第56話 江の島に行く!
夏休みが始まった。
本来なら教師には夏休みなど存在せず多忙な日々が当たり前のように続くのだが、僕は異動が決まっており、七月はその準備期間にあてて良いという事になっていた。
八月からは異動先の学校へ登校する事になっている。
だが、一週間やそこらで借りているアパートを引き払うのは無理で、八月分の家賃と短期解約の違約金まで取られてしまい、かなりの出費を強いられることになった。
せめてもの救いは、引っ越し先が実家なので新たに家賃負担や不動産契約の必要がない事だ。
しかし、離島へ赴く小梢は、引っ越しもだが住む場所を確保しなければならい。
こんな時期に直ぐには決められないので、八月の登校日は実家から片道三時間かけて通学する事になるらしい。
僕とのメッセージは素っ気ないものだが続いていている。関係が絶たれたわけではないが不安は残っていた。
小枝によると、小梢は特別授業の後から部屋に引き籠りがちだという。
事実上の謹慎のうえ、外に出ると人の目があるというのが理由だ。
だが、もう夏休みだ。
やらなければいけない事は山積みされているのだ。
だから、計画を実行するにはもう時間が無かった。
僕の人生で最大の馬鹿を、今日実行するのだ。
僕はたった今から『俺』だ。
小梢には前日、『明日、迎えに行く』とだけメッセージを送っておいた。
既読無視だったが……。
俺は『ライオン』になる。
まだ午前中だというのに外はうだるような暑さだった。自然と歩く速度が増して体温も上昇する。吹き出してくる汗をぬぐいながら俺は歩いた。
小梢の家の前で呼吸を整えて、俺は呼び鈴を鳴らす。
何度も描いたシミュレーションでは、ここで小梢の母が出てくるはずだ。
そこで俺は『小梢さんをお借りします』とだけ言って連れ出す。
俺は、ドアが開くのを待った。
ところが、誰も出てこない。
(あれ? まさか留守なのか⁉)
想定外の出来事に少し焦りが出てくるが、俺は神にも祈る気持ちで再び呼び鈴を鳴らした。だが、反応はない。俺は三度呼び鈴をならしドアが開くのを待つ。
四回目を鳴らし五回目を鳴らそうかという時、ようやくドアが開き小梢が顔を出したが、俺を見ると驚いた表情を見せた。
「来い!」と一言だけ言って、俺は小梢の手を握ると引きずり出すよう連れ出し歩き始めた。ゆっくりはしていられないのだ。
「ちょっ⁉ なに? なに? どこへ行くの?」
「駅だ! 時間が無い、黙って俺についてこい」
戸惑う小梢を強引に引っ張って行くが、当然、小梢は抵抗して足を止める。
「いや、だから、わたし小枝!」
「へ?」
思わず立ち止まり、改めて確認すると確かに小枝だ。
「ヤダ! どうしてそこで胸を見るの?」
そう言いながら小枝は胸を隠す仕草をした。
計画を焦るあまり、肝心なところでミスを犯した自分に膝が折れる気がしたが、今はそれどころではない。
「ゴメン、小梢は?」
「まったく~
お姉ちゃんなら部屋にいるけど、連れて来る?」
「うん、頼むよ。大事な用があるんだ」
「分かった。でも、どうしたの今日は?
今の調子だと、お姉ちゃんも怒ると思うよ。森岡さんらしくない」
『僕らしくない』、それは俺が一番分かっている。だが今日だけは強引で馬鹿な男にならないと小梢を手放す事になりかねないのだ。いや、もしかしたらこの馬鹿で小梢に愛想をつかされる恐れもあるが、これは賭けだった。
「分かってるよ。でも、強引にやらないと小梢は動かないと思って」
「やれやれ、何を企んでるのか分からないけど、喧嘩別れはしないでよ 笑」
また小梢の家へ戻り、玄関で待っていると二階から小梢たちの声が聞こえた。
当然だがもめている。
「もう! 何? わたし忙しいんだから!」
「だから知らないって、それにゴロゴロしてるだけじゃない、いいから来て!」
小枝に連れられて降りてきた小梢は明らかに不機嫌だった。しかも引き籠っていたせいか青白い顔をしている。
特別授業の後に実際に会うのは今日が初めてだったが、随分と長い間会っていないような錯覚に陥るほど小梢との距離が開いてしまった気がした。
「圭君、どうしたの?
まだわたし達って謹慎中でしょ。来月になれば会えるし、騒ぎになるような事するなんて、何を考えてるの?」
「ゴメン、来月だとなかなか会えなくなるし、どうしても会って伝えたいことがあったんだ。黙ってついてきてくれないか?」
「ここじゃダメなの?
わたし、暑いから外に出たくないのだけど」
小梢は気怠そうに言い放った。俺が何を伝えたいのか知らないのだから仕方ない。だが俺は四年前に決めていたのだ。だからここではダメだ。
「うん、行こう!」
「きゃっ! なに? もう! 手を離して!」
再び、いや今度は本当に小梢の手をとり、小梢の家を後にし歩き出す。とにかく時間が無い。俺は少し焦っていた。
「もう! 手を放してよ、ついて行くから!
こんな所を他人に見られたら何て言われるか」
「俺たちは付き合ってるんだから、手を繋いだくらい他人にとやかく言われる筋合いはない。もうお前を離したくないんだ」
「もう。 さっきから何? 『俺。俺』って、似合わないからやめて!
それから、手を離して! ちゃんとついて行くから!」
そう言うと小梢は僕の手を思い切り抓った。
「イタタタタ!」
僕は『猫』になった。
「酷いよ、思いっきり抓るなんて……」
「だって、こうでもしないと落ち着いてくれないんだもの。
ホント、一体どうしたの? こんな事して、また変な噂が流れるわよ」
「噂なんて、気にしないんじゃなかったの?
それこそ小梢らしくないよ」
「だって、圭君まで巻き込んで迷惑をかけたじゃない。
わたし、本当はあなたに会す顔がない気分なのよ」
「僕は迷惑を被ったなんて思ってないよ。そんな事を気にして僕を避けてたの?」
「うん。 まあ、そういう事になるけど、これから引っ越しの事も考えないといけないし何かと忙しいわ」
「だから、本当に忙しくなる前に、どうしても付き合って欲しいんだ」
言い争いをしながら歩いていると駅に着いたのだが、なぜか小枝が先回りして待っていた。
「はい、スマホとお財布、それに必要そうなものポーチに入れておいた」
そう言うと、小枝は小さなショルダーバッグを小梢に渡した。
「あ、あとそれも履き替えておいた方が良いかも、はい」
そして、今度はサンダルを渡した。小梢は、よく見るとスリッパのようなものを履いている。
「ありがとう、まったく、急に連れ出すから……。
で、何処へ行くつもり?」
サンダルに履き替えながら小梢が上目遣いで尋ねる。長いまつ毛が少し汗で濡れていた。
「江の島に行く!」
「え?」
「え⁉」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます