第7話 林檎は、林檎の木から遠くには落ちない。
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林檎は、林檎の木から遠くには落ちない。 (クロライナ王国の牛飼いの老人の遺言)
ビドロの言葉を了承した姫は、暗闇の中で静かに手早く身支度を調えて、ビドロの手を借りながら窓から這い出た。ビドロは左右を見回して周囲の様子を探る。闇が深い。幸い屋敷の警備員も街の自警団員も今のこの時間は近辺には居ないようだ。
「あなたの師の賢者は北西へ向かったのですよね。わたくしたちも北西へ行きましょう」
街を出るまでは、二人は闇に紛れて建物の陰に身を隠しながら慎重に進んだが、胡楊樹が途切れて完全に砂漠地帯に至ると、少し緊張感から解放された。
クロライナの圏内から一歩外に踏み出せば、白っぽい岩石地帯が無限に続く白龍堆砂漠だ。今は真夜中なので水が凍るくらいに気温が下がっていて、二人の吐く息も白い靄となっているが、昼になれば当然太陽が強烈に照りつけて、気温が烈しく上昇する。
頭上は星々が輝く夜空だが、その下の方は獣の牙で食い破られたようにギザギザに切り取られたような形になっている。白龍堆砂漠の特色である三角鱗岩のせいだ。
砂漠といっても、白龍堆砂漠は、白っぽい岩石地帯が延々と続く岩石砂漠だ。それも、平坦な岩場ではない。
人間の身長の十倍前後くらいの高さの、三角形の岩の突起が幾つも幾つも並んでいるのだ。恐らく、長年の風による風化作用によって岩石が削られてこのような造形になったのだろう。これがあたかも巨大な白龍の鱗であるかのようにも見えるため、白龍堆砂漠と名付けられているのだ。
だから白龍堆砂漠を旅する時は、三角形の岩と岩の間を縫うようにして進まなければならない。ある程度遠くまで眺めるために視界を確保しようと思ったら、三角鱗岩の上によじ登って行く先の目処をつけるしかない。今は頼りない朧気な月明かりだけしか無い夜中なので、遠くを眺めようとするなら朝日が昇るのを待ってからとなる。
「姫、寒くはありませんか」
姫は羊毛織りの動き易そうな服の上から、躰に巻き付けるようにして厚手の羊毛の外套 (マント) を纏っていた。頭には、耳まで覆う羊毛の帽子を被っている。姫のいでたちの特徴ともいうべき二本の雁の羽根は、今は髪に直接挿しているのではなく、羊毛の帽子に挿してある。
「わたくしたちも、亡くなった人たちのように、雁の翼を生やして、約束の故地ウクライナまでひとっ飛びに飛翔して行けたならいいのに」
姫は星空の配置から北西の方角に目処をつけ、そちらに青い瞳を向けた。夜なので真っ黒にしか見えない三角鱗岩の連なりが、突兀として下顎から伸びている牙の並びのようでもあった。
「ウクライナか。……我々の祖先は、この白龍堆砂漠を歩き通して、今のクロライナに辿り着いたんですよね」
ビドロの言葉は声の小さな呟きで、姫に語りかけるというよりは自分一人の心に刻み直すための独り言だった。
「え、違いますよね。わたくしたちの祖先は船に乗って、かつては今よりももっと大きかった孔雀湖を渡って、緑のあるこの地に辿り着いて定住し、クロライナとなったのですよね」
ビドロは暗闇の中で碧眼を白黒させた。クロライナの一般国民と王家の姫との間では、約束の地ウクライナに関する伝承も違っているのか。驚きの中でもビドロは冷静に二つの説を比較検討した。ウクライナは伝説の中でのみ伝えられる故地だ。そこに到達した現代クロライナ民は存在しない。
クロライナは広大な砂漠の中で孤立した立地の小国である。ならば必ず生じる疑問がある。即ち、クロライナの民は一体どこから来たのか。その答えとして、伝説として語られているのが、遥か北西の遼遠にあるウクライナだった。
クロライナは白龍堆砂漠の中に独り佇む国であり、周囲はその名の通り白っぽい岩石砂漠地帯であるが、ウクライナは対照的に青々とした小麦が稔る肥沃な黒土地帯であると言われている。
ウクライナは、クロライナより遥か北西の地にあると言われているが、本当にあるのかどうかは、生きている者は誰も知らない。ただ、死んだクロライナ民の魂は、いにしえの故地であるウクライナへ帰還するとされている。だから死者には羊毛の帽子を被らせ、そこに翼に見立てた二本の雁の羽根を挿す。渡り鳥の雁は、秋には北から孔雀湖へ飛来し、春になると北へと帰って行く。雁の故郷は実はウクライナなのである、とも考えられている。
地上にどんな障害物があろうとも、翼を持つ雁ならば無関係とばかりに跳び越えて行けるだろうし、遥かなウクライナに到達することもできるのかもしれないが、地上を歩く人間には容易なことではない。
昼は暑く夜は極寒の白龍堆砂漠は、ただ歩くだけでも著しく体力を削られる上に、三角鱗岩が幾つも連なっていることで、真っ直ぐに目的の方角に進むことが困難だ。
ましてや、年老いて体力の衰えた老賢者がウクライナを目指したところで、数日程度で力尽きて倒れるのが目に見えている。だからもう、三年前にクロライナを出奔した賢者が今も生きているということは無いはずだ。ビドロはそう考えているが、姫は賢者が今も砂漠のどこかで生きていると信じているらしい。信じていないビドロも、捜索に付き合わなければならない。
