第2話 出会い

 僕は、自分で言うのも情けないけど、ぱっとしない生徒だ。引っ込み思案で、気が小さくて、いつも、なんだか自分に自信が持てない。勉強はそこそこで、中の上程度。運動はどちらかというと苦手で、いつもぎりぎりだ。なにも飛び出たところなんてなくて、クラスの中でも目立たない。

 振り返れば、家の環境によるところが大きいのかなとも思う。平凡なサラリーマンの家庭に産まれて、『その他大勢』を地でいくような生活。両親も『目立たず、波風の立たない生活をしていればいい』ことを望んでいる感じで、僕もそれに答えているつもりだった。

 でも、何事も行き過ぎはよくないもので、いつの間にか、不必要に人の顔色をうかがうようになってしまった性格が、その頃の僕たちの年頃にありがちな、思春期特有の反抗期の芽すら摘んでしまっていた。いきがっている奴の多いクラスメイト達に、奇妙なあこがれを持つものの、結局は行動に起こせない。そして、進路とかとは別の意味で、ぼんやりと将来に不安を感じていた。けど、どうすればいいのか分からない。束縛なんてないのに、自分で自分を縛って、うんうんと悩み続ける。

 僕は、そんなしみったれた性格で、何とか逃げる場所を探そうとして、図書館にこもるようになった。静かな空間で、黙々と本を読み続けた。読書感想文の課題に出るような伝記物よりも、もっと突拍子もない空想の話が好きだった。

 それでおとなしくしていれば良かったんだけれど、一つ、変な癖があった。胸が躍る物語を読んで、そのフレーズを、口の中で音読することだ。大声を出すようなことはなかったけど、ぼそぼそと呟く様は、傍目にすごく変に映っただろう。自分自身分かっていたんだけど、やめられなかった。一時だけでも、空想の中に自分の意識を飛ばす事が、唯一と言っていい娯楽らしいものだった。ただ、それを決して人前でひけらかそうなどという気持ちは持たなかった。


 そんな中学生活も最後の年になった三年の頃……僕は、彼女に出会った。

「はじめまして! 今日から、皆さんの授業を担当することになりました!」

 その人は、新しい年度からの新任教師だった。年は、二十四、五歳かな。僕たち生徒の側からすれば年上に決まっているのに、みずみずしい若さがまぶしかった。決して大柄ではなく、むしろ小さな部類に入る体つき。そして、くりりと大きな目、ちょいっとすます鼻、少し厚手の花びらのような唇。同い年の女の子のように、愛らしい感じに整っている。特別に濃い顔立ちでもないのに、よく光を反射して、見る者にはっきりとしたイメージを与えていた。まっすぐ伸びた背筋の半ば程まで長かった髪。身にまとうのは、堅苦しいのとラフな感じのぎりぎりに着こなした感じの、淡い桜色のスーツ。その色合いも、嫌味ではなく、たっぷりのミルクの中に、数滴赤を垂らしただけのような感じだった。なんとなく、小さな子が背伸びして大人の服を着ている感じさえする。

 彼女は、化粧の濃い薄い以前に、内側から輝きを放っている人だった。その光は、高すぎて手が届かないバラの花みたいな遠さと、親しみ深いタンポポの中間を思わせた。

 他に浮かぶイメージとしては、お姫様なんだけれども、玉座にすますよりも、戦場で率先して馬を駆るような活発さ、あるいは勇ましさを感じさせる。小さな身体の何気ない仕草、たとえば、ただ歩くだけにしても、空気の方から進んで道を開けるようなりりしさ。その他、言葉の節々から、元気のみなぎりをひしひしと感じた。それでいて、下品なところがまるで感じられなかったから、不思議だった。

 僕が、彼女について、もし他人から聞かれたなら、『強い女性だ』と即答しただろう。それは腕力のことではなく、芯の強さだった。

 彼女が赴任して数日、直接的で分かりやすい出来事はなくても、僕はそのことを実感した。

 思春期というのは、普通に育ってれば、異性に対する興味が強くなるらしい。でも、素直になれれば誰も苦労しないと思う。興味が湧けば、まず、悪意のあるからかいとして出る。それは、僕の周りを見れば分かった。だいたい、関心の強さと珍しさに比例して、その悪意は強くなる傾向にあるのかな。もちろんと言うか、彼女も対象になった。目をつけられたと言ってもいいかも知れない。彼女は、ありとあらゆる嫌がらせに遭った。初めのうちは、それはもう気の毒になるぐらいの有様だった。関係のない下品な質問や野次で授業を妨害するのは序の口で、たとえば、教室の引き戸の隙間に、黒板消しを挟んで、開けた時に落としたりなんていう古典的な物とか、手が込んでくると、水を張ったバケツをロープで吊る奴もいた。その他、教壇に上がり込んで身体を触る、スカートをめくる、髪を引っ張るなどなど、悪戯と言うには度が過ぎた悪行の数々が繰り返された。

 僕は、それらの行為には関わらなかった。どちらかというとクラス内でも孤立していたタイプだから、関われなかったと言う方が正しいのかもしれない。じゃあ、もし関われていたなら、その悪戯に加わっていたかと聞かれると、多分、おっかなびっくりで遠慮する。たとえその拒絶が、クラス内でのさらなる孤立に繋がったとしても。

 彼女は、チョークの粉をかぶっても、水を頭からかぶっても、その他どれだけ悪戯をされても、困った顔を浮かべるのは少しの間で、すぐに笑顔で立ち直った。僕は、感心とも驚嘆ともつかない思いで、彼女を見つめていた。その前の年だったか、同じように若い別の女の先生がやってきて、同じような嫌がらせにさんざん遭って、とうとう授業中に泣きながら教室を飛び出して、次の日から学校に来なかった……という事件を覚えていたから。僕が彼女の立場なら、絶対泣いてる。それ程のことだったのに、彼女は一切泣かなかった。それどころか、怒るべき所で、はっきりと怒った。

 初めて会った時から、大声でないのに、透き通ってよく響く、凛とした声だったから、怒った時の迫力は、そりゃあすごかった。僕なんかは気が弱いから、文字通り跳ね上がって縮こまった。でも、彼女は怒りを根に持たなかった。どれだけ怒っても、次の日には笑顔で学校に来た。気まぐれとか、物覚えが悪いんじゃない。許しているんだ。なんて懐の深さだろう。自分には真似できそうにない。この人は強いんだ。すごいんだ。たかだか中学生の僕でも、そのことはよく分かった。

 やがて、荒れ狂っていた悪戯も、一ヶ月程でぱったりと止んだ。みんな飽きた……と言うより、彼女の強さ、優しさ、もっと言えば人間の大きさに気がついて、自分のしていることのばからしさを思い知ったんだと思う。

 僕は、気が付くと、周囲の目をうかがっていた。このことが知られたら、単なるからかいじゃなく、違った意味でクラスの男子達から文句を言われる。それはややこしい。もしかすると、同じ気持ちを抱いてる奴は他にもいたのかも知れないけど、とにかく僕は、気取られないように、結果として、いっそうおどおどするようになってしまった。

 僕が彼女……先生に抱いたのは、単なる尊敬とはちょっと違う、ぼんやりと甘くて淡い、憧れのような念だった。

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