第24話 夕暮れの天使

 さくに囲まれた屋上は、一面を夕日の色に染めていた。


 当然、立ち入り禁止のはずだ。

 しかし、なぜか志築しづきは鍵を持っていた。


「『潜入調査 屋上から見える風景』――今度の学生新聞に載るの。私が通した企画」


 志築はそう言って、誇らしげに鍵を見せびらかす。


「きゃっ」


 山から下りてきた秋の風が吹いて、志築がスカートを押さえる。

 屋上の鍵のキーホルダーが、しゃりしゃりと鳴った。


「なんで、連れてきた?」


「おお……『なんで?』じゃなくなった。少しわかりやすくなってる」


「進化するんだ、人間は」


初耳はつみみね」


 志築は、広報部のシールが貼られたデジカメを取り出す。

 四方の枠から街や学校の敷地を撮った後、夕焼け空の一点を見て言った。


「ここかな」


 志築は俺に背を向けて、カメラを目線の位置に構える。


「パノラマ撮影モードにして……ゆーっくりと」


 志築は、左から右にゆっくりと腰を回す。

 俺はその様を、給水塔のかげに尻餅をついて、見ていた。

 ひざの裏がまぶしい。百点満点の健康的な脚だ。

 腰のくびれが美しい。スカートが短く見えるのは、腰の位置も膝の位置も高いからだ。校則どおり膝下にあわせた丈が、他の女子生徒よりも明らかにミニに見えるほど。


 あかね色の空を背負い、水平線に向かって伸びる、暮れゆく宮国市。

 今、人知れず西鳳せいほうの屋上に天使が降臨し、祝福の舞いを踊っている。


 俺だけが知ることになってしまった奇跡。

 俺は今日、世界で一番恵まれているのかもしれない。


 独り占めしたくない気持ちが勝る。

 天使はいる。この時、確かに、西鳳の屋上に、宮国市に天使はいた。

 そのことを、みんなが知らないことが惜しい。

 俺しか知らないでいいことに思えない。


 白いセーラー服の上、肩の上で切りそろえられた髪。

 もっと長くて、結ばれていた髪。

 この奇跡のような光景の完璧さを奪ったのは、過去の俺なのだ。

 俺は今、世界で一番の幸福に与り、世界で一番責められている。


「学校のカメラじゃ、こんなもんか」


 志築はスカートのポケットから、スマホを取り出す。

 そして再び四方を撮り、宮国の頭上で舞った。


「よし、仕事は終わり」


 志築は、給水塔の陰で座り込んでいる俺のそばに寄ってきた。

 そして、少しの距離を空け、膝を抱えて座った。


「……なんで、2回撮った?」


「学校のカメラで撮ったのじゃないとダメなんだけど、これ、古くて。私のスマホの方がいい写真撮れるの。だから後で……こっそり、すり替えようかなって」


 すり替える……志築らしくない言葉だと思った。

 でもたぶん、その「らしくない」は、俺が勝手に作り上げた設定なのだ。

 本物の志築しづき麻衣まいは、目の前にいる。


「意外とワルなんだな」


「幻滅した?」


 志築はいたずらっぽく笑って言った。


「いや。部外者を屋上に連れてくるぐらいだし」


「人を傷つけないルール違反なら、ちょっとはいいでしょ」


 ご両親に聞きたい。

 どうすれば、こんなにいい娘さんが育つのかと。

 だから、素直に謝る気になった。というか、懺悔ざんげだった。



「ポニテ、本当にすまん」


「あ――」



 志築は、慌てた顔で俺を見た。


「今のは、そういう意味で言ったわけじゃないんだけど」


「わかってる。でも、お前が言ってることが正しい」


 俺は目をつぶって、ひたすら頭を下げた。


 なんてことはない。

 ヒットと呼べるものを飛ばせたのは、ポニテの学級委員をモデルにして、とんでもない環境に放り込んで、えげつないことをさせて、あられもない姿を描いた1回限りなのだ。


 たった1年。華々しいデビューを飾った俺の作家としての格は、どん底まで向かっている。誰が剥がそうともしない化けの皮は勝手にがれた。地力もないのにうぬぼれて、玄人くろうとの忠告を聞かなかった子供が、自爆し続けている。


 うまくいかない。

 俺が楽しいと思って書いたものは、みんなにはつまらないらしい。

 なぜ? デスバ島のときは、それらは一緒だった。でも、密告みっこくフェスも、超かくれんぼも、俺がノリノリで書いたところが、致命的なミスとして語られている。そしてそれらはすべて、事前に白戸さんが指摘していたところだ。俺が「そうとは限らない」と押し通した所だ。


 もしかしてみんな――

 もっと面白いものを知っている?

 もっとよく出来たものに触れてきている?

 そして、俺だけがそれを知らない?


