第6話 共通点

「ふふふっ、純というか奥手というか。今の奥さんとは、雑誌を騒がせる大恋愛をして結婚したのに」

「だから、昔の話だ。逆に考えてみろ。そこまで積極的な中学生ってのも嫌だろう?」

「確かに。まあ、今時の子供は分かりませんけどね。それで? 稽古はともかくとして、気持ちは前進しなかったんですか?」

「それは、続きを話すさ」


                *


 つまづきはあったものの、稽古は順調に進んだ。立って演じるところの問題は、場面転換のタイミングの食い違いとか、よっぽどのことがなければ大目に見てくれた。やってることが完全に正しいかどうかは分からない。先生本人も「私も初めてだからね」と言った。ただ、僕にはそんなことはどうでも良かった。自己表現の願望成就、なんて気取るつもりはないけど、なんだか、それまで色々あってひねくれ気味だった内面が、ウロコのようにぽろぽろと剥がれていく気分だった。それまで、どちらかと言えば流されるままだった自分の環境に、自分の力であらがっている。それが快感だった。

 そして、夏休みの後半。当初の予定表には『合宿』の文字があった。先生は言った。

「この調子だと、考えてた通りに合宿に入れそうね。仕上げには早いけど、煮詰めるためにやりましょう」

 そうして先生は、三泊四日の日程を簡単にまとめた『合宿のしおり』を僕たちに配った。どこまでもこの先生は、計画がきちんとしている。でも、そこにマニュアルみたいな押しつけがましさはなくて、未知のことをやろうとする、そして共に進んでいく楽しみだけがあった。

 集合場所は学校。全員遅刻無く集まり、先生の引率で電車に乗って、近くの山に向かった。揺られること二時間ほど、それからバスでしばらく走って、公営のユースホステルにたどり着いた。

「予約が無駄にならなくて良かったわ」

 僕たちの仕上がり具合では、中止の可能性もあるかも知れなかったから、と言って先生は笑った。僕も、それを聞いて安心した。もし予定が中止になって、それが仮に自分のせいだとしたなら、申し訳ないにも程がある。そう思っていたのは僕だけ……ではなく、周囲の部員達も似たようなことを考えていたっぽい。

 ともあれ、相部屋三つに、きちんと男女を分けた上で入った。荷物を置くと、すぐに着替えて集まるように指示があって、宿の近くにある公民館での練習が始まった。

 夏の晴天に恵まれた、学校外での練習は、場所の違いこそあっても、それほど変わり映えのしないものだった。確かに、空気のおいしい場所でたっぷり息を吸って声を出して動くことは、開放感に浸れて気持ちよかったし、集中力も増した。僕を含めて、みんな、演じることにかなり慣れてもいた。すぐさま満点を上げられる物ではないにせよ、始めた期間の短さからすれば、めざましい進歩だったんじゃないだろうか。

 それより、普段通りの練習以外で、印象強いことがあった。

 合宿のスケジュールは、練習ばかりじゃない。自由時間というのがあって、文字通り、個人で何をしていてもいいという、辛い練習の合間に設けられた息抜きの時間だった。

「夕食の時間まで、好きにしてていいからね。周りには、これと言って何もないけど、バスで麓に行きたかったら、それでもいいから。ただし、そこまでの運賃は負担してね」

 半数ぐらいが、その許可に甘えて散っていった。残りの半分は宿周辺にとどまった。先生の姿はいつの間にか無い。僕は特に何を決めていたわけでもなく、少し考えた。そして、仲間一人と、周囲の山を巡るハイキングコースを歩いてみることにした。

 少し歩いてみて、分かれ道があった。どちらを行っても道のりに違いはないらしく、先で合流するとのことだったんだけど、右か左かで、少し意見が対立した。結局そいつとは途中で別れ、僕は、その先から一人で歩いていった。

 夏の日差しが程よく木々に遮られ、心地よいまだら模様を地面に映し出す。さらさらと遠くから川の流れる音がして、少し涼しい風が吹いた。さらに歩く。常緑樹が途切れ、クマザサの茂る道になった。水の匂いが濃くなったかと思うと、川のそばに出た。涼やかな光景だった。視線の先に、橋がある。ふと、その上に、知った人影があったのに気づいた。

