第3話 初芝居
「恋……ですか?」
「広い意味で考えれば、そうかもな。なにせ初めて抱いた気持ちだったから、自分自身の中でも、妙に処理できなかったことだけは……覚えてる」
*
僕は、先生の授業の時間が楽しみになっていた。言い表せない気持ちを持ってはいても、具体的に何か行動に起こす、知恵も勇気もない。いや、もし、自分からお近づきになれる、何かの手段を知っていて、実行するだけの根性を持っていたとしても、何もしなかったと思う。ただ、『近づきたいけど、できないし、そもそもやっちゃいけない』と思いこんでいた。毎日顔を見て、声が聞ければそれでいい。このままでいい。なんとなくいい。そんな日々が続いた。『偶像化』とか『神格化』という言葉を習うのは、もっと後のことだった。
そんなもどかしいバランスが崩れたのは、全くの偶然だった。
その日も、僕は放課後の図書館にいた。数日前から面白そうな新刊が入っていて、早速棚から取り出して、読みふけっていた。自分で言うのも何だけど、僕の読書の速さは結構なもので、二、三日あれば通し読みはできた。まず一回目にざっと読み、それ以降は口の中での朗読をして楽しむ。集中力ってのはすごいもので、朗読している時の僕は、どこか別の所へ気持ちが飛んでいるみたいだった。
「ねえ」
「……その時……で……」
「ねえ、君」
「……現れた! 姿を見て……」
「おーい?」
「うわあっ!?」
不意に聞こえてきた声に、僕は、『静粛に』という張り紙を無視して驚いた。がたん! と椅子が鳴った。
「こんにちは」
「え、せ、先生?」
視線が落ち着くまでに、しばらくかかった。その先に、と言うかすぐそばに、にこにこと笑顔をたたえた桜色の女性……先生がいたものだから、なおびっくりした。図書館は学校全体の施設なんだから、生徒であろうと教師であろうと、部外者でない限り、いてはいけない理由はない。でも、その時の僕は思いっ切り心臓が跳ね上がって、「なんで先生がここに?」という疑問でいっぱいだった。
「あ、あああ、あの……」
「その本、面白い?」
「え? あ、その……」
どぎまぎしていた。こんなに近くに先生の顔を見ていることに。うっすらと化粧の匂いがした。その薬臭さは本当にわずかで、代わりに、どこか香ばしい……そう、明るい太陽の匂いがした。大人の色香、というものは感じなかった。ただ、ばくばくと心臓が跳ねていたことには変わりない。気の利いた言葉なんて浮かばなかった。もし浮かんでも、僕には似合わないことは分かりすぎている。僕はそういう性格じゃない。かあっと顔が熱くなった。
「面白そうに読んでたよね」
「え、ええ……」
「朗読とか、楽しそうだったよ」
「はいっ!?」
なんてことだろう。誰にも聞かれたことがない、聞かせちゃまずいと思っていた秘密の趣味を、よりによってこの先生に聞かれてしまったなんて!
『顔から火が出る』とは、まさしくこんな気持ちなんだろう。うろたえまくって、ますます言葉が出なくなった。つうっと額を伝ったのは、冷や汗だった。変な生徒だと思われる。自分自身で少し奇妙だと思うのに、先生に見られた! 嫌われてしまう!