 その時ふと、俺は去年あった、お好み焼きにまつわるエピソードを思い出した。



 家族で外食なんて、俺が作家デビューするまでは年に3回もないイベントだった。

 デスバ島が売れて少し羽振はぶりがよくなってから、俺と親父とお袋は、近所のお好み焼き屋に初めて入った。お好み焼き屋なのに高い、高級店、そういう評判の老舗だった。

 俺たちはメニューを見て息をのんだ。3人で1品ずつと飲み物だけで、1万円札が消える。

 だが、出てきたお好み焼きは、大きく、おいしく、値段に見合ったものだと思った。俺たちは大満足で帰った。


 後日、金に余裕のあった俺は、中学の悪友たちを誘ってそのお好み焼き屋に行った。みんなが、一度は入ってみたいと言ったから「半額は俺が出す」と豪語ごうごしたのだ。それでも、中学生にとって千円を超える料金は高い。みんな千円札を握りしめ「千円札の冒険」と言って、夜のお好み焼き屋に向かった。


 どうだ、滅茶苦茶うまいだろ?

 あ、ああ……うまい、かな……

 帰り道、満足していたのは俺だけだった。

 みんな、「思ってたよりも、フツーの味だったかな」と、言葉をにごしていた。

 一人、衣着きぬきせぬを信条しんじょうとするやつがいて、言った。

「半分以上おごってもらって、すまん、阿久津。正直なとこ……かなり微妙な味だった。値段まで考えたら、高すぎる。ここ、人に勧めるのはやめとけ」

 笑いが起こった。

 え、うそ? マジで? みんな、これよりうまいお好み焼き食ってるの?

 俺はその日以来、「味音痴あじおんち」キャラになった。

 みんな毎日、どんなものを食ってるんだ……? 外食とか、よく行くのか……?



 俺は顔を上げると、志築に尋ねた。


「なあ志築。うちの近くの四つ角に、高いお好み焼き屋あるだろ」


「うん」


「行ったことあるか?」


「ある。小さい頃、一度だけ」


「どうだった?」


「お父さんが一晩中怒ってたのは覚えてる。『二度と行くか』って」


「……お前は?」


「子供だったから、おいしかったよ」


「今なら?」


「まあ……あの値段なら、他のお店かな。駅前にあるお好み焼き屋さん、安くて美味しいよ。あ、お好み焼きなら、県道沿いにもいいところがあって」


 そういうことらしいのだ。俺はどっちも、行ったことなんてない。


「……なんでお好み焼きの話してるんだ、俺」


「自分の本のこと、考えてたんでしょ?」


「なんで俺が考えてたこと、俺よりもお前の方がわかるんだ」


「優等生ですから。中学の通知表は1つ以外全部5」


 一つだけ4。残り全部5。化け物だ。俺は、4だって一度も取ったことはない。

 というか、それでも北高って落ちるんだ。北高きたこう、すげえな……


「何が4だったんだ」


「美術」


「え?」


「好きだったから、けっこう辛いよね。代わりに保体が4ならよかった。女子としては」


 頑張ったんだけどなぁ、漫画が家にないからかなぁ、と志築はつぶやいた。


「漫画、家にないのか」


「知らなかったの?」


「知るか。ストーカーじゃねえし」


「でも瑞樹みずき、漫画禁止の家に生まれたって」


「偶然の一致だ。マジで。知らなかった。本当に」



「…………」


 志築は、くりっとした目を丸くして俺を見ていた。


 そして視線をそらして、幕のような夜が降りてきた水平線を眺める。


「私が絵とか上手くできないのは……やっぱり、見てきたものとか、触れてきたものの量が、ちがうんだなって。引き出しの幅も深さも、全然足りないというか」


 そして、志築は言った。

 寄せ書きが苦手だと。他の女子のように、かわいらしい雰囲気が出せないと。自分の所だけ、ペン習字のお手本みたいになっていると。全体の雰囲気を壊していると。いい子ぶりたいわけじゃないのに、そうしていると思われると。頑張ってかわいくニコちゃんマークを描いてみるが、やはりどこか歪で、かわいいものを描き慣れていない感じが出ると。

 それは、知っていた。寄せ書きとなれば、志築の文字を探していたから。


「でもね、家に漫画はないけど、小説はたくさんあるの。お父さんとお母さんの方針ね」


「だから、けっこう読むのか」


「うん。欲しい本は何でも買っていいって、お金出してもらえるし」


「……『密告フェス』は」


「弟が買った」


「『超かくれんぼ』は」


「弟が買った」


「弟、何歳?」


「4つ下。今、小6」


「どう言ってた」


「すごく面白かったって。お姉ちゃん、サインもらってきて、って」


「……マジ?」


「マジ。お父さんとお母さんが頭抱えてた」


 げ。


「親御さんも、読んだのか?」


「もちろん。うちに入った本は、だいたい家族全員で回し読みする。話の種になるから」


「じゃあお前も?」


「もちろん」


「……どうだった?」


「…………」


 天使が沈黙した。いや、天使だから、沈黙する内容だったのか。


「言ってくれよ」


「まあ……私は、デスバ島の方が面白かったかなって」


「デスバ島の面白さを100とすると……?」


「……」


「……頼む」


「でも……」


「覚悟はできてる」


「……あんたを傷つけるために言うんじゃないからね?」


「ありがたい」



「デスバ島の面白さが100なら……密告フェスが8……超かくれんぼが……3」



 消費税以下じゃねえか!