「先生……?」

 流れる川にかかった橋の上に、確かに先生の姿があった。

 僕は、その姿を遠目に見ながら、不思議な感覚にとらわれていた。

 水面に目を落とし、たたずんでいる先生。きらきらと光を反射する銀色と、桜色のワンピース。まるで、ひらりと浮かぶ花びらのようだった。木々の緑、笹の濃緑、空の青、雲の白、その中にある、一点の春の色。それはまるで、風景画のようだった。見とれるほどに、爽やかな色遣いの、一枚の絵だった。

 ふらりと歩み寄る。その様は、花の蜜に誘われる蜂か、あるいは鮮やかな木の実に惹かれる鳥かどうか。

「あ……」

「ど、どうも……」

 先生が僕に気づいた。たったそれだけのことが、妙に恥ずかしい。何を話すんだ? 話してどうするのか? 頭がぐんぐん真っ白になった。点数を稼ぐとか、誰かを出し抜こうとか、そんな生意気ことは浮かばない。ただ、ものすごい偶然が、僕の鼓動を早くした。僕は、橋の上の、先生のそばに立った。

「麓へは、降りなかったの? 遊ぶ場所は、それなりにあると思うけど」

「あ、いえ。そんな気分じゃなかったので」

「ふうん」

「先生は?」

「私? 私も、騒がしいのは少し苦手でね。ちょっと、一人になりたかったな、とか」

 あはは、と笑う先生。最初は、その言葉が変に重々しく聞こえて、正直心配になったんだけど、先生の横顔に一切の影がないことに気づいて、思い過ごしだということを知った。澄んだ目が、ふっと僕を見る。

「一人?」

「は、はい。途中まで、二人で歩いてたんですけど。さっき、分かれ道で……」

「他の子達とは、仲良くやってる? 私も、全部に目が届く訳じゃないから、ちょっと気になるんだけど」

「それは大丈夫です。むしろ、クラブに入ってから、こんなに仲間が出来たことが、嬉しくて」

「なら良かった。変に対立が生まれてたら、出来る物も出来なくなるからね」

 安堵の表情を浮かべる先生。僕は、安心させるためにうわべの言葉を言ったつもりはない。先生に誘われてクラブに入らなかったら、困難もない代わりに、刺激も少ない学校生活が続いていた。それまでも友人と呼べる存在はいたけど、一つのことを成し遂げるために、深いところまで共有し合う関係なんて無かった。だから、冷静になって振り返れば振り返るほど、先生には感謝の念が湧き上がっていた。

 先生が、川面に視線を移して、呟くように言う。

「みんな、よくついてきてくれると思うな。嬉しい事だよ。こっちも手探りでやってて、誰も音を上げないもの。疲れるでしょ?」

「それは、確かに……。正直、僕も意外で……」

「がんばってるよねえ」

「ど、どうも……」

 素直な賛辞に、またぞろ恥ずかしくなった。僕は必死なだけで、頑張っているっていう自覚はない。おとなしかった僕をここまで必死にさせるのは、ただ、先生の期待に応えたかったからと言うだけだ。じゃあ、その意識はどこから来たかって言うと、それは面と向かって言えるはずがない。僕は、照れ隠しの気持ちで、以前から気になっていたことを聞いた。

