第24話 夕暮れの天使
当然、立ち入り禁止のはずだ。
しかし、なぜか
「『潜入調査 屋上から見える風景』――今度の学生新聞に載るの。私が通した企画」
志築はそう言って、誇らしげに鍵を見せびらかす。
「きゃっ」
山から下りてきた秋の風が吹いて、志築がスカートを押さえる。
屋上の鍵のキーホルダーが、しゃりしゃりと鳴った。
「なんで、連れてきた?」
「おお……『なんで?』じゃなくなった。少しわかりやすくなってる」
「進化するんだ、人間は」
「
志築は、広報部のシールが貼られたデジカメを取り出す。
四方の枠から街や学校の敷地を撮った後、夕焼け空の一点を見て言った。
「ここかな」
志築は俺に背を向けて、カメラを目線の位置に構える。
「パノラマ撮影モードにして……ゆーっくりと」
志築は、左から右にゆっくりと腰を回す。
俺はその様を、給水塔の
腰のくびれが美しい。スカートが短く見えるのは、腰の位置も膝の位置も高いからだ。校則どおり膝下にあわせた丈が、他の女子生徒よりも明らかにミニに見えるほど。
今、人知れず
俺だけが知ることになってしまった奇跡。
俺は今日、世界で一番恵まれているのかもしれない。
独り占めしたくない気持ちが勝る。
天使はいる。この時、確かに、西鳳の屋上に、宮国市に天使はいた。
そのことを、みんなが知らないことが惜しい。
俺しか知らないでいいことに思えない。
白いセーラー服の上、肩の上で切りそろえられた髪。
もっと長くて、結ばれていた髪。
この奇跡のような光景の完璧さを奪ったのは、過去の俺なのだ。
俺は今、世界で一番の幸福に与り、世界で一番責められている。
「学校のカメラじゃ、こんなもんか」
志築はスカートのポケットから、スマホを取り出す。
そして再び四方を撮り、宮国の頭上で舞った。
「よし、仕事は終わり」
志築は、給水塔の陰で座り込んでいる俺のそばに寄ってきた。
そして、少しの距離を空け、膝を抱えて座った。
「……なんで、2回撮った?」
「学校のカメラで撮ったのじゃないとダメなんだけど、これ、古くて。私のスマホの方がいい写真撮れるの。だから後で……こっそり、すり替えようかなって」
すり替える……志築らしくない言葉だと思った。
でもたぶん、その「らしくない」は、俺が勝手に作り上げた設定なのだ。
本物の
「意外とワルなんだな」
「幻滅した?」
志築はいたずらっぽく笑って言った。
「いや。部外者を屋上に連れてくるぐらいだし」
「人を傷つけないルール違反なら、ちょっとはいいでしょ」
ご両親に聞きたい。
どうすれば、こんなにいい娘さんが育つのかと。
だから、素直に謝る気になった。というか、
「ポニテ、本当にすまん」
「あ――」
志築は、慌てた顔で俺を見た。
「今のは、そういう意味で言ったわけじゃないんだけど」
「わかってる。でも、お前が言ってることが正しい」
俺は目をつぶって、ひたすら頭を下げた。
なんてことはない。
ヒットと呼べるものを飛ばせたのは、ポニテの学級委員をモデルにして、とんでもない環境に放り込んで、えげつないことをさせて、あられもない姿を描いた1回限りなのだ。
たった1年。華々しいデビューを飾った俺の作家としての格は、どん底まで向かっている。誰が剥がそうともしない化けの皮は勝手に
うまくいかない。
俺が楽しいと思って書いたものは、みんなにはつまらないらしい。
なぜ? デスバ島のときは、それらは一緒だった。でも、
もしかしてみんな――
もっと面白いものを知っている?
もっとよく出来たものに触れてきている?
そして、俺だけがそれを知らない?