……考えてみれば、先生が僕ごときに特別な感情なんて持っているはずがないのに、勝手に決めつけて、僕は青ざめていた。
「その本、読んでみたかったんだけどな」
「で、でしたらどうぞ! あ、あのっ、僕、もういいですから……」
「とてもそうは見えなかったけど? いいよ、遠慮しなくて」
僕の奇癖を見ても、先生は訝しむどころか、笑顔のままで続けた。ああ、罵るならいっそはっきりそうして欲しい。小さなことなのに、一人だけ、この世の終わりのような気持ちだった。
「面白いよね」
「な、何がですか?」
「君の朗読」
「あっ……! す、すみませ……」
「なんで謝るの?」
不思議そうに小首をかしげる先生だった。きょとんとした顔が愛くるしい雰囲気をしていたんだけど、残念ながら、半ばパニックになっていた僕は、そこまで気づくことはなかった。先生が続ける。
「物語の朗読とか、好き?」
「は、はい……。実は……」
「ふうん……」
「う……」
何やら考えている素振りの先生を見て、僕は言葉が出ず、消え入りたいほどの恥ずかしさを感じていた。元々褒められることなんて期待していない。ただ、どんよりとした暗い気持ちが、黒い雲のように湧き上がっていた。
「いいね。じっくり聞いてみたいかな」
「……はい?」
「だからさ、君の朗読を、一度大きな声で聞いてみたいなって」
突拍子もないことを言われた気がして、僕は、しばらく目をしばたたかせていた。先生の目は、どこか輝いていた。その意味なんて、やっぱり、うろたえまくっていた僕には、分かるはずもなかったのだけれど。
「その話は、また今度ね。ごめんね、読書の邪魔しちゃって。またね」
「あ、あの……?」
いつまでも戸惑いの抜けない僕に、もう一度にっこり微笑んで、先生は離れていった。
その後、もう一度本を読もうとしたんだけど、まるでできなかった。
図書館での一件があってから、四、五日が経った。あの事は、僕にとってすごく印象があって、僕個人としてはバランスが揺らいだんだけど、先生との日常に、目に見える変化なんて表れるはずがない。都合のいい思いこみをしなくても、教師が一人の生徒と図書館で会った、それだけの事実だったから。何かの期待なんて、そもそもすること自体が間違っている。そんなことは、いくら僕でも分かっていた。
ところが、全く予想できないことが起こった。
「ねえ、君」
放課後。僕は突然先生に呼び止められた。その日の授業では小テストがあったんだけど、その出来に関してかな? と言うより、先生が僕なんかを呼び止める理由なんて、他に思い当たらなかった。
「少しだけ、時間をもらえるかな?」
ああ、やっぱり来た。職員室に呼び出されて、説教をもらうんだ。そうとばかり考えていたのに、違っていた。
「音楽室まで来て欲しいんだけど」
「音楽室?」
おうむ返しに繰り返す僕。先生は音楽の担当ではないことは分かりきっているから、どうしても繋がらない。首をひねっていると、先生は「ほら、鍵は借りてるから」と、白い手の中で、鍵をちゃらりと踊らせた。
「あの、音楽室で何を?」
「まあまあ、たいしたことじゃないから。少しだけ、先生に時間ちょうだい?」
僕の心臓はどくんと跳ねた。別に変な妄想をしたわけではないんだけど、どこか悪戯っぽく言われて、常日頃くすぶっていた胸のもやもやが、かあっと燃えさかった気がした。僕は小さく震えながら、「分かりました」とうなずいた。
そして、音楽室。しっかりと分厚い防音の扉を開き、静まりかえった中に入る。階段状に並んだ座席の前に教壇があって、先生は、そこにパイプ椅子を向かい合わせに二つ置いた。
「座って」
ちょい、と手で促され、言われるままに腰掛ける。先生も、するりと腰を下ろす。先生と近い距離で対面している。そのことだけで、僕の全身はこわばった。腕を伸ばし、膝頭を握りしめ、視線は所在なくさまよった。
「もうちょっと、楽にしようよ」
少し困ったように言う先生。でも、言われてすぐに「そうですか、では」と従えない。むしろ、気楽に話しかけられればそれだけ緊張した。僕は、あの図書館での時のように、額に冷や汗をたっぷり滲ませていた。
「汗、かいてるね」
「あっ……?」
一人でかたかた震えていると、突然、柔らかい感触が額にあった。何かと思ったら、それはハンカチだった。柄を見るほどの余裕はないけど、先生の手のひらに収まる程度の大きさで、ごわついたところのない、上品な肌触りの生地だった。先生の手とそのハンカチからは、やっぱり、日向の……明るい日差しの匂いがした。素早く、僕の汗が吸い取られる。それだけなら当たり前のことなんだけど、先生の手が僕に触れた瞬間、あれだけ強張っていた緊張が、すうっと抜けていった。知らずのうちに、安堵のため息が出ていた。
