花見酒

不二川巴人

第1話 序章

 私は、母校の中学の校庭に咲く、桜の木を見上げていた。学校創設時から植えられていると聞く、幹も枝振りも立派なソメイヨシノだ。まだ、いたずらな冬の肌寒さが感じられる春。ざわりと風が空を駆けるたびに、たくさんの花びらが舞う。

 俳優という仕事について、それなりの年月が過ぎた。高校入学と同時にこの道に入り、三十を少し前にして、自分の名前はそれなりに売れているようだ。

 実力派として評価されているらしいが、それ以上に、人にも恵まれたと思う。挙げていけばきりがない程に、たくさんの人間がいる。

「ちょっと、話があるんですけど」

 ある仕事が終わった後、その『人に恵まれた』と言うのに、もっともふさわしいであろうマネージャーが、傍らから切り出してきた。正直、彼が私のマネージメントをしてくれなければ、今の地位はなかったのではないかと思う。実際、この彼が担当してくれるようになって、私の名前が売れるようになったのだ。仕事の手配から、スケジュール管理やその他、時には個人的な愚痴を聞くために、居酒屋のはしごにもつきあってくれる。敏腕という言葉がぴったりなのに、彼自身は、自分についての文句を一言半句も言わない。年は私よりいくらか下だというのに、全くよくできた男だった。

「何かな?」

「ああ、いえ」

 マネージャーの言葉ははっきりしない。それはこの彼にしては珍しいことだった。私にとって彼は、仕事上でも欠かせない存在だが、それ以上に、気の置けない友と言った方がいい。妙な水くささを感じつつ、また桜の木を見上げる。目を合わせなくても、二人の間なら通じる。私は彼の言葉を待った。

「桜の木は他にたくさんありますけど、ここには、何か思い入れがあるんですか?」

 視線を同じくしての言葉に、私ははっとなった。やはり、見抜かれていたようだ。私は、自分自身の視線が遠くなるのを感じながら、「ああ、そうだよ」と答えた。そのまま続ける。

「この木を見るのも、ここを卒業して以来か……」

 私にとって、この学校の桜は、特別な意味を持つ。

 専門的な分野で成功をなしている人間が、卒業した母校を訪れて、在校生に講義のようなことをする。そんなテレビの企画への出演依頼がなければ、来る機会はなかっただろう。収録はもうすっかり終わって、各スタッフもはけた。ホテルに戻るのはいつでもいい。その桜との『対面』を、私はもう少し味わっていたかった。

「何か、考えていますね? そういえば、あなたは桜の花がお嫌いなんじゃないですか? 毎年、花見に誘っても渋い顔をしますよね」

「いや、嫌いなんて事は絶対無いんだが……ちょっと理由があってな。ここの桜を見ると、思い出すんだよ」

「……ぜひ聞きたいですね、その話」

「いや、先に話を振ってきたのは君だろう? 君から始めてくれよ」

「いえ、やっぱり後でいいです。まずあなたの話を聞くのが、僕の仕事ですから」

 振り返れば、いつもそうだった。彼は、長いつきあいになるものの、およそ自己主張というものをしたことがない。

「私の話は長くなるよ?」

「いつものことじゃないですか」

「特に今回は、だ」

「構いませんって」

 こちらが譲ってみても、頑ななまでに私を立てようとする。こうなったら、私としては、彼の言葉に甘えるしかない。

 さて、と思って、もう一度改めて桜を見る。

 これからのことは、誰にも話したことがない。私の、すべての始まりと言っていい昔話だ。

 私とマネージャーの間に、沈黙が流れる。ざわり、と、桜の枝が、促すように風に鳴った。

「私が、芝居の道に進むようになった、そもそものきっかけの話だよ。ここには、その想い出がある」

「……その話は、直接聞いたことがありませんでしたね。思い出せますか?」

「ああ。詳しく覚えてる。あれは、十五年ほど前、私が中学生だった頃のことだよ……」

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