その時ふと、俺は去年あった、お好み焼きにまつわるエピソードを思い出した。
家族で外食なんて、俺が作家デビューするまでは年に3回もないイベントだった。
デスバ島が売れて少し
俺たちはメニューを見て息をのんだ。3人で1品ずつと飲み物だけで、1万円札が消える。
だが、出てきたお好み焼きは、大きく、おいしく、値段に見合ったものだと思った。俺たちは大満足で帰った。
後日、金に余裕のあった俺は、中学の悪友たちを誘ってそのお好み焼き屋に行った。みんなが、一度は入ってみたいと言ったから「半額は俺が出す」と
どうだ、滅茶苦茶うまいだろ?
あ、ああ……うまい、かな……
帰り道、満足していたのは俺だけだった。
みんな、「思ってたよりも、フツーの味だったかな」と、言葉を
一人、
「半分以上おごってもらって、すまん、阿久津。正直なとこ……かなり微妙な味だった。値段まで考えたら、高すぎる。ここ、人に勧めるのはやめとけ」
笑いが起こった。
え、うそ? マジで? みんな、これよりうまいお好み焼き食ってるの?
俺はその日以来、「
みんな毎日、どんなものを食ってるんだ……? 外食とか、よく行くのか……?
俺は顔を上げると、志築に尋ねた。
「なあ志築。うちの近くの四つ角に、高いお好み焼き屋あるだろ」
「うん」
「行ったことあるか?」
「ある。小さい頃、一度だけ」
「どうだった?」
「お父さんが一晩中怒ってたのは覚えてる。『二度と行くか』って」
「……お前は?」
「子供だったから、おいしかったよ」
「今なら?」
「まあ……あの値段なら、他のお店かな。駅前にあるお好み焼き屋さん、安くて美味しいよ。あ、お好み焼きなら、県道沿いにもいいところがあって」
そういうことらしいのだ。俺はどっちも、行ったことなんてない。
「……なんでお好み焼きの話してるんだ、俺」
「自分の本のこと、考えてたんでしょ?」
「なんで俺が考えてたこと、俺よりもお前の方がわかるんだ」
「優等生ですから。中学の通知表は1つ以外全部5」
一つだけ4。残り全部5。化け物だ。俺は、4だって一度も取ったことはない。
というか、それでも北高って落ちるんだ。
「何が4だったんだ」
「美術」
「え?」
「好きだったから、けっこう辛いよね。代わりに保体が4ならよかった。女子としては」
頑張ったんだけどなぁ、漫画が家にないからかなぁ、と志築はつぶやいた。
「漫画、家にないのか」
「知らなかったの?」
「知るか。ストーカーじゃねえし」
「でも
「偶然の一致だ。マジで。知らなかった。本当に」
「…………」
志築は、くりっとした目を丸くして俺を見ていた。
そして視線をそらして、幕のような夜が降りてきた水平線を眺める。
「私が絵とか上手くできないのは……やっぱり、見てきたものとか、触れてきたものの量が、ちがうんだなって。引き出しの幅も深さも、全然足りないというか」
そして、志築は言った。
寄せ書きが苦手だと。他の女子のように、かわいらしい雰囲気が出せないと。自分の所だけ、ペン習字のお手本みたいになっていると。全体の雰囲気を壊していると。いい子ぶりたいわけじゃないのに、そうしていると思われると。頑張ってかわいくニコちゃんマークを描いてみるが、やはりどこか歪で、かわいいものを描き慣れていない感じが出ると。
それは、知っていた。寄せ書きとなれば、志築の文字を探していたから。
「でもね、家に漫画はないけど、小説はたくさんあるの。お父さんとお母さんの方針ね」
「だから、けっこう読むのか」
「うん。欲しい本は何でも買っていいって、お金出してもらえるし」
「……『密告フェス』は」
「弟が買った」
「『超かくれんぼ』は」
「弟が買った」
「弟、何歳?」
「4つ下。今、小6」
「どう言ってた」
「すごく面白かったって。お姉ちゃん、サインもらってきて、って」
「……マジ?」
「マジ。お父さんとお母さんが頭抱えてた」
げ。
「親御さんも、読んだのか?」
「もちろん。うちに入った本は、だいたい家族全員で回し読みする。話の種になるから」
「じゃあお前も?」
「もちろん」
「……どうだった?」
「…………」
天使が沈黙した。いや、天使だから、沈黙する内容だったのか。
「言ってくれよ」
「まあ……私は、デスバ島の方が面白かったかなって」
「デスバ島の面白さを100とすると……?」
「……」
「……頼む」
「でも……」
「覚悟はできてる」
「……あんたを傷つけるために言うんじゃないからね?」
「ありがたい」
「デスバ島の面白さが100なら……密告フェスが8……超かくれんぼが……3」
消費税以下じゃねえか!