「ところで、先生?」

「なに?」

「そもそも、どうして先生はクラブを立ち上げたんですか?」

 僕の問いに、先生は、少し怪訝そうな顔をした。わずかでもそんな思いをさせたくなかったんだけど、もう遅い。

「理由? 言わなかったっけ? 学校側が、文化祭の出し物不足に悩んでたからだって」

「いえ、そうじゃなくて……ええっと……」

 聞きたかったのはそういうことじゃない。自分の言葉不足に困っていると、先生が先を読むように言った。

「どうして、演劇なのか、ってこと?」

「まあ、そんなところです。僕が、声をかけられたのはどうしてか、とか……」

「質問が、二つあるね」

「あ、すみません! その……」

 恐縮しきりの僕に、先生がひらひらと手を振ってから答えた。

「いいよ。一つずつ答えるから」

「お、お願いします」

 不必要に硬くなる僕を見て、先生が、「くすっ」と笑った。それから、軽く息を吸う。

「まず最初はね、私も、大学で演劇部だったのよ。その時にはまっちゃって、でも、自分は役者になれなくて。趣味の押しつけね」

「え? そんな言い方しなくても……」

 言葉の後半がどこか卑屈に聞こえて、僕は、先生の言葉を遮ってしまった。先生も、はっとなった風に、軽く手を口にやる。それは、苦笑いを隠す仕草だった。

「あ、そう聞こえた? ごめんね。けど、君が聞いた二つの質問って、結構絡まってるのよね」

「それは、どういうことですか?」

 素朴に聞き返すと、不意に、先生が軽く目を伏せた。

「……似てる子を見ると、何とかしてあげたいって思っちゃって……」

「似てる……?」

 あふれる快活さが潜まり、青空に少し遠い目をやって、しんみりした調子の言葉が続いた。ふわり、と、桜色のワンピースが風にそよいだ。

「そう。特に君とか見てると、思い出しちゃってね。私も、昔は、ぱっとしなかったのよ。堅実と言えば聞こえはいいけど、無難すぎる生き方で、親も、変化を嫌ってて。毎日がつまらないって事はなかったけど、面白くもなかった。そんな毎日を過ごしてて……今でも覚えてるな。あれは、高校の時だった。学校の社会見学で、どういうわけか、お芝居を見に行ったの」

「社会見学で、お芝居を? すみませんけど、変わった学校ですね」

「でしょ? どういう方針だったのかは知らないけど、私は感謝した。その時、舞台に満ちていた活力を感じて……遠い憧れを覚えたのよ。面白い以上に、なんて活き活きしてるんだろう、輝いてるんだろう、こんなにも、人は変身できるんだ。それが、小さな舞台の上だけでも……。それが忘れられなくて、大学に入った時に、演劇部の門を叩いたの。のめりこんで、色々やってみてからね。私が、自分でも明るくなれたって思うのは」

 その証拠を示すかのように、先生は、にこりと微笑んだ。ただ、その笑みは、作ったような空々しさはないものの、いつも見せる笑顔とは違う、どこか独特なものだった。

「どうして、女優にならなかったんですか?」

 素朴な疑問をぶつけてみる。過去はどうあっても、今の先生の快活さなら、そのまま舞台に立ってもおかしくないのに。僕は不思議そうな顔をしていたのだろう。先生が、悪戯っぽく笑って返す。

「うふっ、その理由は色々あるけど、やっぱり、親に大反対されたからかな。大学からして、地方公務員になれっていう親に従って、教職目指して学部を専攻したわけだし」

 先生は「芝居に出会ったのは、入学した後だったから」と挟んで続ける。

「それと……実は、在学中に、こっそり、プロの劇団の試験を受けたのよ。それに落ちちゃって。ああ、私には適性がないんだって」

「とてもそうは見えないです……」

 僕が『そう思えない』と言ったのは、二つの意味があった。素人目にも素質がありそうなのに、プロの道が駄目だったということもそうだけど、先生の性格と家庭環境が、少し前までの僕みたいだったと告白したことだ。二つ目の驚きについては、分かってくれなかったみたいだけど、それで良かった。でも、一応「先生が、プロの役者になれなかったなんて」と付け加えた。また、先生の顔にかすかな苦笑いが浮かぶ。

「受けたところが、たまたま……って事もあるのかも知れないけど、ダメって言われたら、へこむわよ。もしかしたら、って、ほんの少し期待もしてたし」

 その時の僕は、生で舞台を見たことなんて、あったかないか怪しいほどだった。でも、華やかな舞台に立っているだろう先生の姿を想像して、いいんじゃないかと思った。先生は、僕の空想が一巡りするのを見計らったように「だから」と続ける。

「だから、だったらせめて、昔の私みたいな子達に、自分が変われることの可能性があることを、私なりに教えてあげたいなって。君は、特に私みたいだったからさ。一番最初に声をかけたのよ」