「まてまてまてまて」


「言えって」


「いや、そうじゃなくて、もしかして、そうだ、わかった、デスバ島の評価が凄く高い?」


「いやー……そういうわけでも……」


 そういうわけでもないのか!

 きっつ……

 俺はそれぞれ何ヶ月もかけて、世間様せけんさまにアホであることを、つまらないやつであることを、きっちり証明したらしい。そりゃ、クラスの連中も微妙な反応になる。当の俺は、自信満々にどうだ面白いだろって顔で書いているのだから。作家気取りで、肩で風を切って歩いているのだから。


「あ、いや、デスバ島は……けっこう面白かった。うん、面白かったから」


「無理矢理なフォロー、ありがとう」


「いや、そうじゃなくて。ああもう、落ち込むな! 顔上げなさい!」


 顔を上げると、志築が真剣な顔で俺を見つめていた。


「いい? 今から言うことは、他言無用よ?」


「約束する」



「私、かなりモテるの」



「……は?」

 いきなり、なんだ。そんな当然のこと、今更言われても。

 中学の頃もモテたが、高校に入ってみんなが恋愛に積極的になってからは、志築がモテモテなのは誰の目にも明らかだった。入学から数日で、他クラスから男子たちが押し寄せ、一緒に遊びに行かないかと堂々と口説くぐらいだった。学年中で噂のヒロイン、というのは実在したのだ。当然、クラスの女子たちからも「志築は選び放題だよね」とやっかみを言われている。志築は「そんなことないよ~」と言うしかない。

 そうか。だから志築が自分の口からモテるとか言ったの、初めてか。


「私が、なんで広報部に入ったかわかる?」


「わからん」


「男子から、一番人気が無さそうな部活だったからよ」


「……!?」


「部活動見学の期間、クラス内外の男子からつきまとわれてさ。私が入るところに一緒に入るつもりでね。見学に行ったら、男子の先輩たちからは滅茶苦茶勧誘されるし。勧誘どころか、連絡先教えてよ……って。女子の先輩たちは、奥からにらんでるし。そんなのばっかり……」


 そういえば、そんな話はクラスで出ていた。

 阿久津、同じ中学なんだろ? 志築麻衣さん、中学で何部だった? 習い事は何してた? 入りそうな部活ってわかる? クラスの男子から邪気なく聞かれたことも、数回あった。


「広報部だけは、男の先輩も女の先輩もそういうのなくて。なんか、浮世うきよばなれしてるというか。変な人たちでさ。ついてきてた男子たちも、さすがに『ここに入ったら高校生活が終わる』と思ったのか、退散したからね。もう、男とか女とかうんざりしてたから、広報部に入ったの。中学のときだって、男子女子で面倒くさいことはいろいろあったし」


 確かに……志築が広報部なんてえない部活に入ったのを嘆く声はあった。

 広報部に入った後ですら、うちの部と掛け持ちしない? と、男子たちは勧誘していた。

 俺だって、もし暇なら文芸部に兼部けんぶしてくれないかなと思っていた。


「……大変なんだな」


「だからさ、デスバ島って、つくづくよく書けてるなって」


「……は?」


 なにが、「だから」なんだ?


「読んでてさ、男子も女子もすごくリアルで、あるある、こんな感じって思いながら読んでたの。嘘とか裏切りが簡単に出る、男子の獣欲じゅうよく、女子の嫉妬しっと。私みたいな主人公がずっとひどい目にあわされてるのは、書いた人間のことを思うと不快ふかいでたまらなかったけど……でも、それ以外の所は、よく見てるなぁ、よく書けてるなぁって驚いてた。それに今読むと、瑞樹のことも、ひどい世界に生まれたもう一人の私って感じで案外読めるし。泣くな、負けるな、いいぞ、ぶちのめせ瑞樹ってね」


「ぶちのめせって」


「あのね。私も拳銃持ってたら、撃ってやりたいやつぐらいいるから。例えば……」


 志築は小さな拳から、細長い指を一本ずつ開きながら言う。


 お気に入りの自転車に、汚いものをかけた塾の男子。


 SNSで、汚い画像を送り続けてきた男子。


 私の友達と付き合ってるのに、恋愛相談のふりして気を引こうとしてくる男子。


 私が肯定できないのをわかってて、かわいいかわいいと連呼してくる女子。


 クラスの打ち上げで、無理矢理お酒を飲ませようとしてくる男子。


 他の女子も来ると嘘をついて、お泊まり会に誘ってくる男子……


「それと――」


 左手の指はすべて開かれた。右手は、人差し指が1本だけ立っている。

 志築は右手の親指を開いて拳銃の形を作り――

 俺に向けた。


「自分を主人公にしたエロ小説を書いて、ポニテを奪った男子、か?」


「……残念。弾切れね」


 志築はそう言って笑うと、再び膝を抱えて、虚空こくうを見つめた。



「あんた、本読みなよ」

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