朝日が昇る頃には、二人はかなりの距離を歩いていた。姫の不在を知って王の屋敷から追手が差し向けられる可能性はあるが、簡単に捕まる心配は無いだろう。三角鱗岩により視界が妨げられるため、どちらの方向に追手を差し向ければ良いか判断がつき難いのだ。
だが、三角鱗岩は逃亡者にとって不利益もある。目指したい方角に真っ直ぐに進むことができず、歩いた距離に比して北西方角への進捗は大した稼げていないのだ。
王の屋敷に居た頃も、クロライナ民の生活の様子を視察するために出歩く機会は多かった姫ではあるが、長時間歩き通しというのは初めての経験だった。姫は目に見えて歩き疲れていて、一歩一歩の歩幅が明確に小さくなり、肩で息をしていた。ビドロは休憩を提案したが、姫は意地を張って歩き続けることを選んだ。しばらく後、ビドロは自分が疲れたので休ませてほしいと姫に懇願し、姫が渋々それに了承する形で、二人はようやく歩みを止めて、三角鱗岩の作る日陰に腰を下ろした。日が昇ってから時間が経つにつれて寒かった気温は一気に反転し、歩行によって躰が火照っていることも合わせて二人は汗ばみ始めている。早くも喉が渇いたものの、それほど多くの水を持ってきているわけではないので、ビドロは山羊の膀胱を加工して作った携帯用の水袋を出さなかった。
座って休んで多少なりとも息が落ち着いてきた頃、姫は地面に落ちている丸い土の塊に興味を抱いた。
「あれは団子草といいます」
ビドロは説明した。団子草と呼んでいる人が多いが、そういう名前の固有の草ではなく、麻黄、駱駝草、馬蘭、苦豆子草などが団子状の土に生えているものを総称として団子草と呼んでいるのだ。しかし団子草の生成過程はむしろ逆だ。白龍堆砂漠の岩盤地帯のひび割れなどのほんの隙間に柔らかい土が入り込んでその部分に根を下ろして草が生えていたものの、強風によって文字通り根刮ぎ吹き飛ばされて、転がっているうちに団子状の丸い土に膨らんで成長して、こういう珍現象になっているのだ。砂漠という過酷な環境ならではの風物詩ということになる。
休憩を切り上げる時には、姫は纏っていた外套は脱いだ。長袖の上衣と長ズボンなので手足の素肌が直射日光に灼かれることはないが、日が高くなったことによる気温上昇は、羊毛の服に包まれた肢体から容赦無く水分を奪って疲労を与える。
三角鱗岩の作る日陰から次の日陰へ移動するような格好の旅で、気温が最も高くなる真昼前後には移動を控えて日陰で仮眠をとった。日が暮れて気温が下がり行く時間帯に距離を稼いだ。慣れている旅人ならば昼間に寝て夜に進行しても良いのだが、昨日まで街で昼間に起きていて夜に寝ているという生活をしていたビドロと姫にとっては、いきなりの昼夜逆転は負担が大きいので、夜が深くなる前に寝ることにする。
翌朝、日が昇る前に起きて干し肉と干し棗で手早く食事を済ませて出発し、距離を稼ぐ。無論、ただ進んでいるのではなく、どこかに賢者が身を隠していないか、水、食料となるものは無いか捜しながらの行程ではあるが、成果らしい成果の無いままに、距離だけはある程度進めることができた。途中、人間の白骨と思われるものが転がっている箇所が複数あった。
白骨が何者のなれの果てであるのか、考えるまでもなかった。年老いて働けなくなった老人が、クロライナの口減らしのために自らの判断で自らを追放したのだ。一縷の望みをかけて北西のウクライナを目指した者が複数人いたということなのだろう。ただし体力の衰えた老人の足ではここまで到達するのが限界で、独り寂しく亡くなっていったのだということは想像に難くない。屍はこの不毛な砂漠で逞しく生きる動物たちにとっては良い糧となったことだろう。
更に歩いたところで、もう一体の白骨を発見した時点で、ビドロは姫に引き返すことを提案した。賢者が生きている見込みは低い。ビドロの本音としては、白龍堆砂漠の中に隠れ潜むにしても、クロライナの街から近い位置が理想だ。顔を隠すなどしてクロライナに潜入して情勢の変化を調べたい。姫が戻っても罰せられたり改めて生贄に指名されたりするような雰囲気でないならば戻ればいいし、まだ無理だと判断するならば、ほとぼりが冷めるまで待てばいい。
だが姫はビドロの意見に反発した。賢者を捜す、という約束で屋敷からの脱出に同意したのだ。賢者捜索を早々に諦めるならば本末転倒だ。
ビドロは単なる牛飼いで、姫はクロライナの貴き王女である。身分差があるのでビドロとしては姫の意見を尊重しないわけにはいかない。仕方ないので遅れがちな姫の歩調に合わせながらも更に北西に向かって進む。
ビドロ自身も体力を消耗している。持ってきている保存用の食料も水も多くはないので、早く引き返す判断をするか、さもなくば補給の目処を立てなければならない。
重い息を吐きながらビドロは空を見上げた。遥か高い空を三羽ほど鳥が飛んでいる。おそらく湖を中心として移動範囲のある水鳥なのだろう。この辺まで飛んで来ているということは、どこかに甘草かライライ草でも生えている場所があるのかもしれない。
すっかり無口になって黙々と歩くだけの姫も、ビドロの首の動きにつられて空を見た。
その時、ビドロたちの上空から北西の法へ飛び去ろうとしていた鳥たちの内の一羽が、急に体勢を崩して急降下していった。墜落といっていいだろう。
今のは、何者かが矢に紐を付けた射包みか何かを使って飛んでいる鳥を捕獲したのだろう。鳥が落ちた付近に誰か人が居るのだ。
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