第26話 やり直し

 世界は一変いっぺんした。地獄の門が開かれた。


 作家が、たかだか毎日50ページほど小説を読むようになった。学校の勉強を、少し真面目に受けるようになった。


 みんなに言えば、それのどこが地獄だ、と思われるだろう。

 そんなの、けっこうな人が試練とも思わずやっていることだぞ、と。


 その通りなのだ。その程度のことすら試練に感じる自分を認めること、それが地獄なのだ。


 向き合えば、見えてくる。

 今まで意味がないと思っていた情報が、確かな意味を持って俺に迫ってくる。


 時代の流れか、エリート高校であるはずの西鳳せいほうでも、読書趣味はほとんどいない。

 とはいえ、漫画と同じ感覚で小説を読むやつはいる。

 そういうやつにとっては、漫画も小説も「ただの娯楽ごらく」で一括ひとくくりなのだ。

 そいつらは「面白かったから、宿題サボって一気読みした」「徹夜で読んだ。これ、マジでおすすめ」と、自慢のつもりもなく言う。俺はぎょっとする。一気読みって、1日で1冊? 何百ページも、1日で? とりあえず今の俺にはできないことだと、認めるしかない。そんなことをすれば、頭が破裂する。


 学校の現代文も衝撃だった。授業のスピードにはついていけるが、初めて参加した校外模試には絶句ぜっくした。俺は、評論文も小説も、問題文を読むだけでテスト時間が終了してしまった。設定された解答時間が短すぎる……と思えば、半分ほどのクラスメイトが少し時間が足りない程度で、残りはぎりぎり間に合い、いかり志築しづきは時間が余ったらしい。

 みんな……こんな難しい文章をそんな速さで読んで、考えて、答えてるのか……

 西鳳ということもあるだろうが……「高校生」の能力の高さを思い知る。俺はこんなやつらに、自分の書いた本を読んでもらっていたのだ。

 国語だけじゃない。「勉強は無意味」から「勉強には意味があるかもしれない」に考え方を変えてから、みんなが当然に知っていて、俺だけが知らないことの多さに気づいてしまった。少しは取りこぼしを拾いたい。拾う必要がある。いったい、どこからやり直せばいい……?


 昼休み、俺は後ろの席の碇に聞いた。


「……碇。俺が答えられそうにないことって、なに?」


「え……どういうこと?」


「学校で習う範囲で何か質問しろ。俺が間違ったら、質問のレベルを下げてくれ」


「えぇ……なんで……」


「俺のことがよくわかるぞ」


「えええぇ……」


 心底嫌そうな顔をするな。まがいなりにも、お前が大好きなデスバ島の作者なんだぞ。一応まだ、通帳でお前をぶん殴れるだけの資産があるんだ。


「わかったよ……じゃあ始めるよ」


「おう。小声でな」


仙台せんだいって、何県?」

「仙台って何だ」

「…………」


 碇は笑顔で沈黙している。いや、こいつはいつも笑顔だから、これを笑顔と言っていいのかわからない。


「じゃあ……名古屋なごやって、何県?」「名古屋県じゃないのか?」

「日本の、中国地方にある県は?」「……香港ほんこん

「徳川家康って、どんな人?」「天皇」

「鎌倉幕府があった場所は?」「京都と見せかけて……奈良」

「音速って、秒速何メートル?」「音速って、何だ」

「銃弾は、見てから避けられる?」「跳弾ちょうだんに気をつければな」

「…………」


 碇は無言で俺を見た後、


「――――」


 頭を抱えてしまった。


「……僕の負けだよ……もうこれ以上聞きたくないよ……」


「どういう意味だ!?」


 俺が大きな声を出すと、女子グループの中から志築が振り向いた。


「しっ……他の人に聞かれたらまずいよ。阿久津あくつくんは『西鳳せいほうやみ』だよ……」


「西鳳の闇……」


 めちゃくちゃかっこいい……


「君の正体を知ったことがばれると、僕が退学になるかもしれない……本当に怖いよ……」


「大丈夫だ。俺が守ってやる」


「大丈夫かなぁ……」


 碇は泣き笑いのような顔になっている。


「……阿久津くん、もう一度やらせて」


「お? いいぞ」


 なんでこいつは、乗り気になったのだろう。


三権分立さんけんぶんりつって、何?」「陸軍、海軍、空軍」

「政治をするのは天皇、総理大臣?」「そういえば……別人か?」

「弁護士って、何する人?」「逆転して悪を裁く」

「パリはどこの国の首都?」「ロンドン」

「英語が生まれた国は?」「アメリカ」

「全国大会は何を決める大会?」「世界一」

「リットルは何の単位?」「水の重さ」

「インターネットが普及したのは何年ぐらい前?」「50年ぐらい前」

「テレビがカラーになったのは何年ぐらい前?」「……20年ぐらい前?」

年利ねんり14%で百万円の借金をしました。1年間で増える利子りしは?」「14円」

「…………」


 碇は再び黙ってしまった。

 今度はさっきと様子がちがう。めずらしく椅子に深くもたれかかり、天井を仰いでいる。

 そしてその後、勢いよく机に突っ伏した。


「お、おい……どうした?」


「僕が甘かったよ……」


「なんだか知らないが、反省できたならよかったな」


 碇は、ゆっくりと顔を上げた。糸のような目から生気せいきが失われている。

 俺は顔を近づけて、小声で言った。


「とりあえず碇、今の俺はこんなもんだ。で、少しぐらい勉強をやり直そうかなと思ってる。小説を書くのに役立つらしいからだ。大学に行くつもりはない。……で、いったい、どこからやり直したらいい?」


