第6話 水は高い所から低い所へ流れる。逆は無い。

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水は高い所から低い所へ流れる。逆は無い。 (クロライナ王国の牛飼いの老人の遺言)



「何者ですか」


 窓の板の向こうからすぐに姫の声が聞こえた。さすがに姫も眠れずに起きていたのかもしれない。


「先日謁見したビドロです。飛雁姫、あなたを助けに来ました。窓の板を外してもらえませんか」


「助けるとは、どういうことですか。こんな夜中に出歩いていたら警備の者に捕まってしまいますよ」


 姫は窓の板を外してはくれなかった。だが、板越しにではあるが、会話の余地はあるようだ。


「姫は明日、生贄にされてしまいます。ですがそれは元々満月の夜の予定だったはず。そんな簡単に前倒しになるような決定は理不尽で納得できませんし、そんないい加減な生贄が効果があるとは思えません。ただの犬死にです。姫が亡くなっても、恐らく湖の水位は戻りません」


 思わず気持ちが高ぶって声が大きくなりそうだったが、そこは気持ちを抑えて、板の向こうの姫には聞こえるけど、警備の兵には聞こえないような大きさに声量を調整して言い募った。


「わたくしとて、犬死にはしたくありません。しかし、ならば他に湖の水位を戻す方法があるというのですか」


 ビドロは答えを持っていない。昨日今日調査を始めたばかりで、あるかどうか分からない正解にすぐに到達できるはずもない。だが、今、ここで姫に対して提示するのは湖の水を回復させる正解手段ではない。嘘であっても方便であってもいい、何でもいいから姫をここから連れ出して明日の生贄を阻止することだ。まずは時間を稼いで、その間に孔雀湖の水位問題に取り組めば良い。


 湖の底には、湖の主とされる巨大な鯉がいて、その鯉が湖の水を飲み込んでいるから水位が下がっているのだ。そして自分の友人に漁師がいる。その漁師は魚と話をする特殊な能力を持っている。湖の主である巨大鯉と交渉をして、飲み込んだ水を返してもらうようにする。このまま水を飲み込み続ければ湖が完全に干上がってしまい、そうなると鯉も生きて行けなくなるだろう、という線で説得すれば相手の巨大鯉も了承してくれるはずだ。


 咄嗟の思いつきにしては、良くできた話だった。熱意を込めたビドロの説得だが、姫の心を完全に動かすには足りないようだった。


「話の内容は分かりました。あなたの仰ることが本当かどうかは分かりませんが、試してみる価値はあると思います。ですが、あなたは何故、わたくしを生贄にすることを阻止しようと奔走しているのでしょうか。そんなことをしても、あなたにとってはそれこそ徒労で、何の得にもならないのではありませんか」


 それを問われてしまうと、ビドロとしては、個人的な姫に対する感情を話さずには先に進めない。


 実は、十年ほど前に、ビドロは姫と会ったことがある。当時の幼かった頃のビドロは、まだ牛飼いとしての見習い中だった。年老いた牛飼いの男が、ビドロに牛飼いとしてのあれこれを丁寧に教えてくれていた。そこへ、姫と護衛の兵士一人を連れた王妃が視察に来た。人口一〇〇〇人程度の国なので、王家と民との距離は近く、珍しいことではなかった。


 幼かった姫が雄牛に不用意に触り、それに驚いた牛が暴走してしまった。牛は王妃に向かって角を向けて突進した。護衛の兵士が慌てて王妃を庇おうとするが、間に合わなかった。牛の二本の角は、片方は護衛兵士の右手を貫き、もう片方は王妃の腹部に突き刺さってしまう、という大事件となってしまった。


 クロライナ民としては珍しい黒髪と黒い瞳の護衛兵士は、王妃を守り切ることができなかったことに責任を感じてなのか、事件後にクロライナから姿を消していた。怪我をした王妃は、傷が化膿して高熱を発し、寝込んでしまった。当然医師が手を尽くして麻黄の解熱剤を処方したものの、結局王妃は程無く亡くなってしまった。後味の悪い事件ではあったが、ビドロの師ということになる年老いた牛飼いの男は占いの結果無罪となった。ただし王妃を傷つけた牛は殺処分となってしまった。牛を暴走させてしまった直接の原因である幼い姫は、当然ながら何の処罰も受けなかった。


 処罰を受けなかったからといっても、姫が心に受けた傷は大きかった。自分が牛を驚かせてしまったせいで母である王妃は亡くなり、兄的な存在として慕っていた護衛の兵士が大怪我を負って街から消えてしまった。事件の衝撃があまりにも大きかったので、姫は、この時の年老いた牛飼いと弟子の少年のことはほとんど覚えていなかった。


 しかしビドロ少年にとっては、王妃も姫も忘れられない存在だ。牛が暴れたせいで王妃が亡くなり、護衛兵も大怪我をして、姫を悲しませてしまった。正規に牛飼いになってからもずっと、ビドロの心の負い目となっていた。


「あの時の姫への借りを返す時なのです」


 ビドロが姫を救いたいという気持ちに嘘が無いことは、姫に伝わったのだろう。姫は内側から窓の木板を外してくれた。


「あなたが、あの時の牛飼いの弟子だったとは気づきませんでした。ところで、あなたの師である牛飼いの方は、まだご健勝でしょうか。あなたが今お話ししたことを無条件に全部信じるわけではありません。ただ、あの牛飼いの方は若い頃には湖畔の賢者と呼ばれていたらしいので、その方のお話を聞いてみたいのですが」


 自分に牛飼いとしての生き方を一から教えてくれた老人が、かつて賢者と呼ばれていたということを、ビドロは初めて知った。本人が若い頃にそう呼ばれていたことなど、一度も話したことは無かった。ビドロが昔話や伝承に興味を持って蒐集するようになってからも、師は一度もそういった知識を持っていることを仄めかしすらしなかった。


 師が、実は賢者だった。そうと知ったからには、ビドロの方こそ、師から昔話や伝承を聞いてみたかった。しかし、隠し通せる事実でもないので、正直に事情を姫に告げるしかなかった。


 師は、三年ほど前に年齢ゆえに働けなくなり、自らクロライナを出て白龍堆砂漠を北西へ向かって旅立って行った。


 クロライナという小さな都市国家は、白龍堆砂漠のただ中にぽつんと在る。孔雀湖の水が生命線だ。孔雀湖と孔雀河の周辺に茂る小さな森から得られる恵みと、孔雀湖の水を使って営むことができる小さな畑と、湖から得られる水産資源がクロライナの人々を養っている。限られた人口しか維持できないということだ。


 窓の板が外されたとはいえ、暗闇の中なの出、そこに佇む姫の表情はビドロの目からは全く窺えなかった。逆に姫から見たビドロも、暗闇の中で顔の表情は不明だ。お互いに潜めた声だけが聞こえる。


 姫は、魚と話すことができるという漁師に会いたいと望んだ。勿論ビドロは断った。漁師の能力と今後の行動について語ったことは、大部分がビドロの咄嗟の作り話でしかない。姫と漁師が直接会って話をすると、諸々の不都合な部分が姫に知られてしまう。


 漁師は「魚の声を聞くことができる」とは言っていたが「魚と会話ができる」とまでは言っていない。また「湖に棲む主が湖水を飲んでいるので水位低下が起きた」というのは、言うまでもなくビドロの捏造した創作だ。


 いつ次の巡回が来るかビドロが背後を気にしていると、姫は新たな要望を言い出した。漁師に会うことができないのならば、賢者に会ってみたい。ビドロは、「さすがにもう生きていないと思います」という言葉を口から出す前に、思い留まった。


 現実としてはクロライナの街で働けなくなるほど老いた者が、白龍堆砂漠で長期間生きて行けるとは思えない。長くてもせいぜい、針のように細い三日月が満月になるくらいまでの期間だろう。だがその現実に即した見解を言う必要は無い。「賢者に会うため」という理由でなら屋敷を出てくれるのであれば、ビドロの目論見を果たせることになる。


「分かりました。一緒に白龍堆砂漠に行って賢者を捜してみましょう。自分も、できることならもう一度師匠に会って話をしてみたいですし」


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