第9話 お前が死んだ時に、人々の哀しみの涙で湖が満ちるくらいの、慕われる人となれ。

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お前が死んだ時に、人々の哀しみの涙で湖が満ちるくらいの、慕われる人となれ。 (クロライナ王国の牛飼いの老人の遺言)



 カラブランの去就問題の話題が一段落すると、ビドロが話の主導権を取った。湖に関する伝説や言い伝えを知らないかどうか、まずは尋ねた。湖の底に主がいる、という話があることは、カラブランも知っていた。だが、ビドロが知っている以上の詳細な知識や新しい情報は持っていないことが判った。孔雀湖の誕生やクロライナの発祥についても聞いてみたが、北西方向に父祖の地ウクライナがあるという、根拠の乏しい言い伝えを知っているのと、ウクライナから旅をしてきたクロライナ民の祖先たちが、砂漠の中で瓢箪の水を大地に注ぐと、そこから瓢箪型の湖ができて、それが孔雀湖になったという。そこまでは、ビドロも既に数人のクロライナ民から聞いたことのある内容なので、それなりには人口に膾炙した話なのだろう。


「ただ、今の水位が下がった孔雀湖は、もう瓢箪の形ではないらしいぞ。今は南半分の内、中央以外の左右が干上がり、北側は干上がりが少なめだ」


 現在の孔雀湖の具体的な形については、ビドロは聞いたことが無かった。知り合いの漁師も、魚を獲ることができる漁場までは行くが、それ以外の湖の隅々まで調査しているのではなかった。


 孔雀湖に注ぎ込んでいるのは、南南西に河口がある孔雀河だけであった。その西側の小さな森林地帯に寄り添うようにできたのが都市国家クロライナだ。孔雀河は細く流れも穏やかな河で、土砂の運搬量は多くはない。それでも粒の小さな砂を中心に長年にわたって土砂を湖に注ぎ入れてきた。よって湖の南側は砂の堆積により遠浅になっていて、北側に較べると水深が浅くなっている。なので、湖の水位が下がった時にクロライナの街に近い所が最初に干上がってしまうのだ。今の孔雀湖は、元の湖だった場所が河の延長になっている。そして、河が湖に入り込む場所を起点として、東側が膨らんだ弧になっていて西側が凹んでいる三日月のような形となっている。三日月といっても、南は細く、北側が太めの歪な形だという。


「瓢箪型ではなくなった、ということは、瓢箪の水を大地に注いだら湖になったという言い伝えは、あまり信憑性が無くなったかな」


 自分の考えを纏めるためにも、ビドロは疑問を口にした。


「だけどビドロ君、こうも考えられないかな。何らかの理由で、例えば人々が傲慢になって湖の恵みへの感謝の気持ちや、人々がみんなで協力して生きて行くという謙虚な姿勢を忘れてしまったので、神なり湖の主なりが怒り、その祟りによって湖の水が減って、その象徴として瓢箪の形を失った、とか」


 カラブランの言葉を聞いて、ビドロは小さく笑い飛ばそうとした。だが、唇を小さく歪めただけで、再び口元を引き締めた。


 クロライナの繁栄は、孔雀湖の恵みがあってこそだ。湖から直接恵まれている水産資源も、湖の水によって渇いた大地を潤して小さい面積ながらも育てている小麦などの畑も、湖が無くなれば意地できなくなってしまうのは分かり切っている。湖への感謝の気持ちを忘れた者など、クロライナには一人も居ないだろう。


 だが、人々が互いに尊重し協力し合う、というのはどうだろう。人間が複数集まれば必ず党派性が発生する。伝説の地ウクライナを離れて砂漠を旅した先祖たちの一団は、人数がどれほどだったのかは不明だが、今の定住しているクロライナ民よりは少数だったのは確実だし、非常時ということで一致団結していたはずだ。また、体力の弱い年配者などは長旅の途中で自ずと力尽きて、ここまで辿り着けた者自体が少数だったはずだ。


 それでも、湖と細い河と小さな森に抱かれたクロライナに定住し、人口が増えると、非常事態の時の一致団結は砂の城のように容易に崩れる。湖水を利用して畑を作るといっても、無限の広さで砂漠を緑化できるわけでもないし、無限の人数の口に糊することができるでもない。年をとって体力の衰えた者や、大怪我をして働くのが困難になった者は、誰かに言われる前に自分の意志で街を去って口減らしをする。そんな人間の業の深さに、神なり湖の主なりが怒って罰として湖の水を減らした。


「それはどうなんでしょう。元々湖からわたくしたちクロライナ民に与えられた恵みに限界があるからこその口減らしに怒るくらいなら、もっと恵みを与えてくださればいいし、それに、罰として湖水が減れば、今まで以上に維持できる人口が少なくなるだけですよね」


「その答えについては、神なり湖の主なりに聞いてくれ、としか言いようが無いですね」


 ビドロの言葉に、カラブランも同意して頷いた。


 となると結局のところ、湖水を司っている超常の存在、神あるいは湖の主に頼るしか無い。だからこその生贄だ。そうでなければ、ビドロの知り合いの漁師あたりが湖の主と会話をして交渉を行い、湖水を減らさず、もっと言えば元の水位まで戻してくれるよう頼む以外に道は無い。


