第九話 霊獣その1

 赤いランタンとその上に立つラプサン・スーチョンが、白い不透明な煙に包まれながら、手をかざす。

 風の精霊の力で宙に浮かんでいるキームンには、部屋が倍ほど広くなったように感じられた。


 扉の向こうから呼びかけている手下たちの姿も遠のく。


「これって……! ラプさんがこの異常な空間を作り出してるのか」


『ボクもそう感じるよ』


風怜フォンリエンもそう思うんだね」


『気を付けて、キームン。あの赤い提灯ちょうちんの中にある巨大な妖気が、どんどん膨れ上がっていくよ。ボク、こわい』


「僕の後ろにいて」


 足元に落ちた蝶を掬う。

 突如、キーンと金属音のような耳障りな高音に、風圧とともに襲われる。


「なんだ、この音は!?」


 キームンが姿勢を低くし、風怜フォンリエンも耳を塞いだ。


 戻ってきた蝶も、キームンの周りから離れようとしない。


「蝶たちが怯えてる。こんなこと初めてだ」


 手に乗せた数匹の蝶を見つめて、呟いた。


「ごめんね、こわい思いをさせたね。ひとまず戻って」


 スーッと半透明になり、動かない蝶も飛んでいる蝶も消えていった。


「うわっ! なんだ!?」

「ネズミだ!」


 音が徐々に消えていき、キームンが見上げると、手下たちの足の間を、ネズミやクモ、知らない虫たちが通り過ぎて階段を駆け上がっていく。


「これも、!?」


 いよいよラプサン・スーチョンの操る煙が、煙自身が生き物でもあるように、伸び上がり、上昇していく。


 階段の上にいるマフィアの手下たちや、さらにその上には、無計画に積み上げられて建っているアパートが密集している。


 ここを根城にしていたマフィアは逃げ出したが、この上階に住む一般の住人たちは、何も知らずに生活しているのだ。

 彼らを危険な目に合わせてしまうかも知れない。


「ラプさん、やめて。なんでこんなことするんだ!」


 下方で煙を立ち上らせている元凶を、鋭く


 ふん、と鼻で笑ってから、ラプサン・スーチョンが言った。


「お前の困っているところが見たいだけだ」


「どういう意味だよ!」


 キッと睨むキームンを面白がるように、彼は口角を上げた。


「ちなみに、俺は腹が減っている。もうずっとを食っていない。早く収穫しろと言ったのに、ここのマフィアたちは俺には近付こうとしなかった。だから、もうを抑えているのもいい加減イヤになってきた」


「なんなんだ、そのワガママな言い草は! お腹が空いたなら、僕の持ってきた上海蟹を食べればいいじゃないか!」


正山小種ジョンシャンシャオジョンさまは、きのこを主食としていた』


 はっと、キームンが風の精霊を振り返った。


「……そういえば、そうだったね。アヘン窟がきのこ窟になったのは、それでか!」


 水煙草をふかした長身の男が笑う。


「アヘンは俺には効かない。興味もないからぶっ潰した。その奥に、ちょうどいい湿気できのこがよく育ちそうな場所を見つけたから、原木を仕入れて栽培させた」


「……麻薬の原料にするためじゃなかったんだね」


「俺の食糧にする以外に、俺になんの得がある?」


 思わず、キームンが、クスッと笑った。


「それじゃマフィアは儲からないんだよ、ラプさん。でも良かった。悪に魂を売り渡したわけじゃなかったんだね」


 安堵を見せたキームンに対し、ラプサン・スーチョンは威圧的な態度を変えない。


「しょうがないから、俺が自分できのこを取りに行く。お前、ここをかわれ。この中のをなんとかしろ」


「え? なに言って……?」


 ほんの一瞬、ラプサン・スーチョンの身体が浮いた。 

 その途端、赤い巨大なランタンが暴れるように跳ねた。


「やっぱり、その中には、なにかがいるの?」


 再びランタンの上に立ち、水煙草の男は腕を組んだ。


「さあ、どうする? どう窮地を乗り切るか、見せてみろ」


 「くっ」と、キームンが顔をしかめる。


 手下と砦の住民たちを避難させる?

 こことアパートの両方に同時に広範囲の結界を張るには、強力な『陣』を描く時間と霊力を要する。


「皆、ここは危ない。今すぐ移動して。僕の蝶が案内するから。煙の結界と違って嫌な物を隠したりはしてあげられないけど、とにかく蝶について行って出口に出て待ってて!」


 手下たちの顔色が変わる。


「ボス! ボスはどうするんですかい!?」


「僕のことは大丈夫だから心配しないで」


 なんでもないことのように、そして、彼らとの戦闘で対峙したときのように、にっこりと、爽やかな笑顔で続けた。


「またあとで会おう! 必ず!」


「ボス!?」

「ボスー!!」


 悲痛な声を上げながら、手下たちが口々に叫んだ。


「俺たちはまたボスを失うのか!」

「前のボスは生きてるけどな、病院で」


「やっぱり残った方が!」

「マフィアは、ボスと一緒に覚悟を持ってるもんだぜ」

「そうだぜ! 俺たちを舐めないでもらおうか!」


 ニヤッと、彼らがマフィアらしい笑みを浮かべてみせると、キームンは途端に冷めた顔になった。


「僕、そういうの、らないから」


「なんだと!?」

「おい、ボス! あんたには、俺たちの気持ちがわからねぇのかよ!」


 「きみたちの方こそ——」と言いながら、キームンが精霊の力で、彼らの目線の位置まで浮かび上がった。


「僕が、犠牲者を出したくないって言ってるのがわからないかなー! あー、もう、話の通じる人はいないの!? じゃないと、煙で催眠術かけて、きみたちを砦の外に出すしかなくなる。そんなにあちこち面倒見切れないよ。あそこにいるが僕の知り合いだからって、頼んだら待っててくれるとは限らないんだよ? そうだよね? ラプさん」


