第44話 始まりの場所
進路学習会も終わり、俺たちは六限が行われている
「泣いてた」
「泣いてない」
「
「泣いてない!」
「ごめん……」
「…………」
「志築さんが考えてることを当てましょう」
「やってみなさい」
「『でも、ちょっとかっこよかった……』」
「バカ! アホ!」
ひっぱたかれた。これはイエスの反応だ。
「しーっ……まだ授業中ですよ、元学級委員の志築さん」
「うっ……元学級委員の私が……」
廊下の突き当たりで、引き戸を開ける。
青空と二階の渡り廊下が広がっている。
俺たちは足を止める。
「中1の夏休み三日目のこと、覚えてるか?」
「え?」
「俺は、覚えてるんだ」
俺は歩を進める。志築も、一歩後ろから着いてくる。
短い空中回廊を渡りきると、古ぼけた建物に辿り着く。
突き当たったドアには『図書室』のプレート。
あの日感じたような、
傾き始めた太陽が作る日だまりの中で、俺はゆっくりと扉を開けた。
「あら」
やっぱり、いた。
いる予感がしていた。
「こんにちは。本、借りに来たの?」
どうしてそうなる。
眼鏡をかけて、前髪をおでこで分けた女性……
「
志築が声を上げて、貸し出しカウンターの前に進み出た。
「まあ……もしかして、
「そうです! 秋月さん、戻られてたんですね!」
「うん。去年から、またここのアルバイト」
「会いたかったです。夏休み終わったら、いなくなっちゃってて……」
「お腹、急に大きくなり始めてね。その後は育児でもう大変。毎日、戦争だったよ」
「そうだったんですね。ということは、今お子さんは……」
「11歳。なかなか大変な子で。やっと少しは落ち着いたから、バイト復帰したの」
秋月さんという名前の女性は、志築と親しげに話している。
そうか……数人しかいないと言われていた、三中の放課後図書室ユーザー。
たしか志築は、その一人という噂があった。
「……そっちの雰囲気あるお兄さんは……一度だけ会ったことがあるね」
そう言って、手元で補修をしていた本を
俺はそれを受け取る。
本の
うわ……懐かしい。この本だ。この『完全犯罪マニュアル』だ。
家にあるのは、後から買い足した相棒だ。
始まりの一冊は、ずっと三中の図書室にいたのだ。
秋月さんは、俺に言った。
「
俺は入り口から進み出て、秋月さんの前に立つ。
「……本当に、書くよりも書いたあとの方が、大変でした」
「やっぱり。大変な道に、ハマりそうだなって」
俺はその言葉に、抱き続けていた予感について尋ねる。
「……もしかして、小説、書かれたことあったんですか?」
「うん。君みたいに、本格的じゃなかったけどね」
「でも、一生懸命だった」
うん、と秋月さんは静かにうなずいた。
「……高校から少しずつ書くようになって。大学生になって、長編書いて。
でも、そこまで。それが精一杯。次は書けなかった。宮国には悪いことしちゃったなあ――
秋月さんは、図書室の窓を見つめて言う。
そこは
「この世界には、本物がいる。読んで書くために生まれてきた、申し子がね。ちょっと本好きなんて程度じゃ、差は縮まるどころか広がっていく。ショックだったなぁ。私、仲間うちじゃ文芸キャラだったから。でも大学に1人、怪物みたいなのがいてさ。本人の意向はともかく、世間が放っておかなかった。たくさんの出版社から声がかかって、デビューしていったよ」
秋月さんは、一人の作家の名前をあげた。
その名は当然知っている。今では様々な文芸賞で審査員にもなっている、中年作家のエースだった。あと10年も経てば、間違いなく
「……あの年もそうだった。君たちと会った、あの年も」
秋月さんは、懐かしむように、だが恐ろしいものを見たかのように、語る。
「すごい勢いで、大人が読むような小説を借りていく子がいた。最初は、借りるだけで読んでないと思った。そういうキャラ作りかなって。でも、話してみたら全部読んでた。すごい読み込みだった。驚いたよ。『沈まぬ
ほら。あいつの
お前は人々の記憶に絶望と希望を
「……だから俺に『完全犯罪マニュアル』はやめとけって?」
「そう。君が、一生懸命書く雰囲気だったから」
「俺が負けて、
「ううん、少しちがう。君が書くものはたぶん、中学生にはウケる。きっと、彼が書いたものよりも評価される。すごいやつだ、恐ろしいやつだ……そういう評判が君をとりまく。でも、本気で挑んだ君だけは、『普通じゃない』怪物の存在を知ってしまう。……君はそれを周囲に隠しながら、偽物の自覚を積み上げる。それが、しんどそうだなって」
「……全部、怖いぐらい当たってましたよ」
「似たような経験があるからね。作家志望は、やりがちなのかも」
それだけじゃ、一瞬だけ作家にはなれても、作家として残れないけどね――
「ところが君は……もっとしんどい道を行った。これは完全に、予想外。まさか、やり返しに行くなんてねえ……」
「あいつは意識の外ですよ。俺は、勉強が嫌で、妄想に逃げただけです」
「アハハハハ。そういうのひっくるめて、適性って言うんだろうねえ」
秋月さんは、すっと手を伸ばして、図書室の入り口の向かい側を示す。
「おすすめって書かれた棚が見えるでしょ?」
「はい」
12年前、俺が見た棚。中身は空で、俺はその棚を見て肩を落とした。
その棚は、今でも空のままだった。
「え? ……どうして?」
秋月さんは、柔らかく微笑む。
「学校の図書室だから、同じ本は1冊しか入れられないんだ。だからちょっと工夫してね……デスバ
「全部……貸し出し中……?」
俺の本が……三中の暗黒大陸、図書室で!?
「君の本の読者は主に中高生……とくに初期の作品群は、大人が読むには耐えない内容だって評判もあるよね。でも私は、だから何だと思う。この中学校は、毎年多くの中学生が卒業して、新しい中学生が入ってくる。常に入れ替わっている。でも君の本は、いつの時代の中学生でも引きつける」
秋月さんは、手を伸ばす。
俺はその手に、始まりの一冊を返却する。
「君のライバルが書いた本は、確かに、今を生きるほとんどの世代を
それは、プロの言葉だった。
長く浴びるように本を読んできたプロだけが語れる、物の見方。
この人は書き手としては、本物じゃなかったかもしれない。
でも、いつかの時点で、この人はこの人として本物になったのだ。
秋月さんは再び、奥の棚を見つめる。
俺の空の棚の隣には『こっちも! 三中出身の作家!』とポップが貼られた棚がある。
その棚は、上の一段だけが空になっている。
「あそこにも2冊だけ本があって、貸し出し中。……2冊だけだと、寂しいと思わない?」
「……思います。俺も志築も」
俺たちはうなずいた。
高校を卒業して何年が経っても、俺たちは毎年訪れるこの日を忘れはしない。
「じゃあ……行っておいで。あのとき、私がそそのかした少年。今や、当代最強の作家の一人。君の言葉なら……きっと扉の向こうにも、届くかもしれない」
俺たちは、深く礼をして図書室を後にした。
六限目終了のチャイムが鳴る。
教室から生徒たちが掃除に飛び出してくる。
駐車場では、使いやすい竹箒をめぐって、二人の少年が取り合いを始めていた。
俺たちは車に乗り込む。
「志築、掃除サボったことあるか」
「ない」
「俺はある」
「よく知ってる」
「実は、碇もあるんだ」
「……ほんと?」
「デスバ島の感想を、掃除時間中一人で喋ってた」
なるほどね。
志築は笑って、車を発進させた。
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