第4話 仕事は鯉ではない、湖の深みに逃げない。
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仕事は鯉ではない、湖の深みに逃げない。 (クロライナ王国の牛飼いの老人の遺言)
漁師と別れた後、ビドロは水汲みを始めた。旧湖畔に置いた四輪車と現在の湖畔の間を複数回往復して重い水を背負って太腿の筋の突っ張りに耐えながら運ぶ。積載できるだけ水を積載すると、今度は二頭の牛が重量物を運ぶために踏ん張る番だった。まだ日没前で気温の高さが残っているにもかかわらず、二頭の牛は体から湯気を立てるほどに力を入れて四輪車を曳いている。
居住地の途中で牛が疲れたので少し休むことにしたところで、顔見知りの老人と会った。年齢は七〇歳過ぎだが、年を取っているだけあって物知りで、ビドロにとっては伝承や昔話をいくつも聞かせてもらったことがある恩人だった。杖をついた老人は腰を痛そうにさすりながら、ビドロににこやかに挨拶した。年配者にとってみれば、己の長話を聞いてくれる若者はありがたい存在なのだ。
「木は湖畔に隠せ、という言葉があるのを知っておるであろう。白龍堆のような砂漠に木を隠してもすぐに見つかってしまう。木を隠そうと思ったら孔雀湖畔の小さな森になっている部分に隠した方が見つかりにくい、という格言だ。ところでビドロよ、この格言には続きがあるのを知っておるか」
勿論ビドロは知らないので、答えを促しながら老人の頬骨の突き出た痩せた顔立ちを見た。以前から目がよく見えなくなってきたと言っていたが、最近では腰も痛いと言っていて、息子や孫の仕事の手伝いもままならなくなってきたという。ビドロの心の中で、月の無い闇夜のように黒く渦巻いた考えが湧き起って来る。次にクロライナを出て白龍堆砂漠に向かう必要がある老人は、この人になりそうだ。
飛雁姫の代わりに、この老人が生贄になってくれればいいのに。
自らの胸の奥から一瞬浮かんだ考えを、慌ててビドロは打ち消す。恩人の命の重さを他者と比較する傲慢さは、自分のことながら醜悪で恐ろしかった。だが、種を蒔かずに小麦は収穫できないのだ。何かを犠牲にしなければ必要なことを成し遂げることはできない。
「木は湖畔に隠せ。湖は魚に隠せ」
「あれ、逆じゃないですか。湖は魚に隠せ、じゃなくて、魚は湖に隠せ、じゃないんですか。湖の方が魚より遥かに巨大で、隠しようが無いですよね」
「いいや、間違い無い。湖は魚に隠せ、だよ」
「だったら、それはどういう意味の警句なんですか」
「それはワシも知らん」
荒かった牛たちの鼻息が少し落ち着いたので、老人に別れを告げて、再び水運びに精を出す。水の運搬を頼まれていた家や畑に水を届けると、今日の仕事は終わりとなる。といっても帰宅してから、牛の世話をしなければならない。牛の世話が終わる頃には既に日が暮れていて、砂漠性の気候の特色として急激に気温が下がり始める。
「湖は魚に隠せ。って、考えれば考える程、変な言葉だな。もしかして、湖の底に住んでいる巨大な鯉の主が湖の水を飲み込んでいるから水位が下がっている、という意味かな」
可能性をあれこれ考慮しても証拠は何も無いので答えは出ない。今日は王と姫との面会という気の張る重要案件があったので、普段よりも重く疲れてしまった。仕事は鯉ではない、湖の深みに逃げない、という言葉がある通り、今日できることは明日に延ばすこともできるのだ。一晩寝て考えを整理して、明日からまた水運びの仕事を頑張りながら水位低下問題の解決に尽力しようと改めて決意した。
その日はすぐに寝ることにして土の床の上に乾し草の藁を敷いた寝床にごろりと横になって粗末な羊毛の毛布を被って眠りに就いた。翌朝の起床は普段と同じで日の出よりも少し前だ。すぐに身支度を整えて朝の水汲みの仕事に出る。普段よりも迅速に仕事を済ませて時間的余裕を捻出し、伝承や昔話を検証して姫の命を救う方法を考えるために時間を使いたい。
朝の水汲みが終わり、今回も重労働に耐えて頑張ってくれた二頭の牛の世話をしようかというところで、顔見知りの太った女と出会った。籠編み職人の妻で、近所では噂話大好きおばさんとして知られている。彼女は十歳くらいの男の子と一緒だった。
「あらビドロくん、いつも通り仕事なんかしていて大丈夫なのかしら。あのお姫様、湖への生贄として捧げられる儀式の日取り、前倒しになって二日後になったっていうじゃないのよ。あなた、お姫様のことがちょっと好きだったりするんでしょう。今のうちに気持ちを伝えておいた方がいいわよ」
他人の感情を勝手に決めつけるのは大きなお世話であったが、情報自体はビドロにとっては初耳だったので、驚きの表情を押し隠しつつも幾つか質問を投げかけた。昨日の夕方頃の占いによって儀式の日程が前倒しされることに決まったらしい。昨日の時点で二日後ということは、明日には姫が生贄とされてしまうということだ。確かに普段通りに水汲みに勤しんでいる場合ではなかった。
孔雀湖の水位低下の原因調査を悠長にしていては間に合わない。まずは姫をどこか安全な場所に避難させて生贄にされるのを阻止しなければ。可能性としてそのような行動を取ればビドロは国賊として全クロライナ民から非難を受けて重い罰を課せられるかもしれないが、罰が恐かったら最初から王の屋敷に礼儀正しく怒鳴り込んだりはしない。
姫を連れ出して逃げよう。勿論昼間は無理だ。夜中に屋敷に潜入し、姫を攫って脱出する。ビドロはさりげなさを装いつつも、籠編み職人の妻に更に質問してみた。屋敷の夜間の警備体制がどうなっているのか。
「あらあらビドロくん、大胆ねえ。でも確かに明日には若いままに湖に入水してしまうのだから、今夜のうちに夜這いをかけて抱いてしまうというのも、お姫様にとっても最期の思い出になっていいかもしれないわね。お姫様、若い頃のアタシと同じくらいには美人なのに、惜しいことよね」
噂好きのおばさんは色々勘違いしているようだったが、ビドロはいちいち訂正はしなかった。だが、顔の表情には出てしまっていたらしい。
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