「……3年生」


「中3か……教科書残してたかな……」


 碇は無表情で、首をふった。

 そして、俺にだけ聞こえるように言った。



「小学3年生だよ……」



 その夜、俺は本屋に繰り出していた。

 時間がない。

 心の底からそう思った。

 今は11月。4作目は、白戸さんと「最後の賭け」を打つために、来年5月の刊行に遅らせてもらった。元より、制作中だった4作目は『密告みっこくフェス』『超かくれんぼ』とほぼ変わらず、出したところで……という内容だった。すでに墓穴に入っているのに、自分で土をかぶることになりかねない。なので、4作目は完全リニューアルして来年5月に出す。

 新4作目の初稿は2月が締め切りだ。まだ4ヶ月もある……以前の俺なら、そう思っていたにちがいない。


 だが今の俺はちがっていた。

 書くこと以外に、やるべきことが多すぎる。

 とにかく俺は、学ばないといけない。他の小説も、小学校の勉強も。


 計画としては、まず2ヶ月は読書――加えて勉強――に全力を費やす。

 恐らくたった2ヶ月では、ぜんぜん充分ではないだろう。自称作家・阿久津仁の補修工事にもならないかもしれない。だが、やれるだけやるしかない。


 そして次の2ヶ月で、新たに4作目を書き切る。

 元々作っていた4作目は、完全にボツにする。


 超高校生級の野球部は銃弾を見てから避けまくっているし、超高校生級のピアニストも銃声を聞いてから銃弾を避けまくっている。当然、どちらも白戸しらとさんに猛反対されていたが、「俺は避けられると思います」で押し通した箇所だ。そして黒幕は宇宙征服を考えている。


 なるほど……俺はたしかに、やばいものを書いていた。

 そういった内容の記述がデスバ島に無かったのは偶然だ。ただの奇跡だ。瑞樹みずきがリボルバー拳銃で狙撃するときに「この距離だと……音に振り向いて、弾を見てから避けられるかも」とためらうシーンは、一度は書いた。だが、それにともなう駆け引きまで書くのが面倒くさくなったので、結局消して投稿したのだ。もしあれを消さずに投稿していたら……瑞樹の「全教科学年トップの成績を持つ学級委員」という設定は崩壊していただろう。ネットの読者たちは「作者バカすぎる」「作者のせいで馬鹿になるしかない瑞樹かわいそう」と、燃やしていたにちがいない。実際、あの一文があれば「ちゃんと頭のいいキャラにしてもらえなかった」作中世界の瑞樹はかわいそうだ。


 小説を書くのって……怖いな……

 俺は自転車をこぎながら、初めて小説を書くことが怖いと思った。


 作者の頭の中が、知らずのうちに出てしまう。

 なんでもリアルにすればいいとは思わないが、リアルな方がいい場面で全然リアルじゃないと、それはその世界の出来事ではなく、作者が考えて語っている作り話だと思われてしまう。そうならないためには、読者よりは何がリアルなのかを知っておかないと、まずい。


 俺は本屋に辿り着いた。

 宮国みやぐに市はそれなりの広さを持つが、本屋と言えば3店舗しかない。

 そして、勉強用の参考書? 的なものがあるのはここしかないと、碇に教えられた。だから、家からは一番遠い本屋だが、大回りしてやってきたのだ。


 小学校の内容がさらっとおさらいできる参考書……

 もちろんカラーで……できれば絵とか写真がいっぱいあるのがいいな……


 そう思って自動ドアを通過すると、俺はプレッシャーに襲われた。


「うっ……!?」


 胸の奥から、苦いモノがこみ上げてくる。

 俺は急いで一度外に出て、深呼吸を繰り返した。


 おいおいおい……本屋は俺のテリトリーになってたはずだろ。

 本屋は、作家である俺をめ称える場所になっていたはずだろ……


 肩が、膝が、全身が、本屋に入ることを拒否している。


 なんでだ……今までは全然余裕だったのに……だって中には俺の本があるんだぞ? ほら、堂々と入って、店員さんからサイン本の作成をせがまれたら、気前よく応じてあげてスカッと爽快……

 いや、そうか……

 俺の本が中にあるからか……!


 俺は震えた。入り口から、自動ドアを通して見えるのは『今月の新刊』『おすすめ本』の棚。


 どちらも、表紙が見えるように本が縦置きされている。

 かっこいい表紙。すごそうな雰囲気。

 無数とも言える、名も知らない本物の小説家たちが書いた小説が、並んでいる。

 どう考えても格上。

 デスバ島はともかく、『密告フェス』や『超かくれんぼ』では必敗ひっぱいの相手。

 つまり……俺の本はここにある本すべての、ませいぬ……


 怖気おぞけが立った。

 作家になったことで、特別な人間になったと思っていた。

 全然ちがう。

 素の俺は、一般人とほぼ変わらない、いつ消えてもおかしくない、腰掛こしかけ作家だ。

 自分の現状を知れば知るほど、西鳳のやつらや、志築しづきや碇の方が、面白い話を書けるんじゃないかと思えてくる。


 本屋の前で立ち尽くしていると、自動ドアが開いて天使が現れた。

 学校指定のピーコートを着て、ネックウォーマーに顔を埋めた天使は、本屋のロゴが入った紙袋を手から下げていた。


「「あ……」」


 双方そうほう驚愕きょうがくだ。


 俺は自分の幸運に。きっと志築は、あの阿久津あくつじんが本屋に来たという事実に。


 だが志築は、スタスタと駐輪場に向かっていった。

 俺は、本屋の中へと進んだ。

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