第34話 たぐり寄せるもの

 17歳が、秋、冬と流れていく。


 冬には北海道への修学旅行があったりもしたが、男女分かれての班、男女分かれてのスキー三昧で、青春的なものを期待させられていたぶん、かなりへこんだ。せめて札幌さっぽろ小樽おたるの散策は、男女を織り交ぜたっていいだろうに……


 頭からつま先まで完全防寒のスキーウェアでは、スキー場で志築を見つけることさえ不可能だった。ウェアの色で男女は区別できたが、帽子とゴーグルをかぶれば誰が誰だかわからない。わかっていないぞ、西鳳せいほう。私立なのに、この修学旅行というイベントの活用が全然うまくない。当然、旅館での自由時間も、異性の部屋に行くのは禁止である。


 昔の俺なら、ふてくされて文句を言っておしまいだっただろう。

 だが、作家としての自覚を得た俺はちがう。

 物語はたぐり寄せるもの。運は強引にでも引き寄せるものなのだ!


 ……碇には……負けねえ!


「志築!」


「……え? あ、なに?」


 旅館にあるお土産の売店で、俺はジャージ姿の志築を見つけた。

 首からオレンジ色のタオルをかけていて、黒髪の毛先が濡れている。

 いもっぽい学校ジャージでも照り輝いて見える、湯上がり志築だ。

 美しすぎる。神の造型センスには、ほとほと感服する。神様ありがとう。


「ちょっと……そこで話さないか?」


「え……?」


 そこというのは、雪の庭を眺められるこぢんまりしたラウンジ席だ。だいだい色の照明がムーディな雰囲気たっぷり。ここでコーヒーでも飲めば、もう大人である。


 志築はためらった。

 激しく目立つわけではないが、売店から少し視線をそらせば視界に入る位置だ。

 おいおいあれどういうこと? というぐらいにはなる。


「まあ……いいよ」


 成功した。俺の、いつにない積極性が勝利した。

 ギリギリの勝負だった。そう、女子たちだって、こんな灰色の修学旅行を歓迎しているはずがないのだ。少しぐらい非日常の中で、非日常的な会話をしたいだろう。俺たちは、人間なのだから。


 側にある自販機で、紙コップに二人分のコーヒーを注ぐ。志築が百円玉を取り出して、俺に握らせる。そういえば、俺は志築におごったことがないことに気づく。高校生としては金持ちなのに。志築も、知らないはずないのだが。


 俺と志築が向き合って席につくと、思いのほかリラックスした雰囲気が生まれた。


 あ……なんか、大丈夫だ。

 俺、志築と肩の力を抜いて話せる。

 志築も同様らしい。


「え、なになに」「……どゆこと?」「できてんの?」「なあ、俺たちも……」


 外野どものおののく声が心地よい。無視だ。

 俺たちは恋人じゃない。でもたぶん、いろいろあって、仲間なのだ。こういうときに周囲の目を気にしないで雑談するぐらいには、今、自然体で友達なのだ。


「長風呂したのか?」


「うん。お風呂、けっこう好きだから」


「以前の俺なら、今ので裸を想像していた」


「今もでしょ」


「いや、それぐらいの自制心は手に入れた」


「へー……まあ、作風、変わってきてるもんね」


「良し悪しだけどな」


「うちの弟は、ちょっとガッカリしてるみたいよ。最近、エッチなシーンが少ないから」


「弟くんの期待には応えられそうにない。美人の姉がいる生活なんて、持ってる耐性がちがう」


「まあ、上も下も女だし、あんたみたいな妄想もうそうじみたあこがれはないでしょうね」


「え、妹もいるの?」


「私、4つ下の弟、6つ下の妹で3人よ。みんな仲良し5人家族」


 志築は、嬉しそうに言った。仲のいい家族が、志築の宝物なんだろう。

 聞けば、志築の両親はうちの両親と20歳近く歳が離れていて、互いに大いに驚いた。


「もうそろそろ、3年生かー……」


 ガラス窓の外に積もる雪を眺めて、志築が言った。


「大学、行くんだよな」


「うん。親は行けって言ってる」


「志築の成績なら、かなり選べるんじゃないか?」


「わからない。定期テストの勉強と受験勉強って、全然ちがうし。中3のときは本番慌てて……落ちたし……」


 そうだった。この神の作った最高傑作は、高校受験で第一志望を落ちて、ここにいるのだ。西鳳の制服を着て街を歩けば基本的にチヤホヤされるので、完全に忘れていた。


「でもM県で一番難しい大学って、M大だろ? 国立こくりつで、あまり難しくないっていう……」


「あそこならまあ、いけると思うけど」


「じゃあ楽勝じゃん」


「いや、だからそうじゃなくて」


「……ん?」


 志築は俺を見つめたまま、長く綺麗な人差し指をまっすぐ立てて、小さなくちびるの前に置く。

 秘密ってこと? そして、声を落として言った。



「……受けるなら、県外かなって」


「え」


 県外――

 志築は小さく笑った。


「動揺しすぎ。というか、なに動揺してんのよ」


「え……いや……その……どこ? まさか東京? いや、この辺りだと……」


 俺はこの地方で中心的とされる、他県の都市名を挙げる。

 志築はあははと笑う。


「ちゃんと日本地図、わかってるじゃん」


「小学校の参考書で、いいのがあるんだ。貸りるか?」


 俺たちは、あはははと笑いあう。


 だが俺は、内心大焦りだった。

 県外。県外なんて――いや、当然か。


 中学で2年間、高校ではずっと同じクラスだから、やはり俺は麻痺まひしていたのだ。

 志築しづき麻衣まいという一人の人格が、当然に、俺の近くにいるものだと。


 たぶん高校を卒業しても、志築は地元の大学に通って、俺は家で作家業を続けるものだと、勝手に想像していた。そうしたら、二度や三度ふられても、積極的にデートに誘おうと思っていた。志築が大学やバイト先で知り合う男たちに負けないよう、頑張ろうと思っていた。


 でもそもそも、志築が遠方に行くとなったら……

 引き留めるしかない?