「自分が、変われる……」

 さりげなく重い言葉だった。自分がそうだったからという裏付けがある、浮ついたところのない声の響きだった。

「君は、どう?」

 噛み含めるように繰り返す僕を、ちらりと見て、先生が聞いてくる。川面に視線を落としていた僕は、びくりと驚いた。「ええっと」とどもりながら答える。

「確かに、変わったなとは思います。僕も、熱中できることが今までなくて、正直、練習は辛いかなとは思いますけど、それ以上に、充実してるなって」

 率直なところを述べた。先生の顔が、安堵に緩む。

「良かった。その言葉を聞けただけでもいいよ」

 喜んでくれるのは何よりだけど、自分が得を感じることと、先生の期待にきちんと応えているかどうかは別問題だ。それぐらい、僕でも分かった。だから聞いた。

「僕は……どうですか?」

「どうって、演技が?」

「そのへんです」

 軽くうなずくと、先生は大きくうなずいた。

「うん、かなりいいと思うよ。化けたな、って」

「そ、そうですか? 恥ずかしいな……」

 その言葉に嘘がないことは、先生の目を見れば分かった。しかし、だからこそ恥ずかしかった。頭をかいていると、にこにこと先生が続ける。

「一つ、自信の付くないしょ話してあげようか。君の役ってね、台本を書き始める前の原案だと、主役だったんだよ」

「え、ええっ!? そ、そうだったんだ……。節目節目で出てくるから、出番の割には重要かなとは思いましたけど……」

 すっかり台本を覚えて、立ち稽古も繰り返していると、脚本における自分の『立ち位置』も把握できていた。確かに、僕の演じる役は、派手さはないものの、無かったら成り立たないと思える位置だった。その通りよ、と言ったふうに、先生が軽く驚く。

「あ、分かった? 嬉しいな。さすが読書家、いい目してる」

「いいんですかね……」

「ふふっ、逆にプレッシャー?」

「そりゃ、僕でいいのかなって思います」

「いいよ。ちゃんと選んだんだもの。自信持ってよ」

「え、ええ」

 つくづく、先生は不思議な人だった。放っておけば延々と続きそうな僕の弱音を、ぴしゃりと封じ込める。そして、その言い方に、ひとかけらの強制もない。自信がみなぎったというわけじゃないけど、泣き言を言う気が一切無くなったのは事実だ。少し曇りの晴れた僕の目を見て、先生が話題を変えてくる。

「あのさ、あんまり練習とは関係ない話だけど、聞いていい?」

「はい? なんです?」

「芝居をやってみて、どう? 気に入った?」

 その声の響きには、今までにない物が含まれているようだった。なんとなく、大切な隠し事をおそるおそる打ち明ける小さな女の子のような雰囲気だった。ひどく胸が高鳴った。悪くは答えられなかったし、実際、そうは思っていなかった。

「ええっと……結構面白いもんだな、とか……。あ、さっき先生が言った通り、僕も、変われた気がしますから」

「ふうん……」

「あの、なんです?」

 感心したように言われて、僕は、視線を落ち着けていられなかった。ふるふると、先生が頭を振る。

「ううん、なんでもない。そっか、最初に目を付けた子が気に入ってくれたなら、甲斐はあるかな。気が早いけど、後のこととか考えていいかも」

「後?」

「もしもの話だから、ないしょ」

 少し訝しむ僕に、先生は、すっと立てた指を、唇に当てた。

「あのさ……」

「は、はい?」

 そして、その指が戻った時、僕を見つめる目は、初めて見る真剣みを帯びていた。じいっと、まっすぐにじいっと、真摯な瞳を向けられて、僕は、体中の血が熱くなっていくのを感じた。

 緊迫。

 数瞬。

 静寂。

 真摯。

 視線。

 鼓動。

 無言。

 意識。

 緊張。

 加速。

 困惑。

 言葉の欲求。

 動かない口。

 もどかしさ。

 それ以前で。

 奇妙な充足。

 奇妙な時間。

 不思議な間。

 見つめる瞳。

 澱み無い瞳。

 顔。唇。髪。耳。身体。服。桜色。華奢。可憐。純真。微香。

 目眩。心拍。永劫。思念。混乱。混乱。混乱。混乱。

「がんばろうね」

「……あ? は、はいっ!」

 明るい一言。これまで繰り返し言われたはずの言葉だったが、今までで一番大きな重みと、何より、ぬくもりを感じた。

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