきょろするが、窓からもくもくと煙が入ってきた。


「けっ、煙い!」

「なんだ、いったい!?」

「焚き火か、まさか山火事でもあったのか!?」


 けほっ、けほっ! と、咳き込んでいるうちに、煙はますます大きくなっていき、長身の人間が数人入れるほどまで大きく膨らんだ。


 使用人たちは長い袖口を咳き込む口に当て、目を凝らした。


「……だ、誰です?」


 問いかけた宇航ユーハンが、またしても咳き込む。


「俺の顔をもう忘れたか?」


 低い美声が響く。


 風怜フォンリエンが地面から10cmほど浮いたまま、踊るような仕草で手のひらを突き出すと、煙が風に流れたように引いていき、長身の人影が徐々に現れた。


 くすんだ青灰色をした詰襟の中華風長衣、褐色の筋肉質な腕、端正な顔立ちに切長の瞳は金色で、爬虫類を連想させる。


 何よりも特徴的だったのは、その髪の毛だ。


 煙が引いてもまだもくもくとそこにあったのは、薄紫色なのか灰色なのか判別しにくい、煙のようにもくもくと床にこぼれ落ちていた。


「え……、どなたでしょう?」


 目を白黒させながら、気の抜けた声で宇航ユーハンが尋ねた。


「俺だ。主人の顔を忘れたか?」


「へっ!!」


 凍りついたように、宇航も他の弟子たちも、使用人たちも固まってしまい、すぐには声を出せずにいた。


「まさか、本当に……?」

「あの正山小種ジョンシャンシャオジョン様?」


 さらに、彼のもくもくの髪の後ろから、ひょこっと顔を出した子供が、長衣中華風ローブを引っ張りながら言った。


「ラプさん、随分変わっちゃったから、みんなわからないんだよ」


「……ああ、そうか」


 なるほど、と納得がいったように、長身の男はうなずいた。


「キームン坊ちゃん?」

「本当だ! キームン様だ!」

「随分大きくなられて!」


 使用人たちが安堵のため息と同時に、手を前に囲うように出して左手を右手に重ね、頭を下げてあいさつをした。


「みんな、ただいま」


 キームン少年が、にっこりと手を振った。


「お帰りなさいませ! 坊ちゃん!」

「お帰りなさいませ!」


「ということは、こちらは、やはり……正山小種ジョンシャンシャオジョン様……?」

「ええっ!? 本当に!?」

「……信じられん……!」


「イギリス帰りだと、ああなるのか?」

「いや、でも、キームン坊ちゃんは金髪碧眼の西洋人の可愛らしいお子の姿で、お変わりないし」

「ますます可愛らしくなられて!」


 宇航ユーハンがおそるおそる歩いていき、手を重ねながら前に突き出し、頭を下げてから尋ねた。


正山小種ジョンシャンシャオジョン様、そのお姿は、いったい……どうされたのですか!?」


「ああ。湿地帯にいたら、雷に打たれただけだ」


 蚊にでも刺されたことのようになんでもない口振りだ。


「雷!?」

「えええっ!!」

「だっ、大丈夫なんですか!?」


 使用人たちは驚愕し、正山小種ジョンシャンシャオジョンの方は、きょとんとした顔で皆を見回した。


 おたおたおしながら集まった弟子たち、使用人たちは口元を袖で隠し、主人からは目を逸らせずにささやき合う。


「……確かに、お声はそのままでいらっしゃるようだ」

「そ、そうだな。普通に歩かれてたし、お怪我はなさそうではあるな」

「でも、なぜ……?」


「だが、雷に打たれてもご無事とは、さすがだ……!」

「バカっ! あれがご無事なお姿に見えるか?」

「だったら病院で手当などされて、ああなってしまったのだろうか?」


「イギリスのヤブ医者に当たってしまったのでは!?」

「なんと、おいたわしい!」

「ここにいらした頃の、色白で切長の黒い瞳に、美しい黒髪の面影もなく……」


「あの、いかにも真仙しんせんらしい、たおやかさからのお変わりよう!」

「少しワイルドになられて……服の長いお袖はどこへ?」

「なんと、おいたわしい!」


 泣き出す女性の使用人までいた。


「ほら、みんな、のことを、なんか変だと思ってるよ」

「そうか? イギリスでは褐色肌とほどよい筋肉が素敵とか言われてモテモテだったがな」


「そうかな? 僕も、前のラプさんの方が良かったよ」

「ほう」


 キームンが少しだけ膨れて見上げるが、正山小種ジョンシャンシャオジョンはまったく気にしてはいないように、手を袖の中で組んだ格好で立ったまま、ケロッとしていた。


「長年ずっと同じ姿だったから、イメチェンにはちょうどいい頃合いだと思ったのだがな」


 首を傾げてそう言うと、ハッと、弟子よりも先に使用人たちが彼にペコペコし出した。


「さ、さようですね!」

「かなり印象は変わりましたから! は、ははっ……」


「そ、そうだ! 茶の支度を!」

「そうだった、そうだった!」

「ただいま、お茶と乾燥龍眼ロンガンもお持ちいたします!」


「おお、龍眼は久しぶりだな! イギリスにはなかったからな!」


 正山小種は嬉しそうな表情になったが、金色の瞳は人々を怖がらせた。


「キームン坊ちゃんには、茘枝レイシ(ライチ)をご用意してございますよ」


「わあい! ありがとう!」


 キームンを軽々と肩に乗せ、正山小種は茶室へと向かった。

 キームンの隣には、青い衣姿の少年精霊が、ふわん、ふわんと浮かんでついていき、キームンがキャッキャ喜んだ。


 煙のようなもくもくと、どうなっているのかよくわからない髪の塊にしか見えない後ろ姿に思わず見入ってから、使用人たちはパタパタと歩き、それぞれの仕事にとりかかった。


   ***


「落雷の後も平気でいたあの人が、誘拐されるだなんて、あり得ない!」


 港を目の前にした船の上で、何度も幼い頃のことを思い返してみるが、キームンにはやはり信じられないでいた。


「でも、彼ほどの煙使いが、どうして連れ去られた? 自力で脱出出来ないほどの魔窟って、いったい……? もしくは、ねえさんの言ったみたいに、……彼の意志で出てこないのか……」


 考え事をしながら、キームンは、香港の地に降り立った。



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