「ああ、待てないな。空腹で死にそうだ」


 しれっと言う彼に、「いや、そんなんじゃ死なないでしょ?」と、キームンが目つきで突っ込んだ。


「とにかく、俺は腹が減って、今、最も心が狭くなっている。頭の中は、きのこのことしかない。この下にいるのことなどどうでもいいほどにな」


 腕組みをしたまま、ラプサン・スーチョンがニヤッと彼らを見回す。

 それを確認してから、手下に再び顔を向けたキームンが、目を吊り上げた。


「わかったら早く出て行って! 僕の足を引っ張りたいの!? きみたちを誰一人犠牲にすることなく全員上海に返すつもりなんだから、僕を信じて大人しく待ってて!」


 彼を見たのは初めてだった。

 『ボス』とは呼びながらもたかが若造とどこかで思っていたが、自分達を返そうと、どうやら本気で思っているらしいことが伝わってきた。


 それと同時に、手下たちは、蝶にバタバタ顔にまとわりつかれた。

 頭から青い鱗粉りんぷんを振りまかれ、蝶たちにまで追い立てられるようにして、困惑しながらも小走り去っていった。


「まったく、世話が焼ける。風怜フォンリエン、僕の煙をアパートの地面と建物の内側だけでいいから、風で運んで!」


 太いキセルで吸い込むと、煙を飛ばすように勢いよく吐き出す。

 風の精霊もシュッと、肉眼では見えない速さで階段を超えていった。煙もその後に続いて、通路のあちこちに広がっていく。


 キームンはゆっくりと降りていき、巨大ランタンの上の、ラプサン・スーチョンの横に降り立った。


 長身のキームンよりもさらに高い位置に頭がある。


 でも、ここまで追いついた……かな?


 じろっと、水煙草の吸い口を手に、腕を組んだまま、無言で見下ろす。


 どちらかというと、キームンには、彼とはこの姿になってからすぐに別れたため、それ以前の黒髪の中華人の方に馴染みがあったが、それでも保護者であったこの男には、今でも尊敬の念と親しみを持っているには違いなかった。


 ラプさん、いったいなにを考えてるんだろう。


 キームンも、横から上目遣いで彼を観察する。

 一緒にいた頃の彼は強く、やさしかった。としか、覚えていない。


 初対面でこの男の素性もなにも知らない者からすれば、無言で見下ろされるのは耐え難い圧力を感じていただろう。


 もしかして、ここのも、この視線に耐えられなくて逃げ出したりでもしたのだろうか、と考えていた。


『中庭にも運んだよ』


 少しの間があってから、精霊の声だけが聞こえる。


『もうすぐ建物の最上階にまで煙が行き渡るよ』

「ありがとう!」


 袖の中で組んでいた腕を解き、煙管を取り出した。


「さあ、ラプさん、変な空間を広げるのはここまでだよ。何して遊ぶ?」


 煙管を構え、不敵な笑みになったキームンに、ラプサン・スーチョンは「やっとか」と言ってから、ランタンの上空に浮かび上がった。


 キームンの足元のランタンが、ぐらぐらと揺れ出し、中から明るく光ったと思うと、膨らんでいった。


 ごおおお……! と中から音が聞こえると、破裂した。

 赤い生地が均一ではない大きさに破れて、花びらのように舞った。


 その直前に、両脇にあった通常サイズのランタンを掴んだキームンは、そのまま浮かび続けられた。


「!?」


 破裂した中から現れたのは、明らかにランタンには収まるはずのない、さらに巨大な霊獣だった。


「牛!? いや、窮奇きゅうきか!?」


 人を喰らうと言い伝えられてきた霊獣に、似ているように彼には思えた。


 黒々とした前方に突き出された角、キームンはその角ほどしかない。黒い牛の姿に似たそれは、ハリネズミを思わせる針のような毛に覆われ、背から生えた黒い翼を羽ばたかせ、浮かんでいる。


 赤く吊り上がった目には燃えるような狂気が映し出され、牙を生やした口からはよだれをまき散らし、明らかに正気ではない。


「これを、ラプさんは煙の結界を張って、抑えていたのか!?」


 キームンの頭上を軽く超えたラプサン・スーチョンは、先ほどまで手下たちがいた階段に舞い降りた。


「さあ、そいつをどうする? 悪さをする妖獣かまたは神聖なる神獣か、それとも他のものなのか。見極めて、適切に処理してみろ。俺は、きのこを食いに行ってくる」


 ひょいっと軽やかに駆け上がる。

 煙のような髪をふわふわと浮かせながら階段を越えていった彼の後ろ姿に、しばらく見入っていたキームンは、唖然とした。


「なんだよ、それー!」

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