「落ち着いた?」
「あ、はい」
僕の動揺を見透かしたような言い方。でも、嫌味なところは全くない。こちらをまっすぐに見つめる目。その視線に、いつしか僕も動じなくなっていた。
「それで、こんなに改まって、何なんですか?」
「うん。前に、図書館で言ったこと、覚えてる?」
僕の問いに、先生はこくりとうなずいた。前にあった図書館の事と言うと、まだ覚えてる。あの、初めて朗読を聞かれた時のことだ。その事と、今、先生と二人きりで音楽室にいること繋がらなかったんだけど、ひとまず「覚えています」とうなずいた。
「君の朗読を、聞かせてもらおうと思ってね。ちゃんと。それで呼んだの」
先生が微笑む。あの、一人だけの楽しみだった朗読を聞かせる? 今、この場で? なんて恥ずかしい! 普段の僕なら、即座に「遠慮します」と断っている。でも、その時の僕は少し違っていた。いいところを見せようと思った下心が働いた……のかも知れない。先生が差し出すノートを、僕は黙って受け取っていた。ぱらりとめくると、中には、綺麗な読みやすい字で、台詞がずらずらと並べられていた。それは、お芝居の台本のようなものだった。
「しおりが挟んであるでしょ? そこの、赤ペンで線を引いている人物の所を読んで欲しいの」
「これは、先生のオリジナルですか?」
「ええ、そうよ。仕事の合間を見て、ない頭をひねってね。まだ、全部は書き上がってないんだけど」
「へえ……」
日々の読書で鍛えられた目が、素早く文字を追って、内容を頭に入れていく。テンポのいい、明るい雰囲気のする、なんだかこの先生らしいなあと思える脚本だった。毎日教務で忙しいはずなのに、その隙間で、これだけのものが書けるんだ。僕は素直に驚いた。
「引っかかりは気にしないで、気楽に読んでね。思ったままを声にしてくれたら、嬉しいかな」
「でも、僕……こういうことするの、初めてなんですけど……」
「分かってるって。だから、気負わなくていいのよ」
下心はあるかも知れなくても、それが自信になんて結びつかない。びくつく僕に、ころころと笑う先生。その笑顔で、逆に僕の腹は据わった。
「じゃあ、いきます」
「はい、どうぞ」
僕は、すう、と息を吸って、朗読を始めた。
先生の脚本は、あらゆる面で分かりやすかった。小難しい文学本にありがちな、もったいぶった台詞がなくて、素直な登場人物達が、まっすぐな物語を繰り広げる。大きな声で『演じる』のは初めてだったし、喋る訓練をしていたわけでもない。だから、多少の引っかかりはあった。それでも、自分なりに情感を込めて読んだ。その時、僕は、たった一人でも『観客』を前にした『演技』を体感して、今までに感じたことのない、気分の高まりを覚えた。
「はい、そこまで。どうもありがとう」
「はあっ……」
色をつけてあった箇所を読み終えて、大きく息をつく。通して読んだわけでもないのに、達成感があった。
「うまかったね」
「そうですか?」
「うん、うまかった」
お世辞じゃない。満点をくれたわけじゃないんだろうけれど、おだてているんじゃない。そのことが分かる、短いけど、心のこもった賛辞だった。それは嬉しかったんだけど、喜びが一巡りすると、そもそもの理由が気になった。
「あの、これって、何の意味があるんですか?」
「ん? 君を呼んで、これを読ませたこと?」
「はい。意味があるのかなって。突然のことでしたから」
この先生に限って、ただの気まぐれで、こんな手の込んだことをするとは思えない。単純に理由を聞きたかったんだけど、先生はにこりと笑って、それから、なぜか、どこか困ったような顔になった。
「ないしょ。実になるかどうか、まだ分からないの。無駄にはならないように動いてみるけど」
「動くって?」
「こればっかりは、私だけががんばっても、思い通りにはならないのよ」
「はあ……?」
「あはは」と苦笑いする先生。僕は、分かったような分からないような気持ちだった。
初めての『芝居』が終わって、僕たちは音楽室を出た。先生は「成果が出たら、必ず知らせるから」と言って、音楽室の扉を閉めた。
遠ざかっていく桜色のスーツを見て、僕は、なんだか、大きな二人だけの秘密を、先生と共有した気がして、かなりの時間差で、一人浮かれた。
ところが、さらに数日後。僕は、別のクラスメイトや同級生に、同じく音楽室の鍵を見せて話しかけている先生の姿を何度か見て、ひどく落ち込んだ。自分だけじゃなかったのか、あれは二人きりの秘密じゃなかったのか、やっぱり特別じゃなかったのか……そう思うと、無性に悲しくなって、家に帰ってほんの少し泣いた。
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