「賢者ならばもっと掘り下げた情報を知っていたかもしれないのに」


 ビドロは、もう一つの懸念事項だったことをカラブランに尋ねた。三年ほど前にかつては若き賢者と言われていた人物が、加齢により体力が衰え、クロライナを出て北西に向かった。死ぬ前にせめて少しでも約束の地ウクライナに近づいてみたいと思ってのことだろう。カラブランが十年ほど前からここに住んでいるのならば、賢者の老人がこの近辺を過ぎって会わなかっただろうか。


 だが、カラブランは小さく否定しただけだった。


 巨大な三角形の岩石が立ち並ぶ白龍堆砂漠と雖も、歩ける道筋は一つに限られるものではない。カラブランが居を構えるこの場所の近辺を通過せず、離れた場所を通って北西へ向かった場合、カラブランと遭遇することは無い。


「ここよりも東寄り、は無いにせよ、ここより大きく西に外れた所を通って行けば、お互いに相手の存在に気付くことなくすれ違いになる。飛雁姫たちがここを通って我々がお互いに出会えたのは偶然と言えば偶然が生み出した可能性だったが、言うなれば天と地の思し召しによる導きだったのでしょう」


「わたくしも、カラブランと再会できたのは、単なる偶然ではなく、必然だったというか天神地祇の定めであったのだという気がします。大きな収穫があったので、これで心置きなく戻れます」


 飛雁姫の声は楽しげに弾んでいた。どこか影のあるカラブランの疲れた大人らしい表情に対し光り輝くような笑みを向ける。湖の由来に関する話題、そして三年ほど前に失踪した賢者に関する手がかりの話題が広がらずに、渇いた砂漠の大地に零した水が吸い込まれて行くように、萎んで消えて行くと、逆に水を吸って生気を取り戻したタマリスクのように活き活きとして口数が多くなってきたのが飛雁姫であった。


 飛雁姫はカラブランに向かって、幼かった頃の思い出を楽しげに幾つも語った。カラブランは原則的に姫の話の聞き役に徹して、ごくたまに短い合いの手を入れたり、幼かった姫が忘れていることを補ったりするくらいだった。カラブランは幼い姫の護衛であったからには、当時はずっと一緒に居て同じ時間を過ごし、砂漠を渡ってきた同じ風を肌に熱く感じていたのだ。


 姫は幼い頃から、クロライナの民の生活振りを視察していた。人口1000人を少し越えるくらいの王国であり、王家と民の間は極めて近い。王家の者としては民の実情を知悉していることは必須だった。


 ある時は車輪を作る職人の試行錯誤を見学した。湖畔の森から切り出した太い木を輪切りにした車輪は、頑丈ではあるけれども、重いために馬で牽くのは難しく、どうしても牛でなければならない。円盤状の車輪のところどころに穴をあけて軽くしてみても、強度は保たれているのかどうか。それを職人は考えていた。木材は貴重なので、軽率に実験をして失敗しましたというわけにはいかないので考慮が慎重だった。そこから出た余り物の木片は別の職人に渡され、櫛に加工されていた。


 別の時には山羊の解体を見た。尿を貯める膀胱は、よく洗った上で水袋として利用された。角は、女性用の耳飾りとして螺旋模様で加工されていた。


 あるところでは羊に餌をやろうとして手に草を持って近づいたところ、四頭ほどの羊に群がられて手を散々舐められてびっくりしてしまった。カラブランもまた「そんなこともありましたね」と穏やかに微笑していた。


 また別の時には、羊毛を編む女たちの仕事を姫がやってみたこともある。あの牛の暴走事件が起きるまで、どんな時も傍らには護衛のカラブランが寄り添っていて、小さな妹を見守る優しい兄の眼差しで姫を柔らかく包み込んでいた。


 積もる話が一段落したあたりで、食事の時には焼いた魚、羊の干し肉、麦を発酵させた酒を出してくれた。姫は酒は飲まなかったが、ビドロは少しだけ飲んだ。カラブランは、姫との再会を祝すと言って、豪快に飲んで顔を赤らめていた。


 日が落ちて完全に暗くなると、気温も下がった。洞穴の中なので月の明かりも届かず真っ暗になる。明かりのために油を使うような贅沢な暮らしができるのは辛うじて王家だけである。カラブランは羊毛の毛布を姫とビドロに提供してくれた。狭い洞穴の限られた面積の中、三人は身を寄せ合うようにして寝た。酒を飲んでいたカラブランが、横になったと同時に豪快な鼾を立て始めた。姫も、すぐに穏やかな規則正しい寝息を立てる。やはり疲れが蓄積しているのだろう。ビドロは、考え事をしていたために横になっていてもずっと目が冴えていた。闇に眼が慣れてくると、洞穴の天井からは動物の牙のような三角錐の突起が幾つも垂れ下がっているのが朧気に見えた。


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