 いやいやいやいや、何考えてんだ。それは、志築にとっての幸せじゃないだろ。


 実際、志築みたいな好奇心旺盛で誰もが可能性を感じる傑物は、宮国みやぐになんかでかごの中の鳥をさせておくべきじゃない。時の止まった宮国以外を知らないまま、世の刺激を受けないまま、なし崩しで凡庸ぼんように落ち着く志築なんて、俺は見たくない。いや、それだって志築の幸せというより、俺の勝手な願い……わがままなんだろうけど……


「あんたは、どうするつもりなの?」


「いや……作家業は……学歴なくてもできるし……」


「つまり、何も考えてなかった?」


「その通り。無敵だろ」


 俺たちはわはは、あははと笑い合った。


「大学、行けば? じゃないとあんた、大学生が主人公の話、書けないでしょ?」


「う……」


 よくわかってる。俺が今までに発表した作品はすべて、中学生か高校生が主人公だ。それらならまだ読めるが、俺が書く大学生や社会人は「こんな大学生いない」「これは社会人じゃない」とネットでやり玉に挙げられることがたびたびある。……白戸さんの赤入れに対応してもそうなのだから、初稿でのそれらはとてもお見せできるものではない……


「で、でも……いかりは大人が主人公の話書いたよな」


 千年前の、教皇から密命を受けた遠征隊のデミスと、国を守るために命を捧げた中東の王を。やっぱり変態だ。


「今から同じぐらいしっかり読めば、できるようになるんじゃない?」


「それって何百……というか千超えてるだろ」


「千? いや、碇くんはそんなもんじゃ……あれ? もしかしてあんた知らないの? 碇くんの読書記録アカウント」


「…………」


 あの野郎。

 読書記録サイトにアカウントを持っていて、読むたびに書評を書いているのは知っていた。

 だが、そのアカウントは決して教えてくれなかった。

 俺が勇気を出して「俺の作品について、お前の書評を見たい」と言っても、「プライベートだから……」と困り顔をして教えてくれなかった。

 実際、文芸部の誰も、碇の読書記録サイトのアカウントは知らない。


 それを、志築には教えているとは……

 碇……お前……けっこう、やるじゃないか!


 俺の表情から、志築は状況を正確に把握してしまったのだろう。


「あ、いや、ほら。中1のときに私、碇くんに聞いたの。読書感想文すごかったから、いつもあんな風に読んでるの? って。で、その後すぐに教えてくれて」


 知ってる。そのシーンは視界のすみでばっちり見ていた。記憶にも残っている。


「でも、俺が聞いても教えてくれないぞ」


「それは、あんたの本への容赦ようしゃない感想があるから……」


「文芸部の先輩たちから聞かれても、教えてなかったけどな」


「……」


「……」


 勝負ありだ。

 志築は顔を近づけてきて、小声で尋ねた。


「……やっぱり碇くん、私のこと、好きなのかな?」


 そんなの明白だ。

 お前の「いくじなし」がなければ、あいつは絶対に『熱砂の王』を書かなかった。最後まで書けなかった。それぐらい、小説を書くのはエネルギーがいるのだ。


 だが、志築の質問に俺が答えるのは、あの野郎に悪い気がする。

 なので――


「俺の方が絶対に好きだ!」


「あ、うん、どうも。はいはい。ありがとね」


「ひっでえ」


 何度目かわからない、小さな笑い。

 志築は空になった紙コップを手に立ち上がった。

 ゴミ箱にカップを入れると、

 楽しかった、またね――

 志築は手に持ったタオルを揺らすと、女子の部屋が集まっている廊下へ消えていった。


 俺はそのとき、売店の方から視線を感じた。


「碇――」


 芋っぽいジャージを完全に芋っぽく着こなした碇が、立っていた。着こなしについては、俺も人のことは全然言えないが。


阿久津あくつくん……お風呂上がりの志築さんと二人で……いいなぁ……いいなぁ……」


「すっごくいい匂いがしたぞ」


「う、うう……」


「もうなんか、とてつもなくいい匂いがしたぞ」


「う、ううううう……!」


「思い知ったか。これが作家志望と作家の物語力のちがいだ。もしお前の方が先に会っていても、お前は志築を誘えたか? 無理だな。勇気が足りない。だからドラマは起きない」


「うう……くそう……くそう……」


 あ、本気で悔しがってるっぽい。

 いい気味だ。アカウントを志築にだけ教えていた罰だ。


「戻ろうぜ。大富豪で、むしりとってやる」


「えぇ……賭け事はよくないよ……」


「賭けるのはネタだ。負けるたびにボツネタを相手に渡す」


「でも……僕のネタは、阿久津くんじゃ使いこなせないよ……」


「クソ野郎め。だが、そうでなくっちゃな」


 俺は嫌がる碇と肩を組んで、自室へと戻った。



 修学旅行は、かなり楽しかった。

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