第5話 自分に対して優しい人は、自分だけに優しいわけではない。

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自分に対して優しい人は、自分だけに優しいわけではない。 (クロライナ王国の牛飼いの老人の遺言)



「いやね、ビドロくん、信じていないわね。そりゃまあ結婚してからは幸せ太りしちゃったけど、若い頃のアタシは王子様にも若き湖畔の賢者にも見初められるほどの美人だったんだから」


「いえいえ、そこは疑ってはいません」


 その言葉に機嫌を良くしたのか、おばさんは王の屋敷の夜間警備について詳しく教えてくれた。何故籠編み職人の妻がそんな事情まで知っているのかは不明だが、情報自体はありがたい。


 王の屋敷の南にある正面玄関は、昼間は二人が門番として立っている。それだけだったらビドロでも知っている。夜間は門番は一人だけである。真夜中に別の者と交代する。その時に今まで歩哨に立っていた者が右回りに屋敷の周囲を一周して異常が無いかどうか確認する。その巡回が戻ってきたら、今度はこれから新しく歩哨に立つ者が左回りに屋敷の周囲を一回りして安全を確認する。新しい歩哨が戻ってきたところで、今までの門番は無事に役目を終了したことになる。屋敷の内部の警備体制については不明だが、最低限、交代要員の歩哨が仮眠している部屋はあるはずだ。姫の寝室は屋敷の北西隅で、人間が一人潜れるだけの大きさの窓が西壁に一つと、猫ならば通れるくらいの小さな窓が北壁に一つある。二つの窓は昼間は開けられていることが多いが、夜間は内側から木の板を嵌めて塞いである。


 もう少し詳しい話を聞けそうだったが、おばさんが連れている十歳の三男坊が飽き始めていたので、ビドロは鄭重に礼を述べて帰宅した。牛の世話をしながら屋敷への潜入計画を練った。屋敷だけではなく、それ以外の場所も考慮する。夜中に動き回っているのを自警団に見られたら怪しまれる。


 湖の水位低下が顕著になってから、夜間の泥棒被害が報告されるようになっていることもあって、その頃からクロライナの街全体を夜間巡回する自警団の警備体制が強化されていた。しかし現実にはそれを嘲笑うかのように泥棒被害は出続けていて犯人は捕まっていない。あくまでも犯罪抑止効果を狙っての警邏なのか、泥棒が捕まる気配も無いし、だからといって更に警備を強化するという話も聞こえてこない。被害の規模に対して負担が大きすぎるからだ。つまり、夜間に街を歩いていても、巡回路から外れていれば遭遇する危険は無い。


 昼間、照りつける太陽の下で頼まれている仕事をこなしながら、考えを進める。姫を連れ出すことに成功したとしても、その後はどうするか。さすがにクロライナの街の中に姫を匿ってもすぐに発覚する公算が高いだろう。となると、死期を悟った老人が街を自ら出るように、白龍堆砂漠のどこかに身を隠すか。だとすると牛も連れて行かなければならない。しかし砂漠では牛に餌を与えたり水を飲ませたりするのも大変だろう。ならば牛は家に置いて行くか。数日くらいならばビドロが不在であっても隣近所の人が気を利かせて牛の世話をしてくれるはずだ。ただし事が落ち着いた後で何らかの謝礼はするべきだろう。


 ビドロは小さく粗末な自宅で、当座分の食糧や水や生活に必要な物を集めた。計画性の乏しさは自覚できたが、姫の生贄の儀式が急遽前倒しになるという不測の事態が起きた以上、仕方なかった。


 夕方になって、水汲みのために湖に向かうと、先日と同様に知り合いの漁師と会った。背負った魚籠の中には、相変わらず小さな鮒ばかりであった。


「漁をしている最中に、湖の底から声が聞こえた。『ウクライナより来た先祖たちの苦難を、今のクロライナの民は忘れておるのだろうな』って。これはきっと湖の主の言葉だよ。俺は魚の声を聞く奇跡の能力を持っているからさ」


 漁師の大言壮語に、ビドロは曖昧に頷いた。もし魚の声を聞く能力が本当にあるのなら、魚籠の中に入っている小さな鮒たちは、何を主張しているのか。


 雑魚は駄目だ。と漁師は否定した。声を聞くことができるのは、長い年月を生きていて、人間と同等かそれ以上に躰が大きくなった魚だけに限られるのだという。長年大事に使い続けている道具には霊魂が宿ると言われているが、それと同じことなのだという。


 だったら漁師は今までに何度くらい魚と話したことがあるのだろうか。という疑問を胸中に抱いたビドロだったが、漁師は急に話題を変えた。王宮に忍び込んで姫に夜這いをかけようとしている奴がいるらしいが、もしかしてそれはビドロのことなのか。


 ビドロは顔面全体から冷や汗が流れるのを感じた。とはいえ、砂漠地帯の気候のクロライナなので、まだ昼の暑さが残っていて、他者から見れば暑さゆえの汗と区別がつかないだろう。


 漁師の話すところによれば、その噂話はすっかり広まっていて、忍び込もうとしている男が誰なのかの予想で賭けて、不謹慎にも一部では盛りあがっているらしい。王の屋敷にまで話は届いていて、夜間警備体制を厚くすることが急遽決まったらしい。忍び込もうと企んでいるのが誰であったとしても、網にかかって捕まって夜這いは失敗に終わるだろう、というのが大方の予想だった。


 漁師と別れてからビドロは地団駄を踏んだ。あの噂好きのおばさんは屋敷の警備体制について有益な情報を教えてくれたところまではビドロにとってありがたかった。けれども潜入のことを広めてしまったのは大迷惑だった。ビドロの名前を出していないところだけがせめてもの救いで、辛うじて首の皮一枚繋がって機会が残った。


 淡い月明りだけが頼りの暗い夜になった。昼間の強い日射しを蓄えていた高い気温もすっかり勢いを失い、あっという間に寒さがクロライナを席巻していた。まだ真夜中でもないのに、夜警の兵と交代要員との交代時の右回り左回り巡回が行われた後は、次の交代の時間になるまで巡回は無いはずだ。決行は今、この時しか無い。


 足音を猫のように忍ばせて、ビドロは急いで屋敷の北西隅へ向かった。話に聞いていた通りの窓があり、木の板が嵌め込まれている。問題はここからどうするか。他に方法が思いつくでもなく、外から握り拳で板を三度叩いた。板を壊すのは得策ではない。物音で警備兵に気付かれる危険があるし、この後姫と話し合いをする必要があるのだから、強引な手段で入り込んでも意味が無い。


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