第8話 右手でできることは、大抵は左手でもできる場合が多い。

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右手でできることは、大抵は左手でもできる場合が多い。 (クロライナ王国の牛飼いの老人の遺言)



 ビドロと姫の二人は、鳥が落ちたと思われる方向へ足を向けた。疲れてはいたけど、もう少しで生きた人間に会えると思うと、出涸らしの力が湧いてきた。


「何者だ」


 三角鱗岩の陰から誰何の声が聞こえて、ビドロと姫は立ち止まった。その低い声は、砂漠の乾いた風に晒された故か随分と掠れた男の濁声だった。砂漠の中で他人と遭遇する機会は滅多に無いことなので、当然のこととしてビドロたちを警戒している様子だった。


「驚かせてすみません。俺はクロライナの街で牛飼いをしているビドロと申します。この辺に、クロライナやその辺の言い伝えや伝説に詳しい賢者が隠棲していると窺って、お知恵をお借りしたく、尋ねて参りました」


 岩の陰に居る姿の見えぬ誰かに向かって、ビドロは己の素性を正直に名乗った。嘘をついたり隠したりするような性質のものではない。ただし姫に対しては口を開かぬよう、身振りで制した。


「賢者なんてここには居ない。オレは、かなり昔にクロライナを追放された者だ。今更、クロライナの民と会って話す用事など無い。さっさと帰ってくれ」


 岩の向こう側から届く相手の口調は素っ気なかった。喉が荒れているが故の濁声ではあるが、老人の声という感じではなかった。クロライナを去った者にしては随分と若そうな者のようである。


「その声、もしかして、カラブラン兄様ではありませんか」


 不意に姫が言葉を発した。ビドロが制止する間も無かった。


「十年ほど前に、わたくしの母であるクロライナ王妃が暴れ牛の角で怪我をした時に、護衛をしていて手を怪我したカラブラン兄様ですよね」


「ま、まさか、あの時の姫ですか」


 岩陰からの驚きの声と共に、背が高い黒髪黒瞳に黒髭の壮年男性が姿を現した。左手には小型の弓と、紐が絡まった状態で生け捕りにされた水鳥を抱えていた。


 ビドロはそっと、姫がカラブラン兄様と呼んでいた長身の男の右手を確認した。親指と人差し指だけがある。他の三本の指は存在しなかった。男の顔も確認する。ビドロの記憶が曖昧なせいか、あるいは時を経て顔立ちが変わったのか、もしくは黒い髭の長さが判断を惑わせるのか、ビドロの見覚えのある顔ではなかった。


 姫が言った通り、十年ほど前に牛が暴れて王妃と護衛兵が怪我をする事件があった。その時に護衛兵は右手を牛の角に貫かれていた。まだ幼かったビドロもまた、間近で事件を目撃していた当事者の一人だったのだ。


「姫、お疲れの様子ですね。こんな所で立ち話をしていてもしょうがないですから、オレの住処へ来てください。お伴の人も一緒に」


 十年前の事件で怪我をして、それが原因でクロライナを去ったはずの黒髪の護衛が、砂漠の直中であるこの場所で生きていた。塒には食糧の蓄えくらいはあるのだろうから、交渉して幾らか譲ってもらおう。そう思いつつ、ビドロはカラブランについて行くことにした。姫はというと、幼い頃に兄として慕っていた者との再会に心を躍らせていて、一時的に疲れをも忘れているような様子だった。


 カラブランの棲み家は、周囲のものよりも一際大きい三角鱗岩の半ばにある小さな洞穴だった。直射日光の当たらないひんやりした石灰岩の上に座ったビドロと姫の二人は、カラブランが保存していた干し魚と固いチーズを食べて空腹を幾分か癒した。先ほどカラブランが生け捕りにした鳥の首を刎ねて血抜きで出てきた生き血を、二人は飲ませてもらった。砂漠で節約しながら少しずつ飲む水と同等以上に、旅に疲れた二人の喉を潤してくれた。


 姫は生き血を飲んだ後、血の付着した唇を拭った。姫の唇の色は、タマリスクの花の色のように鮮やかな淡紅色を取り戻していた。今すぐ生命の危機に陥る心配から免れて、ビドロはほっと一安心しかかった。だがここは、砂漠で単独で暮らすはぐれ者の隠れ家ということで、気を引き締め直した。


 カラブランという黒髪黒瞳黒髭の男は、十年前には姫の護衛兵だったという。旧知の仲ということで、姫とカラブランはすっかり打ち解けているようだ。姫の同行者であるビドロに対しても、ウクライナの姫と同等にカラブランは親切に接してくれている。


 一通りの飲食が済んだところで、カラブランは自分の右手を姫とビドロに見せてくれた。親指と人差し指はあるが、それ以外の三本の指は掌の半ばくらいから食い千切られたような感じで無くなっている。カラブランの語るところによれば、暴れ牛の角に右掌を貫かれてしまったが、親指と人差し指の二本は無事で、他の三本は骨から砕けてしまった。そのまま傷を放置していては、傷口が悪化して病気になるだけだ。事実、この事件時に腹部を怪我した王妃は傷の悪化が原因で後日亡くなっている。


 護衛の役目を果たせなくなり、クロライナの街を去ったカラブランは、意を決して、もう使い物にならない己の右手の指三本を、自らの歯で噛み千切った。傷口は火で焼いて止血するという乱暴な治療であったが、元々は体力に優れているが故に護衛兵の任を奉じていたカラブランであるから、その強靱な体力によってその後の傷口の悪化による高熱と体力の消耗に耐え切った。


 姫は涙を流しながらカラブランの話を聞いていた。幼い頃の姫は、年は離れているものの、護衛のカラブランのことを兄のように慕っていた。不幸な暴れ牛事故の後、重い怪我を負って、右手の指を三本失いながらも過酷な環境の白龍堆砂漠の中でたった一人で生きてきたカラブラン。もう二度とカラブランと会えないと思っていたため、姫にとってこの出逢いは望外の喜びであった。


「カラブラン兄様は、あの事故のことに負い目を感じておられるかもしれませんが、わたくしはカラブラン兄様を怨んだりはしていません。ましてや責任を追及しようだなどとは思っていません。あれはあくまでも不幸な事故。ですので、ぜひともクロライナに戻っていただきたいです。一緒に帰りましょう」


 姫の発言は、そろそろクロライナに帰りたいビドロにとっては丁度都合が良かった。賢者捜しにこだわってクロライナに戻ろうとしない姫をどのように説得しようか困っていたところ、姫の方が自ら方向性を変えてくれたのだ。だが、肝心のカラブランが姫の提案を拒否した。


 自分は右手の三本の指を失う大怪我をした。それにより、護衛の仕事を続けられなくなった。勿論、自分の怪我が無かったとしても、護衛対象である王妃様を守り切れず、大怪我を負わせてしまった上に最終的に亡くなってしまった。いずれにせよ責任を追及されれば護衛の仕事から降りることとなるのは不可避なことだった。


 しかしクロライナを出ることを決意した理由は、それ以上に、怪我による今後の不安によるものだった。怪我をしたばかりの頃は、その怪我を乗り越えて生き残ることができるかどうか不透明だった。確率的に言えば五分五分よりも分の悪い賭けとなることが目に見えていた。もうすぐ死ぬことがほぼ確定な大怪我をした人間の看病をして食糧を与えて世話をできるほど、クロライナは余力に恵まれていない。


 同じ怪我人であっても、王妃ならば最期まで手を尽くして看護する。だが王妃を守り切れなかった護衛兵に対して、そこまで手篤く面倒を見る価値があるのか。仮にその時の死の危機を乗り切ったところで、利き手である右手に大きな不自由を抱えたカラブランに、今後を生きていく方法が無いと思われた。


 そういった周囲の同意形成とそれによる同調圧力に精神的に耐えられなくなって、カラブランは自らの存在そのものをクロライナから抹消することを選択した。


 今更姫と再会したからといって戻って来てほしいと言われても、もう遅い。


 その後も姫は、カラブランを説得しようと試みたが、カラブランの決意を覆せるほどの材料を新しく出すことができず、同じ言葉の繰り返しでの説得が続いたので、お互いに砂掛け論に終始してしまった。最終的には姫の落胆とともに隠者カラブランのクロライナ帰還を諦めるという道しか進む先が無かった。


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