「まてまてまてまて」
「言えって」
「いや、そうじゃなくて、もしかして、そうだ、わかった、デスバ島の評価が凄く高い?」
「いやー……そういうわけでも……」
そういうわけでもないのか!
きっつ……
俺はそれぞれ何ヶ月もかけて、
「あ、いや、デスバ島は……けっこう面白かった。うん、面白かったから」
「無理矢理なフォロー、ありがとう」
「いや、そうじゃなくて。ああもう、落ち込むな! 顔上げなさい!」
顔を上げると、志築が真剣な顔で俺を見つめていた。
「いい? 今から言うことは、他言無用よ?」
「約束する」
「私、かなりモテるの」
「……は?」
いきなり、なんだ。そんな当然のこと、今更言われても。
中学の頃もモテたが、高校に入ってみんなが恋愛に積極的になってからは、志築がモテモテなのは誰の目にも明らかだった。入学から数日で、他クラスから男子たちが押し寄せ、一緒に遊びに行かないかと堂々と口説くぐらいだった。学年中で噂のヒロイン、というのは実在したのだ。当然、クラスの女子たちからも「志築は選び放題だよね」とやっかみを言われている。志築は「そんなことないよ~」と言うしかない。
そうか。だから志築が自分の口からモテるとか言ったの、初めてか。
「私が、なんで広報部に入ったかわかる?」
「わからん」
「男子から、一番人気が無さそうな部活だったからよ」
「……!?」
「部活動見学の期間、クラス内外の男子からつきまとわれてさ。私が入るところに一緒に入るつもりでね。見学に行ったら、男子の先輩たちからは滅茶苦茶勧誘されるし。勧誘どころか、連絡先教えてよ……って。女子の先輩たちは、奥から
そういえば、そんな話はクラスで出ていた。
阿久津、同じ中学なんだろ? 志築麻衣さん、中学で何部だった? 習い事は何してた? 入りそうな部活ってわかる? クラスの男子から邪気なく聞かれたことも、数回あった。
「広報部だけは、男の先輩も女の先輩もそういうのなくて。なんか、
確かに……志築が広報部なんて
広報部に入った後ですら、うちの部と掛け持ちしない? と、男子たちは勧誘していた。
俺だって、もし暇なら文芸部に
「……大変なんだな」
「だからさ、デスバ島って、つくづくよく書けてるなって」
「……は?」
なにが、「だから」なんだ?
「読んでてさ、男子も女子もすごくリアルで、あるある、こんな感じって思いながら読んでたの。嘘とか裏切りが簡単に出る、男子の
「ぶちのめせって」
「あのね。私も拳銃持ってたら、撃ってやりたいやつぐらいいるから。例えば……」
志築は小さな拳から、細長い指を一本ずつ開きながら言う。
お気に入りの自転車に、汚いものをかけた塾の男子。
SNSで、汚い画像を送り続けてきた男子。
私の友達と付き合ってるのに、恋愛相談のふりして気を引こうとしてくる男子。
私が肯定できないのをわかってて、かわいいかわいいと連呼してくる女子。
クラスの打ち上げで、無理矢理お酒を飲ませようとしてくる男子。
他の女子も来ると嘘をついて、お泊まり会に誘ってくる男子……
「それと――」
左手の指はすべて開かれた。右手は、人差し指が1本だけ立っている。
志築は右手の親指を開いて拳銃の形を作り――
俺に向けた。
「自分を主人公にしたエロ小説を書いて、ポニテを奪った男子、か?」
「……残念。弾切れね」
志築はそう言って笑うと、再び膝を抱えて、
「あんた、本読みなよ」
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