第37話 東京

 春爛漫はるらんまんの4月。

 東京での大学生活が始まった。


 下宿は、東京にも作家の生活にも詳しい白戸しらとさんにお願いして、お任せした。

 結果、23区外の中央線沿線えんせん、ワンルーム・駐車場なしで家賃5万円の物件に俺は住むことになった。


 家賃を聞いたときは、冗談だろと思った。

 高級志向ではないので、もうちょっとお安い方が……と言うと、これが底値そこねだと言う。

 マジで? 宮国みやぐになら、駐車場つきの3LDKを借りて5人家族が住めるぞ?


「あの……それじゃあ車、持てないというか」

「東京の一人暮らしの学生で、車持ってるのは1%もいないと思うよ」

「は? え? どうやって、生きれば?」

「車なんて、朝の6時から夜の10時まではずっと大渋滞だよ」

「…………」

「東京の人は徒歩と電車。原付2種は便利だから、バイクの免許を取るのもありだね。50ccの原付は本当に危ないからやめよう。僕からのお願い」


 徒歩と、電車……

 なるほど、あの蜘蛛の巣以上の路線図ならそういう生活になるのか……

 というか、宮国が車社会すぎただけ? 

 わからん……全然わからん……俺には比較対象が足りない……!


 そしてワンルーム5万円が底値というのは大マジで、稲田大学の徒歩圏内に住む学生たちは10万円を超える物件に住んでいることもそこそこだった。特に女子は、その傾向が強い。俺は小金持ちどころか、地方から来た人間の中ではよくて真ん中、たぶん少し貧しいぐらいだった。


 しかし、東京での生活は気楽だった。

 ごみごみした、匿名性とくめいせいにあふれる街。夜も電灯がついていて、店が開いていて、眠らない街。


 宮国はコンビニこそ24時間営業のところもあるが、ファミレスはすべて夜10時には閉まる。夜中にコンビニに出かければ「夜中にコンビニに出かける人」として市内で認知され、阿久津さんちの息子さん、ろくでもない生活してるみたいよ……なんて評判が飛び交う。夜は暗闇におおわれ、半無法地帯となるので、女子は一人では出歩けない。もし何か事件に巻き込まれれば「女子なのに夜に一人で出歩いていたあなたも悪い」という話になる。だが、東京――少なくとも俺が住んでいる周辺では、夜中だろうと腹が減ればコンビニに行ける安全性があり、そのことを誰も気にとめない。

 映画館は山ほどあり、気になったが見られない映画というものがない。漫画や小説のサイン会はそこら中の書店で毎月のように行われており、箱物のイベントも止むことがない。市街地では、夜の10時を超えても制服姿の中高生が当然に歩いている。宮国のような、不良オーラの中高生たちではない。むしろ線が細くて、品のいい少年少女たちだ。塾の帰りらしい。かなりの割合の小学生、中学生、高校生が当然に塾に通っているようで、見回りの警察官もまったく補導しない。そういう文化らしい。……でもあの中高生たち、翌日は朝のホームルームに出てるんだよな? 学校、塾、寝るの繰り返し? マジで……?


 とんでもないスピード感だ。とんでもない競争性だ。

 子供たちだけではない。大人たちもだ。「地域で、他に店がないから」で生き残っている店がない。床屋も、本屋も、喫茶店も、電気屋も、ゲームセンターですら、生き残っている店は何かしら強みを持って成功させていて、サービスも上質だ。それは同時に、新しくできた店も、あっという間に潰れて消えるのが普通というシビアさになっている。

 ドライで、自由だ。ただ、情緒じょうちょは少し、感じにくいかもしれない。


 大学の講義は、真面目に受けた。

 貯金を大きく切り崩しての進学だから、自然と身が入った。さいわい、大学の講義は高校の授業のような「答えを覚える詰め込み教育」ではなくて、テーマを決めて調査し、レポートを書くという形式がほとんどだった。というのも、大学は「まだ答えが出ていないこと」を扱う場所らしい。社会学部がテーマにするものなど特にふにゃふにゃしたもので、こじつければ何でもレポートの題材にできた。だから俺は、小説のネタになりそうなことや、小説を書いていて気になったことを課題の一環として調べ、レポートにして提出することができた。


 信じられないことに、大学での俺の評価は高かった。中高と学業では落ちこぼれだった俺が大学教授から褒められるなんて、人生、何が起きるかわからない。何百人もが集まる大教室で、名前でなく出席番号で管理される世界だが、俺が提出したレポートは「今回、良かったもの」としてたびたび教授にとりあげられた。


「あー……1年生、阿久津あくつじんさんの『十代の少年少女がいだく、突飛な想像の画一性かくいつせい』ですが……これ、けっこう興味深かったし、学部生としてはよく書けてましたね。今すぐ特殊な人間になろうと思う十代の若者がみんな似たような特殊性に走り、かえって凡庸ぼんようさを明らかにしてしまう社会の構造……ん? 阿久津仁って、聞いたことあるような……何でしたっけ?」


 大講義室は、ざわざわ。


「作家の?」「そうだ、同い年じゃん」「碇哲史郎にボロ負けしたやつ?」「今、ここにいるの?」「『今は、そういうことにしといてください』の?」


 うるせ~~~

 これ、一生言われ続けるのか……?


 ただ、悪い気はしない。稲田いねだ大学は全国区といえども7割が関東出身で、M県出身者の数は1000人中3人程度らしい。つまりここにいるのは、ほとんどが関東もんなのだ。そいつらにも俺の名……それと碇の名が知られているのは、ちょっと嬉しい。


 前期を一つも単位を落とさず終えられた俺は、とても誇らしい気持ちになった。中学以降、成績表と言えば自分のダメさ加減を確認する紙でしかなかったのに。俺、しっかりやれてるかも。レポート試験なら、うまくできるのかも。白戸さんは俺の親に「親元を離れた大学生のかなりはサボりぐせを得て、フル単位とはいかないものですよ。これは、人としてかなりすごいです。阿久津くんは忙しい執筆のかたわら、とてもよく頑張っていますよ」と電話してくれた。俺が何を言っても心配する親だが、白戸さんが言うと完全に信じる。


 7月半ばに前期課程が修了してから、信じられないほど長い夏休みが到来した。

 なんと、9月半ばまでの2ヶ月も休みが続くという。

 夏休みといえど執筆があるので完全なオフとはいかないが、それでも、中学、高校、大学と学校に通いながら執筆を続けていた俺には、持て余すほどの時間が飛び込んできた。


 なるほど、大学生はこういう時間に、サークルで遊びまくるらしい。

 キャンプに行ったり無人島に行ったり、アルバイトを入れまくってごっそり稼いだり。

 入学から3ヶ月で生活環境も整ってきたし、夏休み明けにはサークルに入ろう。

 文芸系もいいが、案外、それ以外の緩いところでもいいのかもしれない。

 ……というか文芸系は、なぜか歓迎されない気がする。気を遣わせる新人になりそうだ。


 7月末には、志築しづきが東京観光にやってきた。

 最初の数日はホテルに泊まっていたが、それからは俺の部屋に泊まるようになった。

 俺たちは一緒に東京のあちこちを見て回り、ほえーとかうわーとか圧倒され続けた。

 夜はお互いの大学の話や、読んだ本の話をした。そして、一緒に眠った。


「そっちの大学に、いい男、いないわけ」


「いっぱいいる」


「じゃあなんで」


「私、男を見る目がないみたい」


「それは……深刻だな」


 以前、白戸さんから女性キャラの恋愛観についてアドバイスされたことがある。「しっかり者の女性は、なぜその男性を? と言いたくなるパートナー選びをよくする」と。「人間って、パートナーには、自分が持っていないものを求めるのかもね」などと、白戸さんは言っていた。


「……でもなんか、わかる気がする」


「どうして?」


「志築、中学も高校も、彼氏いなかったよな。あんなにモテてたのに」


「中学はそういうの嫌だったし、高校は広報部が楽しかったし」


「で、広報部の人たちも、俺も、いかりも……お前の周りって、変なやつだらけだ」


「そう。先輩たちも、あんたたちも、変だった。めちゃくちゃ変だった」


 カーテンの隙間から入った外灯の光が、棚の上を照らしている。


 棚の上には『すごいものができた日』の写真が、ガラスフレームに入れられて飾られている。


「志築の大学にもそういう変なやつ、探せばいるだろ」


「あのねえ……あんたを超える変人、いたら問題ありでしょ」


「碇よりは、全然まともだけどな」


「え……?」


 え。

 なにその「え?」って。


「あんた……本気で言ってる?」


「どう考えても、あいつの方がやばいだろ。いろいろと」


「…………」


「……あれ? 志築さん?」


「……はぁ……あんたたちさぁ……」


 志築が起き上がる気配がした。

 タオルケットが引き剥がされる。やめて。寒い。


 素っ裸にタオルケットを巻いた志築が、自分のスマホを操作している。


「……あった」


「なにが?」


「これ、読んで」


 志築がスマホを差し出してくる。


 そこに載っていたのは、一つのネット記事だった。

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